アクセル・ワールド 23

 ネタバレあり。
 先頃の白のレギオンとの領土戦前に、白の王はかつてバーストリンカーであった若宮恵の記憶とBBプログラムを復活させた。若宮恵(オーキッド・オラクル)は白の王のバーストリンカーとしての≪親≫であるサフラン・ブロッサムを復活させるという言葉を聞いて、その力を振るったがハルユキがサフラン・ブロッサムのポイントを全損させたのは白の王だと知って、利用されていることに気づいて無制限中立フィールドを領土戦ステージに戻した。しかしそれ以後彼女と連絡が取れず、七王会議の場でウルフラム・サーベラスがオラクルの能力を使った。そのため若宮と仲の良い黒雪姫は彼女のことを心配していて、明日にハルユキと共に若宮家を訪問することにする。
 ハルユキはその前にオーキッド・オラクルと同じくサフラン・ブロッサムの≪子≫である白のレギオンのローズ・ミレディーの話を聞きたいと思う。ハルユキは黒雪姫と共にハイエスト・レベルに行きハルユキにとってのメタトロン的な存在である、アマテラスにハイエスト・レベルで会い事情を説明してローズ・ミレディーと連絡が取りたい旨を伝える。
 その後二人は現在のネガ・ネビュラスのメンバーたちが集ってのVRスペースでのミーティングに参加。白のレギオンの罠で、無制限中立フィールドで神獣級エネミ―≪太陽神インティ≫によって無限EK状態となった黒雪姫ら五人の王を救出のために必要なことが語られる。敵は神器≪ザ・ルミナリー≫で神獣級エネミー≪太陽神インティ≫をテイムしている。ルミナリーの冠はそれほど頑丈でないのにインティの炎でも壊れない炎耐性があるのは、無制限中立フィールドに放浪しているとされる鍛冶屋を見つけて強化したのだろうと推測する。そのため自分たちも鍛冶屋を見つけて、強化外装を強化してインティの炎を貫けるようにする。そのように対インティ戦に向けてやるべきことを決めた。
 その話し合いを終えた後に黒雪姫はハルユキに、自身の出生の秘密を明かす。
 翌日ローズ・ミレディー(越賀莟)から連絡を受け、リアルで会う。オラクルと親しい彼女はオラクルを助けるために、白の王から離反して黒雪姫とハルユキに協力することを決めた。そして越賀から加速中の記憶についての話とオラクルに悪影響を及ぼさないためにも正常にバーストアウトさせることが必要だということが聞かされる。
 そして三人で若宮恵の家に行くと入院していることが告げられる。黒雪姫は現在無現EK中なので、越賀莟とハルユキの二人が若宮恵を助けるために、彼女が眠る病室で直結回線をして無制限中立フィールドに潜る。無制限中立フィールドでローズ・ミレディーは自分が必要としているものの在処を教えてくれる必殺技を使う。現実世界で回線を直結させたのは、そうすることで彼女がいる場所へと導いてくれるのではないかと考えてのこと。
 そして、かつて加速研究会が利用していたミッドタウン・タワーへと導かれた。そこでルミナリーでテイムされた強力な敵エネミ―の後ろに全身を鎖で縛り付けられている二体のアバターを発見。鎖を切るには相応の時間が必要だということで、まずそのエネミーと戦うことになる。その戦いの最中にハルユキは三代目クロム・ディザスターだった者の声を聞き、その助言通り動くことで敵を剣で断ち切ることができた。何故そのような現象が起こったかは不明だが、戦いの中で剣を使えるようにパワーアップ。強力な敵を倒して二体のアバターを救出すると、オーキッド・オラクルと少し前のミーティングで話に出た放浪の鍛冶屋だった。そうして思いがけず放浪の鍛冶屋と出会ったハルユキは、自分の剣を強化(炎熱属性無効)してくれることを頼む。しかしバーストポイントが足らずに凍りついていたら、ローズ・ミレディーが炎熱無効を頼もうとしているのを見てインティ対策と察し、代わりにポイントを払ってくれた。そして放浪の鍛冶屋は剣を強化した後に飛び去り、オラクルを抱えるローズ・ミレディーとハルユキはエネミ―が迫りくる中でポータルに飛び込み、無事脱出に成功する。
 そして現実に戻ると若宮恵(オーキッド・オラクル)は目を覚まし、越賀莟(ローズ・ミレディー)と現実で初めての対面を果たした。その加速世界では長く親しい付き合いのあった二人の現実での対面シーンいいね。

家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像

家康研究の最前線 (歴史新書y)

家康研究の最前線 (歴史新書y)


 「松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」
 「三河物語」以来、家康から8代遡った親氏が、新田氏末流で諸国放浪の果てに松平家に入り婿して松平氏を名乗ったというのが将軍家の正史とされた。入り聟となった初代親氏(信武・徳翁)の同時代史料はないが、17世紀に松平郷でまとめられた「松平氏由緒書」(由緒)には諸国流浪の僧形の人物で、都風の教養にあふれた人物と描かれる。三代信光やその従兄弟(かつ義兄弟)と推定される益親が京都に強い関係を有していたことから、『<京辺りの下り人が入り聟になったことをきっかけとして、その後の松平氏の飛躍につながることになる京都との人脈が生まれた>という史実が、潜んでいる可能性は十分に考慮されうる。』(P24)
 『初代徳翁を聟に迎え入れた松平太郎左衛門尉信茂(信重)は、一族が信仰する「不思議の井戸」の神(この井戸は現存する)の生まれ変わりで、たいそう裕福な暮らしぶりで「十二人の下人」を従えて、彼方此方に出向き道や橋を造るのに従事していたと記されている。
 土木工事に長けた集団が、土木工事の核心にある土掘り(土公神の祟りを避けて掘る)に関する自らの技術の粋を集めた井戸を神聖視し、棟梁を井戸神の生まれ変わりと説くは自然である(村岡:二〇一三)。』(P24)
 初代徳翁の後に家督を務めた泰親(祐金・用金)には初代の子説と弟説があるが弟説が有力。そして嘉吉三年(1443)に泰親の子とされる『益親は洛中に屋敷を構え(「政所賦銘引付」)、畿内で金融活動をしており、「有徳人」であったと考えられている。大浦などの荘園の代官請負は、権門相手の金融活動の債権として入手した利権であろう。益親の子勝親についても、京都における「有徳人」としての活動が知られている(平野:二〇〇二)。』(P29)
 益親や親則(三代信光の子)は当時自分たちのことを賀茂姓と認識していた。『賀茂氏は、歴日の知識を以って朝廷陰陽師の座を占め、その傍流は、土にまつわる作事において必需とされた「土公の祟り回避」の作法に、歴日の知識を援用し、民間に活動した。
 すると、「由緒」が伝える井戸神を神聖視する土木技術集団の棟梁であったという松平太郎左衛門尉のなりわい伝承と、賀茂姓を名乗っている史実とが交差する。信光時代の松平氏が、賀茂姓を自任していたことからすれば、先祖が土木技術集団の棟梁(陰陽の徒)であったという記憶をこのころまでは伝えていたであろう(村岡:二〇一三)。』(P31)

 「家康家臣団は、どのように形成されたのか」
 関東に移った家康が、格段に高い知行高を与えた井伊直正(12万石)、本多忠勝(10万石)、榊原康政(10万石)。その井伊直正、榊原康政本多忠勝の三人に家康が付けた「附人・与力」。『これは主に近世史研究の側から提起されたもので、家康から付けられた附人が三人の武将の配下で活動し、家康と各武将との間を取り持つ役割を果たし、彼らが近世における譜代大名家臣団の根幹をなしていくというものである。』(P93)
 『附人を付属された武将と附人の関係は、戦国大名の「寄親・寄子」の関係と類似している。(中略)寄子は合戦に際して寄親の軍事指揮下に入って与力として行動するが、頼子は寄親の被官ではなく、あくまで大名の被官とされる(小和田:一九六七)。』(P96)
 『本多家附人の都筑・梶・河合の三人については、自身の知行地のほかに「寄子給」(与力給)を幕府から与えられていた。(中略)この寄子給もいったん幕府に返上し、改めて本多家より給付されたようである。寄子給は本多忠政から政朝に家督が引き継がれたあとの寛永十年(一六三三)、家臣への知行割替えの際に廃止となる。本多家からの知行給付、さらに寄子給の廃止により、附人は本多家との主従関係に基づく家臣に転化していくのである。(中略)井伊家の場合、附人で家老を務めた木俣家は、歴代藩主が家督相続し、江戸城に御礼登城する際には、木俣家当主も登城し将軍にお目見えすることが慣例となっていた。
 当主の家督相続の折に、附人の家臣が将軍に御目見えする慣例は、本多家附人の都筑・梶家などでも見られる(『愛知県史』資料編22)。(中略)附人筋の家系では、大名家臣に転化したのちでも、徳川将軍家の直臣であった意識は残っており、将軍への御目見えを誇りとしたのである。』(P97-8)

本好きの下剋上 第四部貴族院の図書委員6

 ネタバレあり。
 ローゼマインにとって二年目となる貴族院の授業が始まる。フラウレルムが一発合格させまいとしての昔の講義内容を試験として出すという嫌がらせをしたが、エーレンフェストでは以前の授業も勉強の範囲に入れていたので無事その試験も一発で終える。
 ローゼマインは、ルーフェン先生の授業でシュタープを武器防具に変える時に見なれた神具の形にしたり、試験で盾で防御する際にフェルディナンドからもらったお守りが作用したり、見なれない水鉄砲という武器を作るなど色々と目立つ。水鉄砲はこの時点では単なる玩具の威力しか出なかったが、授業後に矢のイメージで魔力を撃ちだすと実際に矢となって武器としても使えるようになった。
 ローデリヒがローゼマインに仕えたいという思いを切々と述べたことで、それを聞いたローゼマインは『名を受けてほしいと願うローデリヒは、側近として召し上げていなくても、とっくにわたしの臣下だった。』(P130)と感じて、今まで名を受けることを躊躇していたが名を受けることを決心する。
 今年も早々に授業を片付けて図書館に行くと、誰もいないと思って図書館に来た第三王子ヒルデブラントと会う。
 エーレンフェストの寮監ヒルシュールがアーレンスバッハの学生で中級文官見習いのライムントを弟子にしていると知って、ピリつくローゼマインの側近たち。彼自身はヒルシュールと同じく学者肌で政局には興味もない人間であるようだが、ヒルシュールや彼を通じてアーレンスバッハに情報が漏れることを恐れる。そのため領地に早速そのことを報告して返事を待つ。するとフェルディナンドが自身の作成した魔術具の処分のことでヒルシュールに会いに行くという名目で貴族院に来る。ライムントはフェルディナンドに教わりたいと思っているため、フェルディナンドは彼を弟子にして逆に彼から情報を得ることにしたようだ。
 図書館でシュバルツとヴァイスの着替えをしていると、再びヒルデブランド王子が図書館にやってくる。その時の会話の結果、ヒルデブランドもシュヴァルツとヴァイスの供給の協力者として登録することになる。そして図書館でのお茶会に王子も招待することになった。
 ターニスベファレンという特殊な魔獣がエーレンフェストの採集場所に出現して、エーレンフェストの学生たちでその魔獣を打倒する。ローゼマインが戦いの後に荒れた採集場所に癒しを与えると、採集場所の魔法陣が思いがけず作動して完全に元通りに再生完了。
 図書館でのお茶会ではローゼマインが興奮しすぎで倒れて、そしてローゼマインは今年も早々に領地に帰還する。
 エピローグでは今年も貴族院で色々なことが起きたので、それに頭を痛めるエーレンフェストのローゼマインの保護者組の話が書かれているのがいいね。

今川史研究の最前線 ここまでわかった「東海の大大名」の実像

今川氏研究の最前線 (歴史新書y)

今川氏研究の最前線 (歴史新書y)

 「駿河今川氏の「天下一名字」は史実か」『『今川記』によれば、永享の乱鎌倉公方足利持氏が幕府にそむいた事件。一四三八年)での功績により、第六代将軍の足利義教(一三九四~一四四一)から駿河今川氏の当主一人のみが、「今川」と称すことを許されたとする。これは「天下一名字」としてよく知られている。』(P27)その話は事実か否か。
 『永享の乱において、今川氏全体で幕府方として活躍が確認できるものは、実はこの持貞ただ一人なのである(足利将軍御内書并奉書留)。』(P36)そして持貞は仲秋系の遠江今川氏で、駿河今川氏とは別。永享の乱以降の幕府番帳(奉公衆の名簿)でも、駿河今川氏以外の一門が今川○○と書かれている。そして小鹿氏(駿河今川氏の分家)、堀越氏(了俊系の遠江今川氏)は16世紀に入っても今川と呼ばれていた。
 『つまり、永享の乱駿河今川氏が将軍家から栄典を賜ったということも、その後の今川一門が「今川」の名字を否定されたことも、事実に反するといえる。以上により、駿河今川氏が将軍家から栄誉として授けられたとする「天下一名字」は創作であり、その事実関係は明確に否定される。
 しかし、その一方で十六世紀に入り、一門が「今川」を称さなくなり、駿河今川氏の「今川の独占化」がなされたことも事実である、だがこれも将軍家の意向ではなく、駿河今川氏自体が他家を「今川と称せなくさせた」と考えられる。
 駿河今川氏は一門の今川名字を否定し、自らの「一名字」を推進したのである。要するに、駿河今川氏は一門との別格化を図り、これに成功したのである。』(P47-8)
 「織田氏との対立、松平氏の離叛はなぜ起きたのか」家康が人質となった経緯。『天文十五年(一五四六)には、駿河今川氏・尾張織田氏・牧田氏・松平反勢力(信孝や酒井忠尚)と松平広忠・田原戸田氏との対立構図が展開するに至るのである。』(P155)そして駿河今川氏は田原氏を攻撃するも失敗に終わり、尾張織田氏織田信秀)は松平を攻めて降伏させた。『通説として、江戸時代に作成された諸書により、この年に広忠の嫡男竹千代(のちの徳川家康一五四三~一六一六)が駿河今川氏へ人質に出されたところ、姻戚関係にあった田原戸田氏に奪われ、信秀に渡されたという。しかし、近年の研究成果によると、同時代史料からはその事実はうかがえず、竹千代の信秀への人質は、この広忠の降伏の時になされたと考えられている(村岡:二〇一五、平野:二〇一六)』(P155)
 「「三河守任官」と尾張乱入は関係があるのか」桶狭間合戦直前の義元の三河守任官。公家や寺社が世話になった礼として朝廷に働き掛けて叙任を示す口宣案が出される場合もあり、その場合にはそうして得た正式な官位を使わずに、私称の官位を用い続ける場合もあった。近衛久前が関東で世話になった者への口宣案発給を申請し、太田資正には民部大輔、その子氏資には大膳大夫、由良成繁には信濃守に任官する口宣案が出た。『しかし資正、氏資ともに任じられた官位を用いることはなく、資正しは以後も師匠の美濃守を用い続け、氏資も源五郎のままであった。(中略)これは、民部大輔・大膳大夫が太田氏にとってゆかりが無い官途で、政治的に用いるメリットがないと判断して用いなかったのである。
 由良成繁も口宣案をもらって二年は従来の雅楽助を用いている。ただし成繁の場合は、信濃守が父祖代々用いた官途であるため、六年後の永禄十二年(一五六九)以降は信濃守を用いている。』(P177)織田信秀三河守任官も、信秀が伊勢外宮の造替に際して資金援助したことで外宮側が口宣案を調達したと思われるが、信秀は父祖伝来の弾正忠をそのまま用いた。
 『今川家において当主もしくは一族が三河守となったことは、文書・記録史料から分かる範囲で一度も無く、全国的にも三河守は「誰々にても任」(「大館常興書札抄」)、つまり誰でも用いるのに特に障害がない官途であった。
 今川家当主が良く用いた上総介や、義元の父氏親の修理大夫と比べると、武家社会ではかなり格下に位置付けられていた。』(P179)そのため『義元の三河守任官は、実は義元が企図したものではなかったと推測される。おそらく、駿河で今川父子に世話を受けた公家が、その御礼として自発的に手続きしたのであろう。』(P182)

トムは真夜中の庭で

 

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

 

 

 ネタバレあり。

 ある夏に主人公トムは兄弟のピーターがはしかにかかったため、しばらくおじさんの家に滞在することになる。そこでトムははしかがうつっているかもしれないから人が集まっているところも行くこともできず外に出られないので退屈さを持てあましていた。そのおじさんたちが暮らすアパートは大きな邸宅だったものをいくつかに区切ってアパートに変えたもので、ホールにある大時計は一時間ごとに何時かを告げる音を鳴らすがその時間を正確に打ったことはないという代物。

 トムはベッドに入っても一向に眠れず、真夜中にその大時計が13回音を鳴らしたのを聞く。トムはそのことが気になり、眠気も全然なかったので、そっと家を出てホールまで古時計を見に行く。その時に月明かりで時計の文字盤を見ようと裏口のドアを開けると立派な庭園が広がっていた。それで明日の昼にでも行こうと思い、翌日裏庭に行こが、そこには舗装された狭い空き地とゴミ箱と車しかなかった。そしてトムは大時計があの裏庭を見せているのではないかと思う。そしてその晩に再び大時計が十三時をうったのを聞いて裏口を開けると、昼には無かったあの庭園が広がっていた。

 そしてトムは翌日から毎晩こっそりと部屋を抜け出して庭園に行って遊んだ。バラバラな時間をうつ大時計のように毎晩トムが行く庭園も日ごとに季節や時刻もバラバラ。そしてその庭の時間の進み方も特殊で、しばらく探索した後に家に戻っても数分しか経っていなかった。またその庭園は過去の邸宅時代にあった庭園の姿のようで、庭園の中ではトムは物を動かすことができないし、他者からも見えていないようだった。

 しかし、その庭園にいる人々の中で従兄弟たちと遊んでもらえず一人でいることが多かったハティという少女にはトムのことが見えて話すこともできた。それでトムとハティは友達となり話したり遊んだりするようになる。そしてトムは庭園でハティと遊ぶことが楽しいので、まだ家に帰りたくないと思って滞在を伸ばす。

 トムは毎晩庭園に来ているのだけど、庭園の時間はとびとびなのでハティの体験的にはトムと会うのは数カ月に一度とかそんなもののようだ。そしてハティが大人へとなっていくにつれて、ハティの目からはトムの姿は徐々に透けて薄く見えるようになっていった。

 かつてのハティの部屋が現在のトムが滞在する部屋となっている。そのトムの部屋の一角にハティの秘密の場所があって、トムはスケートを使わないときはその場所に隠しておいてくれとと頼む。それで邸宅の中に帰って、その場所を調べると古びたスケート靴を発見する。物を介して過去と現在がしっかりつながっていて、ハティがかつてここで暮らしていたのだと確信できる証拠を手に入れるこのエピソードはなんか好き。トム本人的には次の機会にハティとスケートができるようにという思いのほうが強いのかもしれないけどね。

 その翌夜に庭園に出ると再び冬、記録的な寒い冬で多くの川が凍った年、ハティは少し遠くまで行ってスケートで川の上を進みながら邸宅まで帰るという冒険に繰り出し、トムはそのお供をすることになる。

 ハティは帰る途中で出会った知り合いのバーティ(バーソロミュー氏)の車に乗って邸宅に戻ることになるが、バーティと会話している間ハティはトムのことを気にせず、自分の手がトムの体を貫いても気づかない様子だった。トムは二人が大人の話をしてつまらないと思っているうちに寝入ってしまう。翌晩には再び子供時代のハティと会えるかもと思い、再び真夜中に裏口を開けるがそこには庭園がなくあるのは昼間と同じ小さな舗装された空き地とゴミ箱と車ばかり。スケートの冒険でハティの子供時代が完全に終わり、トムも庭園にいけなくなった。

 それでトムは悲しくて泣いてしまう。しかしその後まもなくアパートの大家のバーソロミューおばあさんがハティだということがわかって、あの庭でともに遊んだ二人は現代で再会して話をすることになる。そしてトムが家に帰る前にまた会うことを約束して少しかしこまった挨拶をした後に違うなと思ったのか、階段を駆け上りハティのもとにもどり抱擁を交わすという最後のシーンがいいね。

新装版 マムルーク

 

 

 

 イスラム社会の『奴隷軍人のマムルークは、九世紀以降、カリフやアミール(軍司令官)の私兵としてしだいにその勢力を伸張し、やがてカリフの改廃をも自由におこなうようになった。しかもマムルーク軍人の台頭はイラクやエジプトの地域だけに限られていたのではなく、北インド、トルコ、アンダルス(イベリア半島南部)などイスラム世界のほぼ全域にわたっていた。』(Pii

 ○マムルーク朝まで

 『マムルークを私的軍団として用いられることは既にウマイヤ朝時代からはじまっていた。』(P43)通説ではじめてマムルーク軍を組織的に編成したといわれるアッバース朝のカリフ・ムータスィム(在位833-842)の『政策の新しさは、トルコ人奴隷兵を前時代のカリフや有力者の場合よりはるかに大規模な形で採用したことにあったといえよう。』(P43-4)成立当初のアッバース朝のカリフ権を支えていたホラーサーン軍の忠誠心が薄れ始めていて、『忠誠心と勇敢さを知られていたマムルークの本格採用がにわかに注目され始めたのである。』(P46

 エジプト・シリアを支配したアイユーブ朝の第七代スルタンのサーリフ(在位1240-49)ははじめクルド人のカイマリーヤ族とフワーリズミーヤ族を厚遇していたが、やがて両集団の統制に苦慮することになる。そのため『トルコ人マムルークを次々と購入して政権の基盤とすることに努めた。』(P104)そしてマムルークの勢力が増大していった。サーリフの没後に新スルタンのトゥーランシャーがその『バフリー・マムルーク出身のアミールたちをつぎつぎと逮捕・投獄してその勢力の削減をはかった。』(P108)そのためマムルークはスルタンを暗殺し、サーリフの妻でシャジャル・アッドゥルをスルタンに推戴した。そうしてマムルーク朝1250-1517)がはじまる。しかし女性スルタンということによる反発が強く、バフリー・マムルーク出身の総司令官イッズ・アッディーン・アイバクと結婚しスルタン位を彼に渡す。それでも政情の不安定は続いたが、モンゴル軍との戦いであるアイン・ジャールートの戦いで『圧倒的な勝利を収めたマムルーク軍は、エジプトの新政権がイスラム共同体の真の守護者であることを内外に強く印象づけることができたのである。』(P111-2)しかし『マムルーク朝のスルタン権力は容易に安定しなかった。それは、王朝の全期間を通じてスルタンは選挙によって選ばれるのを原則としていたからである。』(P113

 ○エジプトのマムルーク朝マムルークたち

 『スルタンによって購入された青少年のマムルークは、カイロにある軍事学校(ティバーク)に入学した。主人(ウスターズ)であるスルタンへの謁見が終ると、出身地や人種ごとにクラス分けがおこなわれ、監督者となる宦官(タワーシー)の紹介がおこなわれた。』(P125-6)そうした『マムルークのための専門学校は、スルタン・バイバルスによってはじめて建設されたとみてよいであろう。』(P126)五代スルタン・バイバルス(在位1260-77)。

 軍事学校の『在位の期間が何年であったかは不明であるが、マムルークは教養と武芸の課程を終えると、スルタンから卒業と奴隷身分からの解放を示す証書(イターカ)を与えられ、さらに武具や馬にくわえて生活の基礎となるイクターを授与されてマムルーク軍団に編入された。(中略)卒業と同時に、奴隷身分から解放されて自由人となったにもかかわらず、かれらはその後も「スルタンのマムルーク(奴隷軍人)」とよばれ、もとの主人との強い絆を保ちつづけた。

 つまりマムルークは、購入者、教育者、奴隷身分からの解放者、さらにはイクターの授与者であるスルタンにたいして強い敬慕の念を抱き、絶対的な忠誠心を捧げたのである。また、マムルーク相互の関係についていえば、同期の卒業生は、「良き仲間」(フシュダーシュ)として強固な連帯意識をもち、終生の交わりをつづけてゆくことになる。スルタンへの忠誠心と相互の仲間意識、このふたつが精強なマムルーク軍を生み出したといってもよいであろう。』(P128-9

 ○オスマン朝のカプ・クル、イエニチェリ

 16世紀前半にマムルーク朝オスマン朝に敗れて、オスマン朝がシリア・エジプトを征服。

 オスマン朝ではスルタンの奴隷(カプ・クル)はデヴシルメ(徴用)によってキリスト教徒の子弟が集められ、彼らをイスラムに改宗した後に宮廷の小姓になる者とイエニチェリに入って軍人となる者にふり分けられた。『この当時のアラブ社会のマムルークは、イスラムの伝統にしたがって解放の手続きがとられたのにたいして、これらのカプ・クルは奴隷身分のままで奉仕を続けたことが特徴とされている。しかしこれには異論もあるので、いまの段階で、カプ・クルの解放問題について明確な結論を出すことはむずかしい。スレイマン(在位一五二〇-六六)の時代にはイエニチェリの数はおよそ三万人に達し、オスマン帝国の精鋭部隊としてアジアやヨーロッパの征服に活躍した。彼らは、いつでも戦闘に参加できるように、つねに兵舎にいて軍事訓練をおこなうことが義務付けられ、結婚して家庭をもつことは許されなかった。(中略)しかし一六世紀末になると、その地位を子孫に伝えることのできないイエニチェリの不満がしだいに高まり、この軍団の存在はスルタンにとって危険なものに変わりはじめていた。』(P178

ゴブリンスレイヤー 8

 

ゴブリンスレイヤー8 (GA文庫)
 

 

 ネタバレあり。

 2章でゴブリンスレイヤー達が海に出て大海蛇と戦っている。彼らがゴブリン以外と闘う依頼を受けるのは珍しいと思っていたら、元々は海ゴブリンに漁場が襲われているという依頼があったのできてみたら、海ゴブリンと言われているのは話の通じるインスマンス的な人々で、彼らから魚が減った原因は大海蛇にあると聞いて、大海蛇退治に乗り出すという流れで大海蛇と戦ったようだ。

 今回ゴブリンスレイヤーたちは剣の乙女の依頼で、都へ向かう街道にゴブリンが跋扈しているということで彼女の護衛として都へ赴くことになる。その道中で野営中に襲ってきたゴブリン集団と戦う。

 都へ到着。ゴブリンスレイヤーがこの頃ゴブリン退治に専念できていないが、楽しかったと言ったので鉱人道士や蜥蜴僧侶は驚くが、その後にゴブリンスレイヤーは『だが、そのたびにゴブリンの影がちらつく』(P128)とも言う。

 都市の大浴場にいった女神官と妖精弓手は、そこで兵士に変装して王宮から抜け出してきた王妹と出会う。そして王妹は女神官の服を失敬して、その服を着て冒険者の真似事をする。そして行商人とついて街の外に行こうとするもゴブリン集団に襲われて、王妹が連れ去られる事態になる。都へ戻った行商人の報告もあり、王たちは王妹が外に出てゴブリンに連れ去られたという事態を把握する。しかし事態が公になることも国に大きなダメージなので、信用のおける冒険者たちに依頼することになる。ゴブリン達の居場所は剣の乙女が受けた啓示もあって、死の迷宮というかつて魔神が地下十階の最奥にいた迷宮だということがわかる。王たちは別件で頼むことのある勇者一行に頼むわけにもいかないので、かつて魔神を討った冒険者の一人である剣の乙女に頼む流れとなる。それに剣の乙女が怯えていると女商人(かつての令嬢剣士)がゴブリンスレイヤーたちを秘かに呼んでいて、ゴブリンスレイヤー達のパーティーがそのゴブリン退治の依頼を受けることになる。ゴブリンスレイヤーたちを見て剣の乙女が安堵しているのがいいね。

 昔地図役(マッパー)であったという剣の乙女から死の迷宮の地図を渡されて、一行は馬に乗ってその迷宮へ向かう。そして途中で戦闘から遅れたゴブリンたちとの戦闘もあったが、死の迷宮に到着。

 現在はゴブリン達が巣食う迷宮に挑むゴブリンスレイヤーたち。その迷宮でゴブリンたちの首魁である小鬼の邪神官を倒し、そのゴブリンの邪神官が呼び出した魔神の手という強大な存在も満身創痍となりながら知恵を絞り倒すことができた。そして王妹を保護して帰還しようとするが、ゴブリンをすべて倒してはいなかったので帰り道に待ち伏せしていたゴブリンの大集団と対峙することになるという絶望的な状況に陥る。しかし剣の乙女が勇気を奮い起こし神殿勢力を率いて死の迷宮までやってきてくれたおかげで、ゴブリンスレイヤーたちは救われた。ゴブリンを恐れていた剣の乙女がゴブリンスレイヤーたちを助けるためにゴブリンが巣食う迷宮まで行った。その大きな一歩を踏み出した勇気に感じいる。