中核VS革マル 上

中核VS革マル(上) (講談社文庫)

中核VS革マル(上) (講談社文庫)

内容紹介
血で血を洗う殺戮戦争を続ける学生や労働者たち。その覆面の下には、どんな素顔が隠されていたのか。高い理想と正義感から生まれたはずの“革命”運動が、両党派間の内ゲバ殺人に転化していった悲惨な歴史の逆説。いま困難な時代の転換期にあって、先行世代の軌跡を見詰めなおす綿密なドキュメント。


 過激派活動家の総数は、68年に2万7000人、過激派活動のピークで5万3500人。昭和50年でも3万5000人と思っていたよりも過激派の数がずっと多い!
 『両派が話し合って解決をはかる余地はまったくない。内情を知らない第三者からみると、同じ左翼ではないか、同じ革命をめざす党派ではないか、と思われるかもしれない。失し、両派共に、相手の党派を左翼とはみなさず、革命を目指すものとも考えていない。お互いに、相手の党派は、最も悪質な”反革命の徒党”とみなしているのである。
 このへんを手取り早く理解していただくためには、宗教改革期の新教徒と旧教徒の抗争を考えていただければ、わかりが早いだろう。第三者の目には、共にキリスト教徒と移るかもしれないが、彼らは互いに神に使えるのは自分たちの党派(セクト)だけで、相手の党派は神の名のもとに実は悪魔に魂を売り渡していると問うと考えた。』(P36)今までは、本当に似たようなものなのに何故そんなにテロ合戦をやっていたのかわからなかった。しかしお互いに攻撃しあっていたので、その分だけ警察や他の人たちへの攻撃は減っていたと思うから、革命勢力の熱狂が内ゲバによって第三者にあまり迷惑をかけずに、自滅のような形で発散されたのは良かったとは思うが。この本で、宗教改革期のキリスト教の例をあげて、それと同じようなことと説明されてようやく納得することができた。まあ、理解はできないけど宗教と考えれば、そういうこともあるかもなあと思えた。
 中核派革マル派は、もとは同じ革共同で第三次分裂によってそこから出て行ったのが、革マル派になったということは知らなかった。分裂当時の『革マル派中央指導部の平均年齢は、二十一、二才だった』(P96)という若さには驚愕した。そして、中核派でも平均年齢は二十代後半だということにも更に驚いた。このころの活動家たちというのは異様に若いのね。
 中核派革マル派の差異として、中核は大衆運動に熱心であり、他党派と協調(妥協)して統一行動をとるが、革マルはそうした大衆運動に関与せず、理論についての妥協しない党派。そうした違いが現れる原因として『両派とも、世界の戦後体制――アメリカ帝国主義をした帝国主義の世界体制と、それを補完するスターリン主義の世界体制――が崩壊過程であるという点では意見が一致しているが、その度合の認識においてちがいがある。中核派は、すでに危機的崩壊状態にあると見るが、革マル派はそこまでいっていないと見る。そこで革マル派は、中核派を、主観主義的情勢分析、分析ならぬ信念にもとづく危機感のあおりたて、と批判する。中核派は、革マル派はいつでも、危機であるかのように見えるが危機ではないことを論証力説し、帝国主義と戦わないことが革命的であるかのごとく言う日和見主義者と批判する』(P98)という現在の世界に対する認識の違いが挙げられる。中核派は現在は危機的な情勢だから、多少の差異に目をつぶっても共同行動をして、大きな運動を起こせば政権を覆せると考えているのに対して、革マル派としては現在はそこまで状況は進行していないという認識だから理論をしっかり打ちたてて、その理論に基づいて行動すべきときで、現時点で妥協して得なければならないほどの大事なことはないから、そう簡単に妥協するのはいかがなものか、と考えているということでいいのかな。 そうした認識の違いが大衆運動に対する両派のスタンスにも違いを与え、また大衆運動の中、そして後で組織が強化されたり消耗したりするかという違いも生んだ。中核派は『大衆運動の高揚期には組織を賭けてでも逃走をやり抜こうとするが、革マル派は、個々の大衆闘争に組織を賭けることなどは論外で、革命党にあるまじきこととする。だから、運動の高揚期には、中核派のほうが大衆の信頼をよりかちえ、革マル派には人気が集まらない。/しかし、運動の高揚期が過ぎると、話は別である。運動を支えていた大衆の姿は消え、党派同士の組織力のせめぎ合いが残る。そこでは、運動に組織を賭けて消耗してしまった党派の力は弱く、運動を利用して組織を伸ばすことに努力を傾注してきた党派のほうが強い。/これが六七年から71年にかけて中核・革マル両派に起きたことである。今日の両派の内ゲバの背景はここにある。』(P111)
 名前を君やさんづけで呼んでいるのは、まあ大学生の名なら君づけで呼ぶのが普通なのかもしれないけど、こうした政治団体の抗争時の構成員(というとやたら暴力団っぽくなってしまうが)の名前が君やさんづけなのは少し不思議な感じがする。それに、当人たちは大真面目にやっているのに、どことなく子供のやっていることとみなしている感(実際にもそのようなもんだろうけどさあ)が出るからな。まあ、そうして君やさんづけされる回数が多いから気になるだけかもしれないが。
 アスペック粉砕闘争(69年6月8日)『この闘争に参加するため、中核派の乗っていた電車が車輛ごと切り離され、全員逮捕』(P120)というのを見ると、この時期の学生運動が(今から見るとすごく)過激だったことは知識で知っていたが、それに対抗する警察の手はずも今じゃとても見られない仰々しいものだったのね、と感じるよ。
 死者が出るような抗争になる前も、革マル派は街頭では穏健な行動をとっていたが、他派との主導権争いにおいては内ゲバという行動をとることに対して熱心であったので他党派から怒りを買ったというのは、そら当然だわな。ただでさえ、彼らはもとから共闘の意識が低いのに内ゲバにばかり熱心なのでは、そう思われるのが至極当然。だから、たびたび革マル対他党派といった形になる。
 中核と革マルの対立が決定的となったのは、六九年闘争の過程においてであり、それまではお互い相手の方針が誤りであると信じていたが、左翼陣営に位置することは認め合っていた。しかし、これ以降はお互いを自分たちの考える革命を阻害する革命の敵、反革命であると考えるようになっていった。
 中核派、幹部が破防法に適用されたことで、公然指導部と非公然指導部に分け、トップが地下へ潜行することとなった。そのように指導部が2つに分かれて、本当のトップが表に出てこなくなることになったということは知らなかった。そして、そうした在り方をした組織についての話は読んだことがなかったので、興味深い。
 1967年の一〇・八羽田闘争での山崎さんの死以後、死者が出ることを極力避けるという暗黙の前提が崩れ、死者が出るのもやむをえないと考えられるようになった。というか、それ以前はそういう運動では死者が出ないようにしていたというのは、意外だった。なんというか、この時代の印象が強くてそれ以前も暴力的な闘争ばかりなんだろう、という偏見を持っていたよ。死者を出さないという前提の運動だったからこそ、六〇年安保闘争での樺美智子さんの死亡が象徴的なものになっていたのであり、その死が現在でも有名であるのか。
 70年8月に起きた中核派が起こした内ゲバのリンチ事件の『気絶するたびに水をぶっかけられながら、”自己批判”を強要されて、パイプのめった打ち、鉄筆を太股に突き刺すなどの拷問を受けた。』(P162)とかなりひどい拷問が『実を言えば、この程度までのリンチであれば、そのころの党派闘争においては、さして珍しくないできごとであったといえる。』(P162)際立って陰惨なものでもなく、「この程度」(!?)としか表されないものだったということには絶句してしまう。しかし、殺しに至るまでリンチを続けたことが今までと異なり一線を越えてしまった。しかし、この時点で『誤りを自己批判してその線から戻らねばならない。でないと、自己批判されない誤りは、いつのまにかなしくずしに政党化され、踏み越えるつもりではなく越えた一線も、いつのまにか事後証人的に越えたままになってしまうからである。』(P166)ということだが、このとき中核派は開き直りこそしなかったものの、沈黙を貫き、更正の儀式である自己批判をしなかった。ただ、この殺しで直ちに内ゲバで殺し合いをする方向に向ったのではなく、革マル派は『”殺人集団中核派糾弾の一大キャンペーンを全国各地で各階層にむかってくりひろげる』(P168)ことで中核派に反攻をして、『中核派内部では”組織結成以来最大の危機”といわれていた』(P168)ほどの成功を収めた。そしてこの事件を契機に、革マル派革マル派による意図的暴力のみが容認されるとするアホな政治暴力論を作った。屁理屈をつけているが、駄々をこねた子供のような考え方をそれなりの規模の政治団体が主張しているのは滑稽。立花さんは、中核派自己批判しなかったことと、革マル派がこの理屈を創出したことが、その後の殺し合いの責任を負うべきものであると述べている。
 三里塚闘争の農民たち、迷路状の地下壕網を作ったり、一升瓶で火炎瓶を作ったため、一発でブルドーザーが燃え上がるほどの威力になったり。あるいは、60メートル四方の鉄筋コンクリート作りの地下要塞をつくり、要塞の周りに堀をめぐらせ、周囲にヤグラや20メートルあまりの鉄塔を作るなど、本気で戦争みたいな準備をしている!ノーミン恐いわあ。
 1971年の爆弾事件は62件あり、336個の爆弾が発見ないし使用されているというのは、異常な事態だな。この時代の左翼は大分頭おかしいわ。
 お互い自派の戦果を機関紙で発表しているが大本営発表のように、盛っていてかつ自派の勇ましさと相手の怯懦さを描いたものである。
 再び中核派革マル派の人間を殺してしまったがそのとき、革マル派中核派が絶滅までやめない継続的・組織的なテロを開始して、その目的を達成するために内部に特殊な組織を作って組織的にテロ行為をしていたから、中核派は以前の自己批判に近い沈黙ではなく今度は開き直りに近い沈黙をしたが、そうすることに逡巡は少なかった。革マルが組織的なテロを仕掛けてきたことに対して、中核派は内部で”即戦勝利論”と”戦争回避論”に割れたが、内部の両派の妥協で”戦略的防御論”をとったため、すぐに対応してテロをし返していたというわけではなかった、しかし、後に革マル派中核派の人間を殺した時に、革マル派は記者会見をして例の「革マル派による意図的暴力のみが容認されるとするアホな政治暴力論」を用いて、死の責任は中核派にあるとしたため、中核派は今までもっていた、それまで革マル派を殺してしまった2つの事件での負い目を消し去って『カクマルを完プなきまでに批判しつくすのみならず、軍事的にせん滅を貫徹することこそ、真のカクマル批判である』(P239)と宣言した。
 『カクマルの反革命的暴力論をつうじてカクマルの言いたいことは、要するに早大革マル派のビラが直截にいっているように、『カクマルは一般的に暴力反対である』、しかし中核派などがいる限り暴力を使うこともやむをえないということなのだ。』(P263)これは中核派革マル派の理論を一笑に付している文であるが、これに関してはごもっともと首肯するしかない文章だ(笑)。それにしても、革マル自らが組織的なテロを仕掛けている最中に、よく恥ずかしげもなく「一般的に暴力反対」であるなどといえるな、とそのあまりにもな厚顔無恥さに逆に感じ入ってしまう。
 中核派は、革マルと警察がK=K連合を構成していて、革マル派は警察の行動に以心伝心的にのっかっており反革命であると批判し、後には革マル派中核派が警察の走狗となって行動している反革命集団であるとする”権力の謀略論”を主張した。ただ、権力の謀略論には中核派と権力の結びつきが実態的に存在していて、情報交換をしたり、共同でプランニングをしたり、合同で革マル派を襲撃したりしていると主張しているのに対して、K=K連合は、革マル派が警察の中核派に対する弾圧に乗じて行動していると主張するもので、両者の連合が実体としてあるという主張ではない。このように、罵倒語としての反革命でなく、明確に相手を「反革命」として捉えたため、ここより当人たちの意識の中では内ゲバではなくなり、一応は革命党の1つと認識していたため持っていた一線すらなくなった。