征夷大将軍研究の最前線 ここまでわかった「武家の棟梁」の実像

征夷大将軍研究の最前線 (歴史新書y)

征夷大将軍研究の最前線 (歴史新書y)

 「そもそも、源頼朝征夷大将軍を望んでいなかった?」
 新資料「三槐荒涼抜書要」の発見。その中に『頼朝が征夷大将軍に任官した経緯の一端を記す『山槐記』建久三年(一一九二)七月九・十二日条が含まれていたのである。』(P23)その『新資料で最も注目されるのは、頼朝が「征夷大将軍」ではなく、「大将軍」を望んだという点である。従来の研究では「征夷」に関心が寄せられたが、どうやら頼朝には「征夷」という言葉への執着はなかったことになる。
 一方、朝廷側では複数の候補が挙げられ、それぞれの先例が考慮されている。』(P27)頼朝は大将軍を望み、朝廷は複数の候補の中から坂上田村麻呂という吉例のある「征夷大将軍」を選んだ。
 源頼朝が「大将軍」を望んだ理由。蜂起当時の頼朝は武家の棟梁・源氏の棟梁ではなく、蜂起した諸勢力の中の一つだった。『武家社会において尊ばれた「曩祖」たちは「将軍」と称された。(中略)治承~文治の内乱では(中略)各地には「将軍」の末裔たることを自負し、ともすれば自らが「将軍」たらんと志向する武士たちが割拠していた。(中略)氏族の枠組みを超えて武士社会を糾合し、一個の武士の政権を確立しようとする頼朝が求めたのは、武士たちが尊敬し憧憬する「将軍」を凌駕する超越的な権威としての「大将軍」だったのである。』(P35-7)

 「征夷大将軍は、「源氏長者」であることが条件か?」源氏長者征夷大将軍足利義満が源氏長者・淳和奨学院両院別当となったが、足利義満以前の将軍で『源氏長者の地位に就いた者は一人もいない。』(P113)一方で江戸時代の徳川将軍はほぼ全ての将軍が源氏長者となった。
 『源氏で現職の公卿(位階で三位以上、官職で参議以上)の地位にある者のうち、最も官位の高い人(これを「現任上首」という)が奨学院別当の地位に就き、それがすなわち源氏長者となる。』(P114)源頼朝征夷大将軍に就任した当時現任公卿ではなく、その2年前に権大納言になった時も1月で辞任している。源実朝は右大臣になった後すぐ暗殺されて現任上首の地位にあったのは3カ月だけだった。足利尊氏征夷大将軍になったときの官位は従二位権大納言で、正二位大納言に村上源氏の堀川具親がいた。『そしてこの間、中世前期を通じて、源氏の筆頭公卿として淳和奨学両院別当・源氏長者の地位にあり続けたのは、全て村上源氏の一族であった。』(P115)
 足利義満は現任上首となって3年で源氏長者・淳和奨学両院別当となる。そして義満出家後に現任上首となった者は源氏長者にならず、次の将軍足利義持がその地位に補されるまで空席だった。『この背景には、どうやら足利将軍家摂関家に準ずる家格として遇しようとする公家社会の思惑があったらしい。(中略)義満の急速な朝廷進出と身分上昇に就いては、従来、彼の分を過ぎた増長・僭上、さらには皇位簒奪の野望を示すものとして語られてきた(今谷:一九九〇)しかし最近では、「正平の一統」で北朝の三上皇が一時吉野に拉致されたことなどによってもたらされた朝廷権威の衰頽に対し、武家の実力を取り込むことで、北朝指導力の欠如を補おうとした朝廷側の思惑が指摘されている(小川:二〇一二)。』(P122-3)
 『以上、述べてきた通り、源氏長者という地位そのものに、それほどの権力があるわけではないが、武家政権の首長が源氏長者となったことには、大きな意味があった。これはちょうど平安末期の仁安二年(一一六七)、平清盛(一一一八~八一)が太政大臣となって「平氏政権が成立した」とされているのによく似ている。
 言うまでもなく平安末期において、太政大臣と言う地位は必ずしも「政権」を意味するものではなく、清盛の前任(藤原伊通)や後任(藤原忠雅)の太政大臣も、決して「政権」など掌握していない。しかし、清盛が武家として初めて太政大臣になったということには、大きな意味があった。
 本来、公家社会から卑賤視されていた武家が、太政大臣や源氏長者という高位高官についたことに意味があったからである。しかもこれは、武家政権の側がそれを望んだ、というより、その多くは朝廷が武家政権の実力を取り込むための措置であった可能性が高い。』(P125-6)