誰のために 石光真清の手記 四

誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))

誰のために―石光真清の手記 4 (中公文庫 (い16-4))

 最初に読んでから全四冊を読み終えるまでにずいぶんと時間をかけてしまったが、興味深い内容だから以前の巻の内容とかも結構頭に残っている。
 今巻の石光真清氏はロシア革命の発生で、再び軍から仕事を任されて中国とロシアの国境の地に向かう。当初は情報収集のみだったが後に政治的なことも任されて、介入する気があるのかわからない日本側と切実に後援を望むロシア側の反革命派の人々の間に立たされて苦悩する。
 郵便局の局長としてようやく安らかな日々を過ごしていた著者だが、大正四年に弟真臣から再び満州で会社を設立してはどうかと提案される。その提案にはかつての痛手もあってすぐには飛びつかないが、考えた末結局その提案に乗る。そして翌年に中国の錦州に貿易会社を設立する。その商売は中々に順調な滑り出しだった。しかし大正六年の12月に関東都督府からロシア革命についての現地調査をしてくれないか頼まれて、それを引き受ける。
 その激動のさなかのロシアへ向かう行きの列車での出来事も興味深い。ピッシャンカ駅で武装したアナキストボリシェビキの集団が、資金稼ぎのために乗客を身体検査して貴金属か現金を奪っていき、それに車掌も駅長も駅員も遠くから眺めていくだけというシーン。酒に酔った兵士が老将軍に絡み、老将軍と自分の外套を無理に取り換えさせたりと無体なことをして、それをした兵士を他の兵士たちが歓声で迎えるシーン。そうした一幕の描写もいいね。
 そして石光真清氏はアムール州のブラゴベシチェンスクに向かう。そしてその街に滞在して、様子をうかがい調査を行っていた。
 中島少将からボリシェビキに反発するコザックに協力してくれないかと要請される。石光氏は従来の任務(現地で革命の謅移をみる)ではないと渋るが、結局その要請を受け入れる。
 そのように共産主義者と敵対する勢力に協力するように動いているのでブラゴベシチェンスクの共産主義者側の指導者であるムーヒンから強く警戒される石光氏。そのため命の危険もあって石光氏はアムール川をわたって中国の黒河市に一旦退避するも、手持無沙汰で一日も経ずに再びブラゴベシチェンスクに戻る。そして現地在住の日本人から義勇軍志願者を募って、日本人義勇軍を作る。
 反急進派が日本の後援を望んでいるが、日本にはいまだにきちんとした方針もないし、金銭や武器の援助もない。そのため現地の責任者である石光氏は苦悩することになる。
 そして3月に革命派と反革命派の戦闘が争い、革命派ボリシェビキが勝利したことで多くの民が河を渡って中国側に避難を余儀なくされた。
 石光氏も中国側に移った後に、参謀本部の中島少将に会いに行くと、石光氏が動いていたブラゴベシチェンスクで起こった今回の事件が最後の決め手となり、連合軍と共同で出兵を決まったことが話される。そのため黒河で従来通りやってくれといわれる。石光氏は今回の件を失敗だと思っているから解任してほしいと申し出るが、結局戻って再び黒河で仕事をすることになる。そして黒河での話、連合軍の出兵前後の現地の様子が書かれる。
 9月日本軍が来てブラゴベシチェンスクを取り戻す。連合軍がきたといっても連合軍の意図はバラバラで、反革命派の系統も複雑でバラバラという前途多難な状況。
 その後石光氏はロシア側と日本側の間で苦悩し無力感を覚えて、辞任を申し出る。
 そうして職を辞して錦州の自身の会社に帰ってきた。するとほったらかしにしている間に会社の経営が破綻状態になっていた。また所有していた郵便局も、普通三等郵便局から特設三等局に上がるので局舎ぐるみで逓信省に売り渡して手放さなければならなくなることや妻も体調悪く床に伏せっていることを知る。そのように石光氏がロシア側と日本側の間に立って無力感にさいなまれながら尽力している間、自身の経済状況も大変なことになっていた。
 今回の革命で無力感を覚えながら日常に戻ってきた石光氏はそうした更なる打撃に打ちのめされる。そして世話になった人の要請だからと引き受けたが、家族のことを考えれば、そうすべきでなかったのではと今更ながら考えてしまう。
 その後一旦日本に帰って家族と話した後、失意の中で再度大陸に渡る。その後はエピローグ的なもので、そうして再び大陸で何とか借金を返すために壊れかけた会社で色々と悪戦苦闘したことや大陸の事業を放棄したことがさらりと書かれる。そして昭和三年の石光氏の母の95歳での死のシーンで終わる。そのように最後までままならなかった上手くいかずに終わったのは物悲しさがあって辛い。
 巻末の解説にあるように『氏の一生の大部分は苦難の連続ともいうべきであったので、ついに氏は失意の境を脱し得ずして、その生を終えねばならなかった。氏の如きは人生の貧乏くじを引いた人といってもよいのではあるまいかと思われる。この手記四部は、そうした人の回顧録であり、世の成功者流の自伝などとは、おおよそその内容を異にする。しかし手記の特色もまたその点にありということになろうか。』(P357-8)