中世島津氏研究の最前線 ここまでわかった「名門大名」の実像

中世島津氏研究の最前線 (歴史新書y)

中世島津氏研究の最前線 (歴史新書y)

 「はじめに」島津氏の初代の惟宗忠久島津忠久。『忠久は、源頼朝の信頼厚い比企氏との血縁と、摂関家の家司という立場から、近衛家領であった島津層の下司・惣地頭に抜擢されたとみられる(井原:一九九七、野口:一九九四)。
 なお、”源頼朝落胤説”は、十五世紀前半成立の「酒匂安国寺申込状」という島津本宗家の元重心が記した資料が初見である。これと同時期の応永三十二年(一四二五)三月、島津本宗家の当主貴久(忠国。一四〇三~七〇)は、志布志大慈寺(鹿児島券志布志氏)宛の寄進状に、「源貴久」と署名している(大慈寺文書)これが、島津本宗家による源氏姓使用の初見であり、”源頼朝落胤説”の登場と結びつけて考えられている。
 この時期に源氏姓を使用するに至ったのは、「中世武家社会独自の正当性の論理である「源氏将軍観」の影響」(水野:二〇〇八)とも、「島津氏が(単なる源氏ではなく)足利一門だと喧伝し、それを内外に承認させることで他氏との間に別格化を図りたかったから」(谷口:二〇一六)とも指摘されており、いずれにせよ、島津本宗家が室町幕府儀礼的秩序に主体的にかかわろうとした結果とみられている。』(P10-1)
 「島津義弘は、兄義久を超える実力者だったのか?」
 天正十三年(一五八五)義久は義弘にある役職を与える。2000年代まで「守護代就任」と呼ばれていた出来事だが、2010年代になって新名一仁氏の研究から『戦国末期(一六世紀末)の島津義弘の役職は、「名代」として捉えなおされるようになったわけだが、そこで義弘が有した権限についても具体的に明らかになりつつある。』(P76)名代は守護代よりも権限が広い。
 『また同時に、島津氏は「御家之義」と称する密談を進めていた。そして義久の男子誕生を待つ意味も込めて、義弘を次期家督継承者に決定した(『上井覚兼日記』中、天正十三年<一五八五>五月十八日条)。つまりこのとき義弘は、当主義久から領国支配のための権力の一部を移譲されるのに加え、後継者としても指名されたことになる。そしてこれが、近世以降の編纂史料において、義弘が島津氏当主になったという根拠にされることがあった。
 実際には先に紹介した研究で明らかにされているとおり、ここでの義弘はあくまでも家督継承予定者であり、その後も義久が当主を名乗り続けた。さらには結局、島津氏が豊臣政権に包摂され、領国支配が新たな展開を見せる中で、義弘が当主になることはなくなったのであるが、少なくとも戦国期の義弘にとっては大きな画期となったに違いない。』(P73)
 「中世後期島津氏は、室町幕府・朝廷に何を求めたのか?」
 摂関家近衛家との関係。島津氏の家名の元となった荘園島津層の領主が、藤原氏摂関家であった。『中世後期には、京都から遠く離れた南九州に位置する島津荘の実態は既に失われ、領主近衛家への貢納も途絶えていたと考えられるが、島津荘領主が近衛家であった事実が完全に忘却されていたわけでもなかった。』(P85)そして『島津氏と近衛家との関係が密接に強化されるのは、十六世紀中期の島津相州家による本宗家の家督簒奪以降である。』(P86)
 『本来島津氏は、鎌倉期に既に本姓の惟宗に代わり藤原姓を用いるようになっていたが、天文十四年(一五四五)に近衛稙家(一五〇二~六六)が公卿日野資将(一五一八~五五)を島津氏領国へ下向させて交渉を行って以降、近衛家と島津氏は藤原姓を媒介とする一種の犠牲的同族関係を取り結んだ。(中略)戦国期の島津氏、特に相州家にとって近衛家は、藤原姓を介した擬制的同族関係上の宗家として、自身の権威を保障する重要な存在であった。』(P87-8)

理想のヒモ生活 12

 ネタバレあり。
 今回北大陸に到着したということで、北大陸の国や技術などについての新しい情報が色々と書かれる。そしてヤン司祭やアンナ王女といった今後も出てきそうなキャラが初登場。
 フレア姫や善治郎たちはワレンティア港を出港して40日以上が経ったところで見つけた無人島に上陸して休息を取る。その時にデジタルカメラで特徴的な地形の写真をとった後、善次郎はカープァ王国に瞬間移動の魔法で一時帰国して補給物資を持って戻ってくる。そして持ち帰って来た酒を皆喜びその日は酒宴となる。そのように瞬間移動の魔法を活用しているのがいいね。その無人島を出て43日で北大陸のズヴォルタ・ヴォルノシチ貴族共和国のポモージエ港に一時停泊。長い船旅を経て北大陸に到着した。
 この街で善治郎は一旦部下たちに小遣い銭と自由時間を与える。侍女マルグレーテは外出中に孤児の少年ヤンにヤン司祭に直接会って伝えるべき重大事があるからそれを伝えてほしいと頼まれる。食べるものにも事欠く者がわざわざ遠方から来るということはよほどのことだろうという判断もあり、それをポモージエ領主の非公式の歓迎会でヤン司祭に伝える。それと同時に何も聞かず仲介をすると後日別のところに文句を言われる可能性も考慮して話の内容を把握しておいた方が良いと考え、その話を伝える場に善治郎は同席する。
 孤児ヤンが騎士団がポモージエを攻めてくるとの情報をもたらす。そしてフレア姫らは出航の準備が整い次第出航しようとしていたが、長い航海を終えた後の一時金給付休暇ということもあって船員が全員集まらなかったので、結局出立前に防衛のためにポモージエ港が封鎖されることになって足止めを食らうこととなる。
 中央から天馬に乗ったズヴォルタ・ヴォルノシチ貴族共和国のアンナ王女がポモージエに来る。そしてアンナ王女は押しが強く、足止め食らっているフレア姫や善治郎の存在を利用する。
 傭兵ヤンが一時的にアンナ王女と契約して、今回の侵攻に対応する。そして傭兵ヤン率いる傭兵隊は町の外で騎士団と戦って勝利し、戦勝パーティーが終わった後、黄金の木の葉号はいよいよポモージエ出航をしてフレア姫の故国ウップサーラ王国へ向かう。
 巻末の「主と侍女の間接交流」侍女ドロレスがポモージエで一時金付きで自由時間を与えられた時に店や町を見て回った話。そうした店や町を見て回る描写好きなので良かった。

大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実

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 ○江戸の町人人口と髪結の沽券金高から推計された地区ごとの人口
 江戸の町人人口。嘉永六年(1853)に町方と寺社門前地合わせて57万4927人、翌年の嘉永七年には57万898人という詳細な数字が記録されているが、どの町に何人住んでいたかという内訳は失われている。
 『嘉永四年七月のこと。それまで禁止されていた商人たちの同業者組合の再興が許可されることとなり、諸商売の実態や権利関係についての詳細な調査が江戸全域に大々的に実地された。町奉行所に集約された、その膨大な調査報告書の中に、「市中髪結沽券金高取調書」と題するものがある(嘉永四年七月九日『諸問屋再興調』第九巻七〇号文書)。』(N85)そこには『全四八組、それぞれの組に属する髪結たちがここに保有する沽券状、すなわち営業の権利所の額面の総計を列記したものである。』(N85)髪結の料金は江戸全域で統一価格であったので、その利益は人口と正比例していると考え、沽券金高とその割合から江戸の地区ごとの人口を推計。日本橋北と南の両地区は『合わせて二五万九〇〇〇人、江戸全体の人口のおよそ四五パーセントが、この二つの地区に集中している。そのあとはぐっと下がって、切絵図4「芝愛宕下」の三万四〇〇〇人、あるいは切絵図17と21の両ブロックにまたがる浅草地区の5万8000人が賑わいのめだつところとして挙げられる。』(N132)そのようにどこにどのくらいの人がいたのかが数字として見えてくるのがいいね。

 ○伊勢屋・万屋越後屋の3つの屋号で活動した3939人の商人のデータからわかること
 『『江戸商家・商人名データ総覧』全七巻(田中康雄編、柊風舎、二〇一〇年、以下『データ総覧』と略記する)。』(N290)その中で最も数の多い伊勢屋と次に数の多い万屋、6番目に多い越後屋(三井と同じ屋号)で活動した商人たち3939人を分析対象として選定、その商人たちのデータからわかること。
 3つの屋号の商家で史料上の開始と終了の時期を計測した、少なくともこの期間は継続したことがわかる期間(存続年数)は『全体平均は、一五・七年、それぞれの中央値はさらに下がって一三年から一一年である。
 一五・七年。まさか、こんなにも短かったのか、とびっくりする。データの性質上、<少なくともこの期間は継続した>数値であるから、実際の平均存続年数はこれより幾分か上回るであろうが、とくに一八五一年以降は史料も豊富で網羅性も高く、観測の精度が上がるので、その「幾分か」が二倍も三倍もの数値に跳ね上がるとは考えにくい。史料上の存続年数が十数年なら、実際の存続年数もそこから大きく乖離せず、三〇年や五〇年といった大きな数値にはなり得ないと想定されるのである。一五・七年。三井はもちろん、いつからか我々が江戸商人について共有して来た代々暖簾を受け継ぐと言ったイメージからはほど遠く、それこそ一代にも満たない短さでしかない。』(N371)
 株(営業権)の移動事由。『四九パーセントは譲渡、一〇パーセントは相続、六パーセントは休業して引受手が引き継ぎと、合わせて六五パーセントの領域では既存の株の所有権が古い持ち主から新しい持ち主へ移動することで株の引き継ぎがおこなわれている。残りの三五パーセントの領域では新規および引受手なしの休業と、古い株が廃絶して新しい株が創設されるという株自体の入れ替わりが進行している。』(N470)意外に少ない相続と、意外に多い新しい株の創設。
 3939人の個票データから各店舗がどこにあったかを集計。そして『この比率をもとに嘉永四年の一斉調査の時の江戸の総店舗数一万三九三四軒を母数として、各地区ごとの店舗数を推計する。』(N781)そうして推計された各地区ごとの店の数、日本橋南で2430、日本橋北2561と日本橋の南北合わせると約5000の店があったことがわかる。そして他には浅草1183 ・今戸箕輪浅草728、芝愛宕下896・芝高輪辺728、深川881などが目立つ。

ソードアート・オンライン 21


 ネタバレあり。
 ユナイタル・リング編開始。あとがきによるとユタイナル・リング編の始まりは『アリシゼーション編のラストから約一ヵ月後となっています。』(P290)とのこと。
 アリシゼーション編のラストで再度アンダーワールドにダイブしたキリトたちは宇宙空間で整合機士の少女を助けた後に食事をご馳走になりながらアンダーワールドの現状をレクチャーしてもらったが、ダイブ前に5時間経ったら強制的に覚醒させるという約束があったのでログアウトした。すぐにでも再訪したいが『凛子博士と比嘉さんに、俺たちが持ち帰った情報を詳細に検討して現在のアンダーワールドへの影響を評価し終わるまでダイブ禁止! と言われてしまったのだ。』(P32)そういうわけでそれ以降はアンダーワールドに行けていないというのがキリトたちの状況のようだ。
 ALOの新生アインクラッドにあるログハウスでキリトはアスナやアリスと話していると大地が揺れて、アインクラッド全体がバラバラになりながら落ちていく。その中で思い入れのあるログハウスを壊さないように三人はログハウスが乗った地面ごと飛行しながら力の限り押すことで少し遠くの川の上に着水させた。それを見とどけた直後ALOで持っていた飛行能力が失われたことで三人とも高所から川に着水する。そしてメニューを出す方法などのUIが変わったり、使用時間が長い少数のアイテムや最も熟練度の高いスキルを除いてアイテムやスキルがなくなり、レベルが1になっていた。
 三人が着水させたログハウスは崩壊こそしてはいなかったが、そのままにしておくと壊れてしまうという状態になっていた。そのためログハウスを直すために必要な材料を手に入れるために動く。そうやって3人や途中で加わったリーファがログハウスを直すために色々と材料を集めたりものづくりをする。そうして新しいゲームで装備や知識もほとんどないなかで、手探りで色々と考えながら動いている様子を見るのが楽しい。
 ログハウス修復の途中でキリトは一時ログアウトした後に、直葉(リーファ)と一緒に再度ログイン。そしてリーファにログハウス修復を手伝ってもらう。
 キリトはログアウト時に『百以上のVRMMOワールドで大規模障害が発生中』(P113)というニュースの見出しを見る。それほど多くのVRMMOプレイヤーが転移してきているのに、ユナイタル・リングがALOやSAOよりもグラフィック綺麗。そのことにキリトは『それだけの数をうけいれるキャパシティがあるのに、これほどの解像度で世界を構築することが、果たして二〇二六年現在の技術で可能だろうか……?』(P156)と疑問に思う。この巻冒頭で書かれていたカヤバとキリト(アンダーワールドで多くの時間を過ごした記憶を持つキリトのコピー)と思しき者たちの『今や国内のスパコンのほとんどは≪彼女≫の監視下だからね。
  >なるほど、皮肉な話だ。あんた自身が気まぐれに作り、遺棄したはずのプログラムに足許を脅かされているんだから。』(P10)という会話ログから考えるとカヤバがかつて作ったプログラムが独自に動いて今回の事態を起こして、グラフィックの綺麗さはそのスパコンを監視下に置いているプログラムがスパコンを使っているから実現しているということなのかな?
 一時的に前の装備が使えていた猶予期間が終わるとともに『種は芽吹き、枝葉を広げ、環となって門を作る。望み果つる大地に招かれた者たちよ、一つの命を守り抜きなさい。数多の苦難を耐えしのび、幾許の窮境を生きのび、極光の指し示す地へと至った最初の者に、全てを与えましょう』(P199-200)という声が降りそそいだ。
 その後に引き続きログハウスの修理している4人のもとに、他のプレイヤーのパーティーが来た。彼らから自分の家でログアウトしてもアバターが消えなくなったということやこの強制転移させられたユナイタル・リングの世界では一度死んだら二度とログインできないという情報を得る。
 そうして友好的に交流していたが、モクリという男が不意打ちでキリトを攻撃してくる。例の全体に降りそそいだ声で最初のものに全てを与えるという言葉があったが、彼らは数多のワールドのプレイヤーが参加させられているこの事態で一位になったら何が貰えるかという好奇心もあって一位を目指している。そのためALOの九種族統一トーナメント二位のスプリガンのキリトが拠点を固める前に脱落させしておこうと不意打ちをしたようだ。人数差もあって厳しい戦いを強いられていたが戦いの最中にユイやリズ、シリカと合流したこともあって勝利する。その後ログハウスの修復を終えてログアウトした。
 そして翌日にキリトとアルゴが久々の再会、現実では初めての対面、を果たしたといったところで終わる。

弥生時代の歴史

弥生時代の歴史 (講談社現代新書)

弥生時代の歴史 (講談社現代新書)

 kindleで読了。
 ○水田稲作の始まり
 前一〇世紀に水田稲作民が九州北部、玄界灘沿岸地域にやってくる。
 園耕民とは『農耕をおこなっているものの、それはあくまでも生業の一部であって、農耕中心の暮らしを送っているわけではない人びとを指す。縄文後・晩期の西日本の在来民のほとんどは園耕民であったと予想されている。
 園耕民は縄文後・晩期依頼、平野の中・上流域を中心に暮らしていた。森や川、山など、いろいろな生態系が交わる場所こそが、彼らが暮らしていくのに最適な場所だったからだ。園耕民には魅了がなかったのか、下流域には暮らしのあとは認められない』(N394)。九州北部にやってきた水田稲作民はそれまで在来民が暮らしていなかった平野の下流域で暮らし始める。中流域の園耕民と下流域の水田稲作民。『こうした住み分けはこの地域に限られたものではない。西日本や関東南部などの水田開始期によく見られる一般的な現象である。』(N435)
 早良平野の有田七田前遺跡。土器を見ると地元の晩期系縄文土器が多く、近畿の土器や朝鮮半島青銅器時代後期の土器も含まれる。『このことからこの遺跡の人びとは基本的に地元出身者だが、近畿や朝鮮半島の人びととも交流を持っていたことがうかがえる。下流域にはもともと在来民は住んでいなかったのだから、中流域に住んでいた在来民の一部が下流域に進出し、水田稲作を始めたと考えられる。』(N422)そのように下流域にきて水田稲作を始めた在来民もいた。

 ○水田稲作が九州北部以外の地域にも広がる
 『これまで水田稲作は九州北部から西日本各地に、瞬く間に広がったと考えられていた。(中略)しかし炭素14年代にもとづく新しい年代観(以下、弥生長期編年と呼ぶ)のもとでは、こうした考え方は成り立たなくなる。九州北部から近畿に広がるまで約三五〇年、関東南部にいたっては約六五〇年かかったことになるからだ。』(N662)
 アワやキビを栽培していた長野県の松本市の石行遺跡は縄文のまつりの道具もあるが弥生文化に特徴的な磨製石器もある、縄文文化弥生文化の要素を併せ持つ園耕民のむら。そのあと前三世紀に段丘を降り低地に水田を拓き水田稲作の生活に入った。『人々が水田稲作を行うためには、小規模な集団が結束し、労働力を集約して共同で対処する必要がある。しかしアワやキビの栽培なら、小規模な集団に分かれたままでも行うことができる。水田稲作を始める前にアワやキビの栽培が想定されるのはこうした理由がある[設楽二〇一四]。労働単位の再編成や祖先祭祀の単位を変えることなく対処できるのがアワやキビを対象とした園耕だからである。ちょうどこのころは前六世紀の温暖期に当たるので、必ずしも変革を求められる時代ではなかったのだろう。
 しかし前四世紀に襲ってきた弥生時代最大の寒冷期は変革しないまま存続することを人びとに許すことはなかった。労働組織や祖先祭祀の単位を再編成して臨まないかぎり、集約性の高い水田稲作を導入することは難しかったのだ。』(N819)
 『縄文のまつりの道具を少しでも使っているところでは、社会面に弥生化の兆しが見られないのだ。社会が質的に変化すると縄文のまつりは残ることができない、ということを意味しているのかもしれない。
 小規模な集団に分かれ、土偶や石棒を使った祖先のまつりを行っていた中部高地や関東南部の人びとが、労働集約性の高い水田稲作を始めるためには、その前提として集団の統合を必要とした。統合されると、土偶や石棒のまつりは姿を消した。』(N1477)

 ○古墳時代
 『現在の学界は古墳時代の始まりを、経済的な転換ではなく、政治・祭祀的な転換として描く傾向が強い。』(N1922)
 二世紀以降に鉄と中国鏡の分布の中心が大きくずれる理由。九州北部の玄界灘沿岸諸国では威信財よりも鉄素材などの必需品のほうが重要だったが、『近畿を中心とする東方世界はといえば、有明海沿岸諸国と同様、まだまだ中国鏡など遠距離交易でしか確保できない威信財を重要視し必要とする段階にとどまっていた。』(N1996)
 奈良に前方後円墳が作られるようになった理由を説明する三つの有力な仮説。『まず何もなかった中国中原に、突如最古の古代国家である夏・商が出来るように、「無主の地故」という考え方。次に祭祀・政治の中心であった邪馬台国の所在地だったから、三つ目は列島の中央という地の利を活かして、外来物質の流通ネットワークを主導できたから、という説である。
 ほかに、この三つの説が当てはまる地域はない。九州北部を除いた列島の倭人たちにとっての中心は、まさに近畿だったから、ということにつきる。
 人口的にも面積的にも九州北部とは比べものにならないほど大きな世界の中心が近畿である。九州北部は中心になれるはずもなく、またその意志もない。大多数の倭人たちが求めるものを供給できた、またその意志があったのが近畿だった。心を同じくする倭人たちの祭祀的・精神的なシンボルこそ、前方後円墳だったのだ。』(N2053)

アクセル・ワールド 23

 ネタバレあり。
 先頃の白のレギオンとの領土戦前に、白の王はかつてバーストリンカーであった若宮恵の記憶とBBプログラムを復活させた。若宮恵(オーキッド・オラクル)は白の王のバーストリンカーとしての≪親≫であるサフラン・ブロッサムを復活させるという言葉を聞いて、その力を振るったがハルユキがサフラン・ブロッサムのポイントを全損させたのは白の王だと知って、利用されていることに気づいて無制限中立フィールドを領土戦ステージに戻した。しかしそれ以後彼女と連絡が取れず、七王会議の場でウルフラム・サーベラスがオラクルの能力を使った。そのため若宮と仲の良い黒雪姫は彼女のことを心配していて、明日にハルユキと共に若宮家を訪問することにする。
 ハルユキはその前にオーキッド・オラクルと同じくサフラン・ブロッサムの≪子≫である白のレギオンのローズ・ミレディーの話を聞きたいと思う。ハルユキは黒雪姫と共にハイエスト・レベルに行きハルユキにとってのメタトロン的な存在である、アマテラスにハイエスト・レベルで会い事情を説明してローズ・ミレディーと連絡が取りたい旨を伝える。
 その後二人は現在のネガ・ネビュラスのメンバーたちが集ってのVRスペースでのミーティングに参加。白のレギオンの罠で、無制限中立フィールドで神獣級エネミ―≪太陽神インティ≫によって無限EK状態となった黒雪姫ら五人の王を救出のために必要なことが語られる。敵は神器≪ザ・ルミナリー≫で神獣級エネミー≪太陽神インティ≫をテイムしている。ルミナリーの冠はそれほど頑丈でないのにインティの炎でも壊れない炎耐性があるのは、無制限中立フィールドに放浪しているとされる鍛冶屋を見つけて強化したのだろうと推測する。そのため自分たちも鍛冶屋を見つけて、強化外装を強化してインティの炎を貫けるようにする。そのように対インティ戦に向けてやるべきことを決めた。
 その話し合いを終えた後に黒雪姫はハルユキに、自身の出生の秘密を明かす。
 翌日ローズ・ミレディー(越賀莟)から連絡を受け、リアルで会う。オラクルと親しい彼女はオラクルを助けるために、白の王から離反して黒雪姫とハルユキに協力することを決めた。そして越賀から加速中の記憶についての話とオラクルに悪影響を及ぼさないためにも正常にバーストアウトさせることが必要だということが聞かされる。
 そして三人で若宮恵の家に行くと入院していることが告げられる。黒雪姫は現在無現EK中なので、越賀莟とハルユキの二人が若宮恵を助けるために、彼女が眠る病室で直結回線をして無制限中立フィールドに潜る。無制限中立フィールドでローズ・ミレディーは自分が必要としているものの在処を教えてくれる必殺技を使う。現実世界で回線を直結させたのは、そうすることで彼女がいる場所へと導いてくれるのではないかと考えてのこと。
 そして、かつて加速研究会が利用していたミッドタウン・タワーへと導かれた。そこでルミナリーでテイムされた強力な敵エネミ―の後ろに全身を鎖で縛り付けられている二体のアバターを発見。鎖を切るには相応の時間が必要だということで、まずそのエネミーと戦うことになる。その戦いの最中にハルユキは三代目クロム・ディザスターだった者の声を聞き、その助言通り動くことで敵を剣で断ち切ることができた。何故そのような現象が起こったかは不明だが、戦いの中で剣を使えるようにパワーアップ。強力な敵を倒して二体のアバターを救出すると、オーキッド・オラクルと少し前のミーティングで話に出た放浪の鍛冶屋だった。そうして思いがけず放浪の鍛冶屋と出会ったハルユキは、自分の剣を強化(炎熱属性無効)してくれることを頼む。しかしバーストポイントが足らずに凍りついていたら、ローズ・ミレディーが炎熱無効を頼もうとしているのを見てインティ対策と察し、代わりにポイントを払ってくれた。そして放浪の鍛冶屋は剣を強化した後に飛び去り、オラクルを抱えるローズ・ミレディーとハルユキはエネミ―が迫りくる中でポータルに飛び込み、無事脱出に成功する。
 そして現実に戻ると若宮恵(オーキッド・オラクル)は目を覚まし、越賀莟(ローズ・ミレディー)と現実で初めての対面を果たした。その加速世界では長く親しい付き合いのあった二人の現実での対面シーンいいね。

家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像

家康研究の最前線 (歴史新書y)

家康研究の最前線 (歴史新書y)


 「松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」
 「三河物語」以来、家康から8代遡った親氏が、新田氏末流で諸国放浪の果てに松平家に入り婿して松平氏を名乗ったというのが将軍家の正史とされた。入り聟となった初代親氏(信武・徳翁)の同時代史料はないが、17世紀に松平郷でまとめられた「松平氏由緒書」(由緒)には諸国流浪の僧形の人物で、都風の教養にあふれた人物と描かれる。三代信光やその従兄弟(かつ義兄弟)と推定される益親が京都に強い関係を有していたことから、『<京辺りの下り人が入り聟になったことをきっかけとして、その後の松平氏の飛躍につながることになる京都との人脈が生まれた>という史実が、潜んでいる可能性は十分に考慮されうる。』(P24)
 『初代徳翁を聟に迎え入れた松平太郎左衛門尉信茂(信重)は、一族が信仰する「不思議の井戸」の神(この井戸は現存する)の生まれ変わりで、たいそう裕福な暮らしぶりで「十二人の下人」を従えて、彼方此方に出向き道や橋を造るのに従事していたと記されている。
 土木工事に長けた集団が、土木工事の核心にある土掘り(土公神の祟りを避けて掘る)に関する自らの技術の粋を集めた井戸を神聖視し、棟梁を井戸神の生まれ変わりと説くは自然である(村岡:二〇一三)。』(P24)
 初代徳翁の後に家督を務めた泰親(祐金・用金)には初代の子説と弟説があるが弟説が有力。そして嘉吉三年(1443)に泰親の子とされる『益親は洛中に屋敷を構え(「政所賦銘引付」)、畿内で金融活動をしており、「有徳人」であったと考えられている。大浦などの荘園の代官請負は、権門相手の金融活動の債権として入手した利権であろう。益親の子勝親についても、京都における「有徳人」としての活動が知られている(平野:二〇〇二)。』(P29)
 益親や親則(三代信光の子)は当時自分たちのことを賀茂姓と認識していた。『賀茂氏は、歴日の知識を以って朝廷陰陽師の座を占め、その傍流は、土にまつわる作事において必需とされた「土公の祟り回避」の作法に、歴日の知識を援用し、民間に活動した。
 すると、「由緒」が伝える井戸神を神聖視する土木技術集団の棟梁であったという松平太郎左衛門尉のなりわい伝承と、賀茂姓を名乗っている史実とが交差する。信光時代の松平氏が、賀茂姓を自任していたことからすれば、先祖が土木技術集団の棟梁(陰陽の徒)であったという記憶をこのころまでは伝えていたであろう(村岡:二〇一三)。』(P31)

 「家康家臣団は、どのように形成されたのか」
 関東に移った家康が、格段に高い知行高を与えた井伊直正(12万石)、本多忠勝(10万石)、榊原康政(10万石)。その井伊直正、榊原康政本多忠勝の三人に家康が付けた「附人・与力」。『これは主に近世史研究の側から提起されたもので、家康から付けられた附人が三人の武将の配下で活動し、家康と各武将との間を取り持つ役割を果たし、彼らが近世における譜代大名家臣団の根幹をなしていくというものである。』(P93)
 『附人を付属された武将と附人の関係は、戦国大名の「寄親・寄子」の関係と類似している。(中略)寄子は合戦に際して寄親の軍事指揮下に入って与力として行動するが、頼子は寄親の被官ではなく、あくまで大名の被官とされる(小和田:一九六七)。』(P96)
 『本多家附人の都筑・梶・河合の三人については、自身の知行地のほかに「寄子給」(与力給)を幕府から与えられていた。(中略)この寄子給もいったん幕府に返上し、改めて本多家より給付されたようである。寄子給は本多忠政から政朝に家督が引き継がれたあとの寛永十年(一六三三)、家臣への知行割替えの際に廃止となる。本多家からの知行給付、さらに寄子給の廃止により、附人は本多家との主従関係に基づく家臣に転化していくのである。(中略)井伊家の場合、附人で家老を務めた木俣家は、歴代藩主が家督相続し、江戸城に御礼登城する際には、木俣家当主も登城し将軍にお目見えすることが慣例となっていた。
 当主の家督相続の折に、附人の家臣が将軍に御目見えする慣例は、本多家附人の都筑・梶家などでも見られる(『愛知県史』資料編22)。(中略)附人筋の家系では、大名家臣に転化したのちでも、徳川将軍家の直臣であった意識は残っており、将軍への御目見えを誇りとしたのである。』(P97-8)