アイヌ学入門

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

アイヌ学入門 (講談社現代新書)

 kindleで読了。
 縄文文化からアイヌ文化までつながっているものだったり、アイヌ文化にみられる異文化の影響のことなどが書かれている。『しかし日本文化が朝鮮半島や中国の影響を大きく受けてきたように、そもそも文化とは交流の中で形成され、変容するものであり、文化的なオリジナリティとは、その混淆と変容の仕方のなかにも見出されるべきものなのです。』(N358)

 ○縄文と日本列島の民と言語。
 アイヌ縄文人の関係。2012年に国立遺伝学研究所などの研究チームの大規模な遺伝子解析の結果によれば『縄文時代にはアイヌと同じ特徴をもつ「人種の孤島」ともいうべき人びとが日本列島を覆っており、そこへ弥生時代になると寒冷地適応した北方モンゴロイド集団が入り込み、縄文人と混血して本州・四国・九州へ拡散する中で、現代の本土日本人につながる遺伝子的な特徴が形成された、ということのようです。』(N386)
 そして『アイヌは縄文語の伝統をアイヌ語として受け継いできたとみられます。』(N399)
 『一方、琉球列島については、近年の考古学の成果によれば、九〜一一世紀前半ごろ奄美大島に隣接する喜界島へ古代日本文化をになった集団が本土から渡来し、城久遺跡群とよばれる大規模な集落を形成しました。その後一一世紀後半〜一二世紀には喜界島から琉球列島へ集団移住が展開し、南島人はこの移民の影響を強く受けたと考えられています(安里二〇一三)。
 琉球語は日本語と同系関係にある言語とされているので、琉球列島の縄文人の末裔にはアイヌに比べて和人の影響がより強く及んだようです。』(N404)
 『近年の考古学の成果によれば、縄文時代琉球列島に中国や台湾の影響はおよんでおらず、また九州の縄文文化朝鮮半島の影響、北海道の縄文文化にサハリンやカムチャッカの影響はほとんどおよんでいないことがあきらかになっています。この事実は縄文文化の孤立的な性格を示しています。
 このことを証するように、縄文人の遺伝子配列のハブログループ(これについてはあとでのべます)はいちじるしく多様性が少なく、比較的長期にわたって周辺集団から孤立していた可能性が指摘されています(篠田ほか二〇一〇)。』(N404)こういう話を読むと、縄文人が何でそんなに外との交流少なかったのか気になってくる。
 ○縄文以後
 続縄文時代に北海道の縄文人の末裔たちはサハリン南部や北千島に進出するが、4世紀以後サハリンのオホーツク文化人が北海道へ南下してきて、アイヌは北海道の南半で暮らすようになる。
 そして気候の寒冷化で稲作が困難になって人口希薄地になった東北北部に進出。古墳社会の人びとと混住し、交易する。その後古墳社会の人々の北上するのにともなって交易拠点も北上する。『七世紀後葉になると、アイヌと交易していた東北北部太平洋沿岸の人びとが北海道の南半へ移住し、札幌市・江別市恵庭市千歳市など石狩低地帯を中心に集落をかまえます。(中略)この本州からの移民は農耕民であり、アイヌはその農耕文化を取りいれ、活発に農耕をおこなうようになります。移民はまた古代日本語を話し、古代日本の祭祀の文化をもつ人びとであり、アイヌの宗教と儀礼に影響をおよぼした。ちなみにこの移民たちは、東北北部では「エミシ」とよばれていた人びとでした。』(N521)
 この7世紀後半から9世紀にかけて北海道に移住してきた人々は王権側からはエミシとよばれていたが実際は古代日本語を話し、古代日本の宗教を持つ人々であり農耕民だった。その移民の文化を受容して古代アイヌの文化「擦文文化」が成立する。移民は9世紀以降途絶えてやがてアイヌと同化した。
 9世紀後半以降、それまで北海道南半に暮らしていたアイヌは全道に進出する。『アイヌの「民族移動」の動きはこれにとどまることなく、一一世紀前後にはサハリン南部西岸、一一世紀末以降は釧路市など道東太平洋沿岸と南千島へ進出します。さらに一五世紀にはウルップ以北の北千島、カムチャッカ南端へと次々進出していきました。』(N560)日本との交易が活発化して、その需要のある産物を手に入れるための拡大。
 10世紀以降本州との交易品となる毛皮や干鮭、高価な矢羽として珍重されたオオワシの尾羽根などの生産に特化するようになった。『その結果、集落は特定の地域に集中し、周囲には広大な無住の地が広がりました。しかしそれ以前には、サケが遡上しない川筋などのいたるところに集落が設けられていました。』(N254)
 ○アイヌのクマ祭り(イオマンテ)と縄文のイノシシ祭り
 アイヌのクマ祭り(イオマンテ)は、子グマを生け捕りにして集落で一年から数年飼養したのちに神の国へ送り返す祭り。
 縄文時代にはイオマンテと同じモティーフをもつ祭りであるイノシシ祭りがあった。
 『北海道では、縄文時代を通じて全道の遺跡でイノシシの骨が出土します。(中略)このイノシシは歯や骨の分析から北海道で一定期間飼養されていたこと、殺したイノシシの骨は火にかけるなどの祭儀に使われていたこと、またDNA分析から東北北部産のイノシシであることが明らかになっています。』(N911)わざわざ祭りののためにイノシシを本州から移入していた。
 『北海道の縄文人は本州からイノシシを移入し、本州で行われていたのと同じ祭りをおこなっていた、したがってイノシシ祭りとは、日本列島の縄文人が生態系の差異を越えて共有すべき、いわば縄文アイデンティティといえるものであったのです。
 北海道と同じくイノシシが生息しない伊豆諸島でも、わざわざ本土から生きた子イノシシを手に入れて、同じ祭りをおこなっていました。縄文社会におけるイノシシ祭りは、私たちが想像する以上に大きな意味と普遍性をもつものだったようなのです。』(N922)弥生時代になると本州ではイノシシ祭りは絶えたが、北海道では主役をイノシシからクマに変えてイオマンテになったではないか。
 ○イレズミ
 考古学者設楽博己氏は刺青を表現したとされる古墳時代の埴輪の顔の装飾と縄文時代土偶の顔の装飾を分析した。『その結果、各時代の顔の装飾表現は連続しながら変化しており、最終的に埴輪の顔に描かれたイレズミ表現にたどりつくことが明らかになりました。つまり、縄文時代にイレズミのおこなわれていたことが考古学に立証されたのです。
 設楽によれば、縄文時代には男女ともにイレズミをしていました。しかし弥生時代には、魔除けとして男だけがするものになります。さらに古墳時代には非農民や非支配層の男だけがするものへと変化しました(設楽二〇〇八)
 北海道でも、縄文時代には男女ともイレズミをおこなっていたとみられます。しかしその後、基本的には女だけがするものへと変化しながら、近世まで受け継がれてきたようです。』(N1017)
 ○アイヌの呪術にみえる日本の陰陽道修験道の影響
 『アイヌの呪術に、日本の陰陽道修験道の影響、あるいはそれに起源をもつ日本の民間信仰の影響がうかがえる(中略)過去の研究でこのような事実が指摘されたことは恐らく一度もありません。しかし私は、これらの呪術が強いケガレの観念と結びついており、そのようなケガレ観自体、アイヌが日本から受容した思想ではないかと考えています。』(N1741)
 例えばアイヌがケガレ祓い・悪魔祓いに行っていた行進呪術と陰陽術の行進呪術である反閇には類似性がある。
 『九世紀後葉になると、東北北部には多数の陰陽師と修験者が入り込みました。(中略)一〇世紀以降、北海道でも修験道に関連する遺物が出土していることから、東北北部に入りこんだ修験道者が北海道へ渡った可能性を指摘しています。
 この九世紀後葉以降、北海道と東北北部の交易は活発化します。交易のため東北北部へ訪れる多数のアイヌが、これら陰陽師修験道者の行っていた呪術を目にしたことも考えられそうです。』(N1966)