大江戸商い白書 数量分析が解き明かす商人の真実

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 ○江戸の町人人口と髪結の沽券金高から推計された地区ごとの人口
 江戸の町人人口。嘉永六年(1853)に町方と寺社門前地合わせて57万4927人、翌年の嘉永七年には57万898人という詳細な数字が記録されているが、どの町に何人住んでいたかという内訳は失われている。
 『嘉永四年七月のこと。それまで禁止されていた商人たちの同業者組合の再興が許可されることとなり、諸商売の実態や権利関係についての詳細な調査が江戸全域に大々的に実地された。町奉行所に集約された、その膨大な調査報告書の中に、「市中髪結沽券金高取調書」と題するものがある(嘉永四年七月九日『諸問屋再興調』第九巻七〇号文書)。』(N85)そこには『全四八組、それぞれの組に属する髪結たちがここに保有する沽券状、すなわち営業の権利所の額面の総計を列記したものである。』(N85)髪結の料金は江戸全域で統一価格であったので、その利益は人口と正比例していると考え、沽券金高とその割合から江戸の地区ごとの人口を推計。日本橋北と南の両地区は『合わせて二五万九〇〇〇人、江戸全体の人口のおよそ四五パーセントが、この二つの地区に集中している。そのあとはぐっと下がって、切絵図4「芝愛宕下」の三万四〇〇〇人、あるいは切絵図17と21の両ブロックにまたがる浅草地区の5万8000人が賑わいのめだつところとして挙げられる。』(N132)そのようにどこにどのくらいの人がいたのかが数字として見えてくるのがいいね。

 ○伊勢屋・万屋越後屋の3つの屋号で活動した3939人の商人のデータからわかること
 『『江戸商家・商人名データ総覧』全七巻(田中康雄編、柊風舎、二〇一〇年、以下『データ総覧』と略記する)。』(N290)その中で最も数の多い伊勢屋と次に数の多い万屋、6番目に多い越後屋(三井と同じ屋号)で活動した商人たち3939人を分析対象として選定、その商人たちのデータからわかること。
 3つの屋号の商家で史料上の開始と終了の時期を計測した、少なくともこの期間は継続したことがわかる期間(存続年数)は『全体平均は、一五・七年、それぞれの中央値はさらに下がって一三年から一一年である。
 一五・七年。まさか、こんなにも短かったのか、とびっくりする。データの性質上、<少なくともこの期間は継続した>数値であるから、実際の平均存続年数はこれより幾分か上回るであろうが、とくに一八五一年以降は史料も豊富で網羅性も高く、観測の精度が上がるので、その「幾分か」が二倍も三倍もの数値に跳ね上がるとは考えにくい。史料上の存続年数が十数年なら、実際の存続年数もそこから大きく乖離せず、三〇年や五〇年といった大きな数値にはなり得ないと想定されるのである。一五・七年。三井はもちろん、いつからか我々が江戸商人について共有して来た代々暖簾を受け継ぐと言ったイメージからはほど遠く、それこそ一代にも満たない短さでしかない。』(N371)
 株(営業権)の移動事由。『四九パーセントは譲渡、一〇パーセントは相続、六パーセントは休業して引受手が引き継ぎと、合わせて六五パーセントの領域では既存の株の所有権が古い持ち主から新しい持ち主へ移動することで株の引き継ぎがおこなわれている。残りの三五パーセントの領域では新規および引受手なしの休業と、古い株が廃絶して新しい株が創設されるという株自体の入れ替わりが進行している。』(N470)意外に少ない相続と、意外に多い新しい株の創設。
 3939人の個票データから各店舗がどこにあったかを集計。そして『この比率をもとに嘉永四年の一斉調査の時の江戸の総店舗数一万三九三四軒を母数として、各地区ごとの店舗数を推計する。』(N781)そうして推計された各地区ごとの店の数、日本橋南で2430、日本橋北2561と日本橋の南北合わせると約5000の店があったことがわかる。そして他には浅草1183 ・今戸箕輪浅草728、芝愛宕下896・芝高輪辺728、深川881などが目立つ。