家康研究の最前線 ここまでわかった「東照神君」の実像

家康研究の最前線 (歴史新書y)

家康研究の最前線 (歴史新書y)


 「松平氏「有徳人」の系譜と徳川「正史」のあいだ」
 「三河物語」以来、家康から8代遡った親氏が、新田氏末流で諸国放浪の果てに松平家に入り婿して松平氏を名乗ったというのが将軍家の正史とされた。入り聟となった初代親氏(信武・徳翁)の同時代史料はないが、17世紀に松平郷でまとめられた「松平氏由緒書」(由緒)には諸国流浪の僧形の人物で、都風の教養にあふれた人物と描かれる。三代信光やその従兄弟(かつ義兄弟)と推定される益親が京都に強い関係を有していたことから、『<京辺りの下り人が入り聟になったことをきっかけとして、その後の松平氏の飛躍につながることになる京都との人脈が生まれた>という史実が、潜んでいる可能性は十分に考慮されうる。』(P24)
 『初代徳翁を聟に迎え入れた松平太郎左衛門尉信茂(信重)は、一族が信仰する「不思議の井戸」の神(この井戸は現存する)の生まれ変わりで、たいそう裕福な暮らしぶりで「十二人の下人」を従えて、彼方此方に出向き道や橋を造るのに従事していたと記されている。
 土木工事に長けた集団が、土木工事の核心にある土掘り(土公神の祟りを避けて掘る)に関する自らの技術の粋を集めた井戸を神聖視し、棟梁を井戸神の生まれ変わりと説くは自然である(村岡:二〇一三)。』(P24)
 初代徳翁の後に家督を務めた泰親(祐金・用金)には初代の子説と弟説があるが弟説が有力。そして嘉吉三年(1443)に泰親の子とされる『益親は洛中に屋敷を構え(「政所賦銘引付」)、畿内で金融活動をしており、「有徳人」であったと考えられている。大浦などの荘園の代官請負は、権門相手の金融活動の債権として入手した利権であろう。益親の子勝親についても、京都における「有徳人」としての活動が知られている(平野:二〇〇二)。』(P29)
 益親や親則(三代信光の子)は当時自分たちのことを賀茂姓と認識していた。『賀茂氏は、歴日の知識を以って朝廷陰陽師の座を占め、その傍流は、土にまつわる作事において必需とされた「土公の祟り回避」の作法に、歴日の知識を援用し、民間に活動した。
 すると、「由緒」が伝える井戸神を神聖視する土木技術集団の棟梁であったという松平太郎左衛門尉のなりわい伝承と、賀茂姓を名乗っている史実とが交差する。信光時代の松平氏が、賀茂姓を自任していたことからすれば、先祖が土木技術集団の棟梁(陰陽の徒)であったという記憶をこのころまでは伝えていたであろう(村岡:二〇一三)。』(P31)

 「家康家臣団は、どのように形成されたのか」
 関東に移った家康が、格段に高い知行高を与えた井伊直正(12万石)、本多忠勝(10万石)、榊原康政(10万石)。その井伊直正、榊原康政本多忠勝の三人に家康が付けた「附人・与力」。『これは主に近世史研究の側から提起されたもので、家康から付けられた附人が三人の武将の配下で活動し、家康と各武将との間を取り持つ役割を果たし、彼らが近世における譜代大名家臣団の根幹をなしていくというものである。』(P93)
 『附人を付属された武将と附人の関係は、戦国大名の「寄親・寄子」の関係と類似している。(中略)寄子は合戦に際して寄親の軍事指揮下に入って与力として行動するが、頼子は寄親の被官ではなく、あくまで大名の被官とされる(小和田:一九六七)。』(P96)
 『本多家附人の都筑・梶・河合の三人については、自身の知行地のほかに「寄子給」(与力給)を幕府から与えられていた。(中略)この寄子給もいったん幕府に返上し、改めて本多家より給付されたようである。寄子給は本多忠政から政朝に家督が引き継がれたあとの寛永十年(一六三三)、家臣への知行割替えの際に廃止となる。本多家からの知行給付、さらに寄子給の廃止により、附人は本多家との主従関係に基づく家臣に転化していくのである。(中略)井伊家の場合、附人で家老を務めた木俣家は、歴代藩主が家督相続し、江戸城に御礼登城する際には、木俣家当主も登城し将軍にお目見えすることが慣例となっていた。
 当主の家督相続の折に、附人の家臣が将軍に御目見えする慣例は、本多家附人の都筑・梶家などでも見られる(『愛知県史』資料編22)。(中略)附人筋の家系では、大名家臣に転化したのちでも、徳川将軍家の直臣であった意識は残っており、将軍への御目見えを誇りとしたのである。』(P97-8)