新装版 マムルーク

 

 

 

 イスラム社会の『奴隷軍人のマムルークは、九世紀以降、カリフやアミール(軍司令官)の私兵としてしだいにその勢力を伸張し、やがてカリフの改廃をも自由におこなうようになった。しかもマムルーク軍人の台頭はイラクやエジプトの地域だけに限られていたのではなく、北インド、トルコ、アンダルス(イベリア半島南部)などイスラム世界のほぼ全域にわたっていた。』(Pii

 ○マムルーク朝まで

 『マムルークを私的軍団として用いられることは既にウマイヤ朝時代からはじまっていた。』(P43)通説ではじめてマムルーク軍を組織的に編成したといわれるアッバース朝のカリフ・ムータスィム(在位833-842)の『政策の新しさは、トルコ人奴隷兵を前時代のカリフや有力者の場合よりはるかに大規模な形で採用したことにあったといえよう。』(P43-4)成立当初のアッバース朝のカリフ権を支えていたホラーサーン軍の忠誠心が薄れ始めていて、『忠誠心と勇敢さを知られていたマムルークの本格採用がにわかに注目され始めたのである。』(P46

 エジプト・シリアを支配したアイユーブ朝の第七代スルタンのサーリフ(在位1240-49)ははじめクルド人のカイマリーヤ族とフワーリズミーヤ族を厚遇していたが、やがて両集団の統制に苦慮することになる。そのため『トルコ人マムルークを次々と購入して政権の基盤とすることに努めた。』(P104)そしてマムルークの勢力が増大していった。サーリフの没後に新スルタンのトゥーランシャーがその『バフリー・マムルーク出身のアミールたちをつぎつぎと逮捕・投獄してその勢力の削減をはかった。』(P108)そのためマムルークはスルタンを暗殺し、サーリフの妻でシャジャル・アッドゥルをスルタンに推戴した。そうしてマムルーク朝1250-1517)がはじまる。しかし女性スルタンということによる反発が強く、バフリー・マムルーク出身の総司令官イッズ・アッディーン・アイバクと結婚しスルタン位を彼に渡す。それでも政情の不安定は続いたが、モンゴル軍との戦いであるアイン・ジャールートの戦いで『圧倒的な勝利を収めたマムルーク軍は、エジプトの新政権がイスラム共同体の真の守護者であることを内外に強く印象づけることができたのである。』(P111-2)しかし『マムルーク朝のスルタン権力は容易に安定しなかった。それは、王朝の全期間を通じてスルタンは選挙によって選ばれるのを原則としていたからである。』(P113

 ○エジプトのマムルーク朝マムルークたち

 『スルタンによって購入された青少年のマムルークは、カイロにある軍事学校(ティバーク)に入学した。主人(ウスターズ)であるスルタンへの謁見が終ると、出身地や人種ごとにクラス分けがおこなわれ、監督者となる宦官(タワーシー)の紹介がおこなわれた。』(P125-6)そうした『マムルークのための専門学校は、スルタン・バイバルスによってはじめて建設されたとみてよいであろう。』(P126)五代スルタン・バイバルス(在位1260-77)。

 軍事学校の『在位の期間が何年であったかは不明であるが、マムルークは教養と武芸の課程を終えると、スルタンから卒業と奴隷身分からの解放を示す証書(イターカ)を与えられ、さらに武具や馬にくわえて生活の基礎となるイクターを授与されてマムルーク軍団に編入された。(中略)卒業と同時に、奴隷身分から解放されて自由人となったにもかかわらず、かれらはその後も「スルタンのマムルーク(奴隷軍人)」とよばれ、もとの主人との強い絆を保ちつづけた。

 つまりマムルークは、購入者、教育者、奴隷身分からの解放者、さらにはイクターの授与者であるスルタンにたいして強い敬慕の念を抱き、絶対的な忠誠心を捧げたのである。また、マムルーク相互の関係についていえば、同期の卒業生は、「良き仲間」(フシュダーシュ)として強固な連帯意識をもち、終生の交わりをつづけてゆくことになる。スルタンへの忠誠心と相互の仲間意識、このふたつが精強なマムルーク軍を生み出したといってもよいであろう。』(P128-9

 ○オスマン朝のカプ・クル、イエニチェリ

 16世紀前半にマムルーク朝オスマン朝に敗れて、オスマン朝がシリア・エジプトを征服。

 オスマン朝ではスルタンの奴隷(カプ・クル)はデヴシルメ(徴用)によってキリスト教徒の子弟が集められ、彼らをイスラムに改宗した後に宮廷の小姓になる者とイエニチェリに入って軍人となる者にふり分けられた。『この当時のアラブ社会のマムルークは、イスラムの伝統にしたがって解放の手続きがとられたのにたいして、これらのカプ・クルは奴隷身分のままで奉仕を続けたことが特徴とされている。しかしこれには異論もあるので、いまの段階で、カプ・クルの解放問題について明確な結論を出すことはむずかしい。スレイマン(在位一五二〇-六六)の時代にはイエニチェリの数はおよそ三万人に達し、オスマン帝国の精鋭部隊としてアジアやヨーロッパの征服に活躍した。彼らは、いつでも戦闘に参加できるように、つねに兵舎にいて軍事訓練をおこなうことが義務付けられ、結婚して家庭をもつことは許されなかった。(中略)しかし一六世紀末になると、その地位を子孫に伝えることのできないイエニチェリの不満がしだいに高まり、この軍団の存在はスルタンにとって危険なものに変わりはじめていた。』(P178