戦国大名と分国法

 

 

戦国大名と分国法 (岩波新書)

戦国大名と分国法 (岩波新書)

 

  

 『本書では、大名たちが定めた分国法の内容を細かく読み解くことで、大名たちの実像に迫ってみたい。彼らはどのような歴史的課題に直面していて、どのように苦悩し、いったいどのような対策を講じていたか。そうした問題を分国法を材料にして考えてみよう。』(Pii)結城、伊達、六角、今川、武田という五家の分国法について扱われる。扱われている5つの分国法の成立に関する話だったり、分国法の条文や中世の慣習法についての解説などが書かれている。

 ○分国法の成立経緯さまざま

 「結城氏新法度」の『内容の不統一は、おそらくこの「新法度」の編纂に中世法に習熟した技術者(法曹官僚)が一人も関与していなかったことを示すものだろう。いや、それどころか「新法度」は他者の目を全く通されることなく、ほぼ法制については素人の結城政勝の独力でまとめあげられたものだったと断言してもいいだろう。』(P11伊達稙宗の「塵芥集」も「御成敗式目」などを参考にしながら大名自身が一人で執筆したようだ。「六角氏式目」は家臣団が原案を書いた分国法で、『大名当主よりも家臣団の意向が強く盛り込まれることとなった。』(P87

 ○当時の慣習法

 「結城氏新法度」の『10条には、「夜に他人の田畠で討たれたとしても、その関係者は「罪は無かったはずだ」などと言ってはならない。何の用事があってそんなところをうろついていたというのだ」という規定がある。(中略)戦国時代の村の掟には「夜間、村のなかを稲を持って通る者は処罰する」という条文がよく見られる。いまと違って街路灯もなく真っ暗な夜の闇のなか、当時の人々が田畠を徘徊する必然性はほとんどなかった。もし徘徊したとすれば、それは他人の田畠の作物を盗み刈ること以外に考えられない。ましてその手に稲束を持っていたとすれば、それこそ盗みの働かぬ証拠、と当時の人々は考えていたようだ。だから、「新法度」の規定は当時としては取り立てて厳格だったというわけではなく、むしろ政勝は当時の「古法」にもとづいて「新法度」を作成していたと言える。』(P24

 分国法を制定した戦国大名たちも『決して何もないところからルールを創出したわけではなかった。むしろ彼らは、中世以来の法慣習を積極的に取り込んで、それを公的に成文法に位置づけることで社会を秩序化しようとしていたのである。喧嘩両成敗や縁座・連座など、大名権力が創始したと思われがちな施策の多くも、じつはいずれも、それ以前の中世の民衆社会にルーツをもつものだったのである。』(P189

 ○分国法

 分国法を制定した戦国大名は少ない。『数多ある戦国大名のなかで、ちゃんと分国法を定めているのはわずか一〇家ほどに過ぎないのだ。』(P191

 当時は手間も費用も多くかかる裁判よりも対外戦争に従事し、恩賞でそれ以上の土地や権利を手に入れるほうが手っ取り早い権利拡大の手段だった。『だから、大名たちも自国の訴訟の停滞に目もくれず、隣国への侵略に血道をあげていたのである。裁判よりも戦争――。これが大多数の戦国大名が最終的に選んだ結論だった。』(P202

 『現実の社会では権力が定める法とは別次元で、人々のあいだで永いあいだに形成された法慣習や習俗によって、すでにそれなりの均衡が生み出されていたのである。現状でも何の問題もないのに、つくる必要のない煩瑣なルールをつくり、人々を疲弊させ、かえって状況を悪化させてしまうというのは、現代社会の組織にもまま見られるところだが、彼らの取り組みにはそれに似たものがある。』(P202-3

 そんな中で分国法が持つ意義。『分国法の成立は、それ以前の社会が作りだした法律慣習を成文法の世界に初めて本格的に取り込んだという点で、それ以前とは法の歴史を画する一大事件だったのである。

 分国法を定めた大名たちも、個々には滅亡の憂き目をみたが、社会と切り結び、民間の法慣習に公的な位置を与えると言う彼らの志向性は、最終的には、その後の近世社会に継承されていくことになる。』(P205