図説室町幕府

図説 室町幕府

図説 室町幕府

 1項目につき2ページか4ページで簡潔に説明されている。「第1部 幕府を支える人びと」、第2部 基本となった政策・制度」、「第3部 幕府を揺るがした合戦・政争」の3部に分かれている。1部や2部での室町幕府の役職や制度などについての説明はありがたい。3部も馴染みが薄いこともあってかややこしい印象のある室町時代の事件について簡潔に説明されていていいね。
 『初期の足利将軍は鎌倉幕府の後継とみなされていたため、当初は鎌倉将軍や鎌倉殿などと呼ばれていた。この呼称は三代義満が新たに御所を造り、「室町殿」と呼ばれるようになるまでみられる』(P2)。室町殿以前は鎌倉将軍・鎌倉殿と呼ばれていた。
 4代将軍義持は5代義量に将軍職を譲った後も「室町殿」として政務していた。そして義量が死亡した後『しばらく将軍不在の時期が続くが、義持は「室町殿」として政務を執りつづけた。それについては同時代の人びとから異論は出されていないので、この時期になると、室町幕府の政治は将軍が行うのではなく、足利将軍の家長である「室町殿」がおこなうかたちで社会に定着していたとみてよいだろう。』(P10)室町殿が行うものだという認識が定着していたから将軍がいなくても問題とならなかった。
 室町時代の侍所。『鎌倉時代の侍所と同様、当初は御家人の統率が主な職務であったが、二代目義詮の時期に、それまで京都の治安維持を担っていた朝廷の機関である検非違使庁に代わって、洛中の治安維持(犯罪人の逮捕・禁獄・拷問・処刑など)や徴税、裁判などを担当していった。』(P20)それで『逮捕された犯罪人はどこに監禁されていたのだろうか。実は、室町時代には公式の獄舎は設定されておらず、所司代が置かれていたときには所司代の邸宅に、戦国期になると開闔の邸宅に拘留されていたという。』(P21)所司代は侍所の実務担当のトップで、開闔は侍所の事務方責任者。
 南北朝期の『奥州管領は、軍事指揮権のみならずさまざまな統治権も与えられた』(P40)。その後明徳二年(1391年)に陸奥・出羽が鎌倉府の管轄になって奥州管領は廃止された。その後幕府が再び奥羽を鎌倉府の管轄から外して奥州探題を任命した。その奥州探題奥州管領とは違い、『軍事指揮権は保持するものの、陸奥全土にわたる統治権は与えられていなかったことが明らかにされている。』(P40)
 『陸奥は特殊な地域で、守護が置かれず、各地域の支配は幕府と直結し、郡ごとの統治権を認められた有力国人たちに任されていた。』(P40-1)
 『長い室町幕府の歴史の中で、将軍の子として生まれ、将軍以外で俗人として活動したのは、義満の補佐役として幕閣の重鎮となった満詮、兄義持を差し置き、義満の後継者に目された義嗣、男子がなかなか生まれなかったため、一度は兄義政の後継者となった義視、堀越公方となった政知、堺公方と呼ばれた義維の五人だけである。』(P48)他の兄弟は有力寺院に入れられて僧侶となった。『たくさんの所領を持つ有力寺院を継承させることは、彼らの生活を成り立たせる意味でもうってつけであった。
 なお、将軍家に生まれた女性もほとんど尼門跡といわれる寺院に入っており、これも同様の事情だったのだろう。』(P49)娘も寺院に入れていたのか。