弥生時代の歴史

弥生時代の歴史 (講談社現代新書)

弥生時代の歴史 (講談社現代新書)

 kindleで読了。
 ○水田稲作の始まり
 前一〇世紀に水田稲作民が九州北部、玄界灘沿岸地域にやってくる。
 園耕民とは『農耕をおこなっているものの、それはあくまでも生業の一部であって、農耕中心の暮らしを送っているわけではない人びとを指す。縄文後・晩期の西日本の在来民のほとんどは園耕民であったと予想されている。
 園耕民は縄文後・晩期依頼、平野の中・上流域を中心に暮らしていた。森や川、山など、いろいろな生態系が交わる場所こそが、彼らが暮らしていくのに最適な場所だったからだ。園耕民には魅了がなかったのか、下流域には暮らしのあとは認められない』(N394)。九州北部にやってきた水田稲作民はそれまで在来民が暮らしていなかった平野の下流域で暮らし始める。中流域の園耕民と下流域の水田稲作民。『こうした住み分けはこの地域に限られたものではない。西日本や関東南部などの水田開始期によく見られる一般的な現象である。』(N435)
 早良平野の有田七田前遺跡。土器を見ると地元の晩期系縄文土器が多く、近畿の土器や朝鮮半島青銅器時代後期の土器も含まれる。『このことからこの遺跡の人びとは基本的に地元出身者だが、近畿や朝鮮半島の人びととも交流を持っていたことがうかがえる。下流域にはもともと在来民は住んでいなかったのだから、中流域に住んでいた在来民の一部が下流域に進出し、水田稲作を始めたと考えられる。』(N422)そのように下流域にきて水田稲作を始めた在来民もいた。

 ○水田稲作が九州北部以外の地域にも広がる
 『これまで水田稲作は九州北部から西日本各地に、瞬く間に広がったと考えられていた。(中略)しかし炭素14年代にもとづく新しい年代観(以下、弥生長期編年と呼ぶ)のもとでは、こうした考え方は成り立たなくなる。九州北部から近畿に広がるまで約三五〇年、関東南部にいたっては約六五〇年かかったことになるからだ。』(N662)
 アワやキビを栽培していた長野県の松本市の石行遺跡は縄文のまつりの道具もあるが弥生文化に特徴的な磨製石器もある、縄文文化弥生文化の要素を併せ持つ園耕民のむら。そのあと前三世紀に段丘を降り低地に水田を拓き水田稲作の生活に入った。『人々が水田稲作を行うためには、小規模な集団が結束し、労働力を集約して共同で対処する必要がある。しかしアワやキビの栽培なら、小規模な集団に分かれたままでも行うことができる。水田稲作を始める前にアワやキビの栽培が想定されるのはこうした理由がある[設楽二〇一四]。労働単位の再編成や祖先祭祀の単位を変えることなく対処できるのがアワやキビを対象とした園耕だからである。ちょうどこのころは前六世紀の温暖期に当たるので、必ずしも変革を求められる時代ではなかったのだろう。
 しかし前四世紀に襲ってきた弥生時代最大の寒冷期は変革しないまま存続することを人びとに許すことはなかった。労働組織や祖先祭祀の単位を再編成して臨まないかぎり、集約性の高い水田稲作を導入することは難しかったのだ。』(N819)
 『縄文のまつりの道具を少しでも使っているところでは、社会面に弥生化の兆しが見られないのだ。社会が質的に変化すると縄文のまつりは残ることができない、ということを意味しているのかもしれない。
 小規模な集団に分かれ、土偶や石棒を使った祖先のまつりを行っていた中部高地や関東南部の人びとが、労働集約性の高い水田稲作を始めるためには、その前提として集団の統合を必要とした。統合されると、土偶や石棒のまつりは姿を消した。』(N1477)

 ○古墳時代
 『現在の学界は古墳時代の始まりを、経済的な転換ではなく、政治・祭祀的な転換として描く傾向が強い。』(N1922)
 二世紀以降に鉄と中国鏡の分布の中心が大きくずれる理由。九州北部の玄界灘沿岸諸国では威信財よりも鉄素材などの必需品のほうが重要だったが、『近畿を中心とする東方世界はといえば、有明海沿岸諸国と同様、まだまだ中国鏡など遠距離交易でしか確保できない威信財を重要視し必要とする段階にとどまっていた。』(N1996)
 奈良に前方後円墳が作られるようになった理由を説明する三つの有力な仮説。『まず何もなかった中国中原に、突如最古の古代国家である夏・商が出来るように、「無主の地故」という考え方。次に祭祀・政治の中心であった邪馬台国の所在地だったから、三つ目は列島の中央という地の利を活かして、外来物質の流通ネットワークを主導できたから、という説である。
 ほかに、この三つの説が当てはまる地域はない。九州北部を除いた列島の倭人たちにとっての中心は、まさに近畿だったから、ということにつきる。
 人口的にも面積的にも九州北部とは比べものにならないほど大きな世界の中心が近畿である。九州北部は中心になれるはずもなく、またその意志もない。大多数の倭人たちが求めるものを供給できた、またその意志があったのが近畿だった。心を同じくする倭人たちの祭祀的・精神的なシンボルこそ、前方後円墳だったのだ。』(N2053)