解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)

解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯 (河出文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
ドリトル先生』や『ジキル博士とハイド氏』のモデルとも言われるジョン・ハンターは後世、近代外科医学の父と呼ばれるようになる。しかし混沌とした草創期にあって、彼は群を抜いた奇人でもあった。あまりの奇人ぶりは医学を超え、進化論まで及び、噴き出すような多くの伝説さえ生んだ。遺体の盗掘や闇売買、膨大な標本…ユーモラスなエピソードに満ちた波瀾の生涯を描く傑作。

 伝記を読むことはあまりないのだが面白かった。
 ジョン・ハンター、屋敷が「ジキル博士とハイド氏」の家のモデルとなり、作中でも『ジキル博士はこの家を「有名な外科医の遺産相続人から買った」ことになっている』(P355)ようだ。そして有名な児童書「ドリトル先生」のモデルとなったというのは驚き。もちろん、ドリトル先生のモデルとなったのは外来生物を飼ったり動物を患者のように扱っていたという部分で、ドリトル先生は死体解剖が趣味だったりはしないよ!(笑)。またハンターが書いた鯨の観察についての論文が「白鯨」を書くきっかけになったようだ。
 冒頭のイラストや肖像などがまとまって載っているページでの『ハンターへの嫉妬に生涯をささげた二流外科医、ジェシーフット』というキャプションには笑った。
 古代ギリシャの4つの体液の均衡うんぬんという考えが一般的であり、そして消毒薬が登場する100年前という時代に、『ハンターは当時確立されていたやり方すべてをまずは疑ってかかり、よりよい方法の仮説を立て、その仮説が正しいかどうかを詳細な観察と調査、実験を通して確認した。自説を人間に試す前にまず動物で実験するようにし、自分が手術室で施した処置については、患者のその後の経過の観察を欠かさなかった。患者が死んでしまったときは、検死解剖をして原因を追求した』(P27)というように非常に科学的な考え方やアプローチが出来る人が登場したというのはすごい(まあ、検死に関しては概ね盗掘で死体を取ってくるのだが)、同時にそんな人でも道具や衣装を綺麗にするという考え方にはいたらなかったということにも驚く。
 しかしジョン・ハンターは生きている人に対してはそうして自身の仮説を試みる前に、しっかり考えて、動物で再三実験しており実験台としては考えていなかったようなのに、死人の尊厳に対しては無頓着で墓荒らしと組んで死体を買って解剖を再三しているようなのは、そのギャップに少し戸惑う。まあ、当時のイギリスでは解剖用の遺体を手に入れることできない状態であるため、知識を深めるのに盗掘しかほぼ手段が無かったという事情もあったようだが、それでも年中死体解剖をしているようだし、ハンター兄弟の登場で死体盗掘がひとつの産業になったというほどなので、やはりちょっと引いてしまう。そして、そんな死体が手に入りづらい状況のため、公開絞首刑の日にはその死体を利用しようと多くの外科医や彼らに雇われた人がその死体を虎視眈々と『罪人が死にかけるやいなや(中略)絞首台めがけて飛び出し、死体を引っぱり合い、取り合う。』(P70)というように狙っていたという状況は、なんと言うか凄まじいなあ。
 そして第1章で扱われている、彼が試みた新しい手術法によって当時脚を切り落とすのが一般的だった動脈瘤を四肢を切らずに治療することが出来るようになったとは、実に鮮やかな成果!
 当時の医療で有効な治療はキニーネ天然痘の予防接種(まだ牛のではなく、人の海を少量接種するというやり方だが)、そしてアヘンによる痛みを和らげるという3つ以外の治療は効果が無いどころか、むしろ毒になるものの方が多かった。医療がほぼ確実に効果のあるものになるのは、150年前とかそのあたりの時代になってからだということは、つい最近「代替医療解剖」でも読んで知っていたが、当時の医療の中で効果のあるものが3つというあまりの少なさに驚く。
 そんな中でとても有能な医者であり、非常に科学的な考え方をしていたハンターは瀉血を嫌い、また無闇にメスを入れることを戒めていた(メスを消毒するという概念がなかったということもあり、メスを入れないほうがむしろ良かった)。また、軍医となっていたころ傷口に食い込んだ異物を出すよりも、むしろそのままにしていたほうが治癒しやすい(当時の戦時の病院の環境や使っている道具が不衛生だったため)ことに気づいて、なるべくそのままで放っておく保存療法を選択することで良い結果を生んだ。
 ジョン・ハンターの兄であるウィリアム・ハンターは、当時イギリスではフランスなどとは違い、研究用に死体を調達できるように法律が整備されていなかったため、解剖用の死体を手に入れることが難しかったが、そんな状況を好機と捉え、生徒たちが実際に解剖や外科演習が出来る体系的解剖教室を開いた。その死体は、まあ、当然墓泥棒で盗ってきたわけだが。
 ウィリアムはそうした解剖教室をあて、産科医としての評判も高く、名士との付き合いを重視していたため、自分は自身の教室維持のために必要とはいえ墓泥棒とはなるべく関わりたくないので、かつては「教材」調達は助手が担っていた、しかしその助手が独立したため、代わりに弟ジョン・ハンターがそうした教材調達の役目を担うようになった。食事、住まい、仕事、小遣いと依存していたため、ジョンはその役目を拒めない立場だったが、同時に彼自身、解剖は初めて興味を感じた仕事でもあったので、それを続けるために必要なその仕事を喜んでやっていた。また『酒好きで気取ったところがなく、訛りまるだしの話し方は「納入業者」連中から気に入られた。』(P51)。そしてジョン・ハンターの出現によって死体泥棒はひとつの産業になったが、ジョンの弟子たちも、死体解剖を重視するようになったので後にアメリカなどでも死体泥棒の問題が発生した。
 当時イギリスでは、棺の中から金品を盗むことは犯罪であったが、死体そのものを盗むことを罰するほうが無かったため、死体から衣類や結婚指輪をはずして、裸にして盗んでいった。
 しかし東インド会社の船員が一月休み無く働いて、1ポンドだった時代に、18世紀半ばには大人の死体は1ギニー、そして1780年代にはその価格が倍になり、さらにその後2、30年で16ギニーまでに上がった。ポンドとギニーの関係性はわからないが、価格がどのくらいかわからなかったが、「1ポンド=20シリング、1ギニー=21シリング、1シリング=12ペンス」ということなので、実際の比率をみると18世紀中はまだそんな高額とは思わないが、東インド会社の船員って高給で有名だったりする?
 兄ウィリアムの講義は雄弁で非常に上手く、評判になったため、経済学者のアダム・スミスや『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンもその講義を聞きに来ていて、しかもギボンは、『講義終了時には毎回、ウィリアムに礼を述べていた』ほどの授業だったというのは驚きだ。
 ジョン・ハンターは手先が非常に起用で観察力も鋭かったため、あっという間に兄の解剖の技量を上回り、1748年にウィリアムの元にやってきて、1749年には学校の解剖作業を任されるまでになってきた。また、身体組織の標本を作るのに長けていた。また、気さくな人柄もあって、彼は周りの生徒からも好かれていた。
 ウィリアムは基本的に節約家だが、寛大な謝礼を払って、ジョンに当代屈指の外科医であるチェゼルデン(彼の死後は、ポットという精鋭の解剖学者であり外科医)の下で外科修行に行かせるなど、わりと家族思い。まあ、才能があり、助手役をしている弟であるならばある意味そうした高度な技術を身に着けて欲しいと思うだろうから、そうしたところで勉強させるのは当然でもあるから、そことか死体調達とか必要なところには金を惜しまないと言うべきか。また、チェゼルデンは『何より観察と実験を重んじ、成功する見込みが無い手術を避け、解剖を熱心に勉強した。資格の無い自称外科医や民間療法の治療家のやり方も偏見なく観察し、いいと思えばどんどん自分の治療法に取り入れた。』(P96)というような姿勢であったので、そうした取り組み方をジョンが学んだのも重要だった。
 チェゼルデンもポットも慎重派という、むやみやたらに切ったりしない人(当時では感染症もあるし、また直るものでも直ぐに切断してしまったということもあり、現在から考えても適切な姿勢だった)をあてがっているというのは、ウィリアムもいい人選しているな。他にも弟のジョンは聖ジョージ病院の下級外科医になるのに、通常1、2年かかるが、たった5ヶ月でその職を得たが、ウィリアムは裏でその職が得られるように運動をしていた。また当時は軍の外科医になるとその後一般人を見る権利が与えられるため、ウィリアムが外科軍医副総裁とつながりがあるので、ジョンは軍の外科医に一時なっていた。
 しかし軍の外科医になると一般人を見る権利が与えられたって、軍の外科医なら一般人が見られないような半人前の医者でもなれたことだからよく考えると恐ろしい。その後、兄弟は標本の所有権で喧嘩になっていた(その後和解する)が、それでも復員した弟に経済援助を何度かしていたようだ。また、弟が常勤外科医になれるように運動して成功させるなど、基本的には仲が良い兄弟だったようだ。
 しかしハンター兄弟は互いに頑固で強情だったから、幾度も衝突して仲がこじれていって、ある珍しい臓器の標本をウィリアムに見せたらソレをウィリアムが勝手に盗っていったことにジョンは怒って、それが引き金となり、ジョンは兄が共同で実験したものを自分だけの論文としたことを告発した後は、そのことをウィリアムは当然喜ばず、その後遺産も弟には一切わけなかったように、兄の人生の最後のほうでは決別していたようだ。しかしそれでもジョンは、兄の死後発表された回想録を手に入れて、『その余白に感想を走り書きしている。その走り書きの多くは、賞賛だった。そっけない言葉や皮肉めいた表現はひとつもない。兄弟間の未解決の争いを根にもっているようすはどこにも見られなかった。ただ一言、「兄はおそらく、人間につきものの弱点をゆるすことができなかったのだろう」とだけ書いてある。』(P321)ということだから、ジョンは兄が死ぬまで和解出来なかったことを後悔しているようだし、兄のことを嫌いというわけでは決してなかったようだ。また、兄が死んだ時遺言で自分に財産が残されなかったことを知っても、その学期が終わった後に、『「ハンター先生は講義を終えたあとも、まだ何か言うことがあるように見えた。たったいま思い出したというような話しぶりで、こう切り出した。『おおい諸君、もうひとつ。きみたちも知っていると思うが、わが国の解剖学がこうむった損失について知らせておきたい』と。そこで先生は口ごもり、生徒たちから顔をそむけた」。ハンターは数呼吸おいて顔を上げると、両目に涙をためて兄の解剖学への後世に残る貢献たたえた。アダムズはさらにこう書いている。「それはあまりに感動的な光景であり、教室全体が沈黙につつまれた。教室から出ようとしていた全員が数分間、その場に立ったまま、あるいは座ったまま、無言でいた」』(P343)という逸話からもそのことがよくわかる、しかしこの話はいい話だなあ。
 しかし当時科学的にどういう物質で出来ているか調べられなかったのだから仕方ないが、体の部位を指で触ったりはともかく、体液の味を舌でなめて確認したというのは引く。だけどジョン・ハンターが『精液は匂いも味もやや吐き気をもよおす感じがするが、口の中にしばらく含んでいると香辛料のようなあたたかみが生まれ、それがしばらくつづく』(P100)と平然に書き残しているのは、ちょっと笑える。
 ウィリアムは功名心が強く、ジョンと共に仕事した仕事について、功績を独り占めにしようとしたり、ジョンが作った標本を自分が金を出したのだからと当然のように自分のものにしたというのがあり、その後ジョンが自立していくに従って、そうしたことが兄弟の不和の原因となった。
 また、ウィリアムは上質の衣類や上流階級の付き合いなど仕事につながる部分ではちょっとした贅沢を愉しむことがあっても、食事については贅沢をせず、『スコットランド出身の医者が毎週集まる珈琲店で、「彼は食事を注文せず、卵を二個つまみながらクラレットをすするだけだった」』というほど質素な食事をしていた。その一方でジョンは後に収入がかなり多くなって、自分の科学的な興味のために外来生物を買ったり、様々な生物やその死体を蒐集するのに多大な費用をかけていたため、常に金欠で自分や自分の家族の面倒見るのが精一杯だったのに対して、兄ウィリアムは夫が死んで未亡人となった妹とその子供の面倒を見ていたりしている。まあ、兄ウィリアムは解剖学に身を捧げることと結婚生活は両立できないという信念があるからずっと独身だったということもあり、そうした妹やその子について、既に自分の家庭を持っているジョンよりも感じる兄妹の親しさが強いというのもあるのだろうけど。
 はじめて患者を診たときから、治療法が駄目だったら同じものにこだわらず、いくつもの手法を試して、最後は成功させているが、その患者が性病である淋病による尿道狭窄ということもあり、何回か失敗しているとき患者が苦痛に耐えているのが、どうもコメディみたいに思えてくる。
 ウィリアムは医学の新発見をして後世に名を残すことが野望で、それ以外の私生活の面では倹約していたし、妻も娶らず、ただその目標に邁進していたということもある。当時は助手だったのだし身内という甘えもあったのか、実態どおりに弟と共同論文として出さずに自分の発見としちゃったということなので、まあ情状酌量の余地はあるけど。ウィリアムが講義していた内容を自分の発見だと主張したモンロー・ジュニアはその余地は欠片とも残っていないが、そして、そうしてウィリアムの講義を剽窃して新発見だと騙った卒業論文を添えてウィリアムの解剖教室に入ろうと入学願いの手紙を出してくるモンロー・ジュニアは、なんという面の皮の厚さだ!そして、それでも一応入れてやるウィリアムは大人だね、まあ、2世の父にウィリアムが教わったという縁もあるし、その父が医学会の実力者でもあるから切歯扼腕しながら仕方なくということなのかもしれないが。そしてその後再び彼ら兄弟の成果を剽窃した小冊子を出版して、ハンター兄弟対モンロー父子で論戦になるが、ウィリアムが小冊子を作り細部にわたり彼らの主張を逐一論破して、またモンロー・ジュニアの卒業論文を出す前に、見せられた化学者はウィリアム・ハンターが解説しているものだと説明し、他人の講義ノートから理論を盗用するのはよくないとたしなめられていたことも発覚したこともあり、趨勢は決定的になり、自分たちの発見と栄誉を守る論戦にハンター兄弟は勝利した。
 当時は写真や映像が無いから公衆の面前で実験するという見世物じみたことをやることがあったが、ジョン・ハンターは犬の腹を割いて、ミルクを腸にかけ、死亡を吸収するのが静脈ではなくリンパ管にあるということを実験で示したが、その犬相手に4種の実験をしたため、そのついに犬の腸が破裂して死んだ、1回の実験で死ぬよりも4回目まで生きて残ったことでその犬により一層哀れさを感じる。
 ジョン・ハンターには若い生徒たちの心を瞬時に掴んでしまうカリスマ性もあり、上流階級の人たちにもその人柄について好意的にとらえられていたようだ。また、彼の観察し、実験し、応用する流儀が弟子たちに受け継がれ、そうした精神が広がって行きその後の医学の発展に多大な影響を与える。特に住み込みの弟子になった第一号のジェンナーは後に天然痘のワクチンを開発するなど大きく医学の進歩に貢献した!
 しかし自らを実験台として、患者の膿を自分の生殖器に接種して、淋病と梅毒が同じかどうか調べる実験をしたが、患者が両方の病気を持っているため、その両方にかかってしまったという散々な結果。しかし、取り返しの付かないことをしてしまっているから読んでいて眼を背けてしまうほど、辛い。それに、彼がウィリアムのように独身を貫くというのであれば、自分を実験台にする精神を賞賛する気持ちも湧きでたのかもしれないけど、そうでなくジョンはこのあと結婚もするし、現段階でも婚約をしているから、彼だけのことに留まらないから、なんていう馬鹿げたことをしたのだと思ってしまう。それに自分ひとりだけで実験したから、その両方の病気は同じものという誤った結論をだしてしまっているし。しかしその実験に対して、その結論は誤りとする医者と医学生の集まりが、梅毒の症状が出ている人の膿を性器に接種して、梅毒と淋病が別と発見したというのは、それはまた頭がおかしいというかなんというか、さらにその発見を公表しなかったと聞くとなんでその実験をしたのかすらわからなくなるわ。
 しかしジョン・ハンター、ヒョウのつがいが鎖を切って逃げ出し犬を襲ったとき2匹のヒョウの首をつかんで、ヒョウ用の洞穴に連れ戻したというのはすごいエピソード!その時は無我夢中で、後に危険性を気づいて震えたようだが。その他にも飼っていた雄牛とレスリングを楽しんでいたなんてエピソードがあるようだし、かなりの力持ち(という言葉で済ませていいのかわからないが)だったんだな。
 それから、ジョン・ハンターとその妻アンの結婚生活、夫は奇妙な実験が趣味(というか仕事)で、妻は文学とか社交が趣味で、お互いの趣味は全然重ならないが、相手の趣味に文句言わないという関係はいいな。住んでいる家や調度品に腐敗臭が染み付いているというのは、アンも可哀想だ。
 1740年代に蓄電器が開発されると、1770年代にはそれを使った「電気治療器」が作られるということを考えると、平賀源内も長崎だかで拾った壊れたソレを治療に効くと称していたりしていたから、ある意味誰もが考えるものなのかね(笑)。
 溺れた人への当時蘇生方は瀉血、タバコの煙、浣腸といったものだったが、ジョン・ハンターは溺れた人の救助に空気を肺に送り込むことと電気ショックを与えることという救急蘇生方法を提言し、それが標準採用になったというのは驚き。現在やられているものよりも原始的(マウス・ツー・マウスが標準採用されるのは1959年)だが、現在の蘇生方法の始まりが彼の提言だったとは知らなかった!
 しかしジョン、7フィート8インチの巨人バーンの遺体を手に入れるために奮闘して、本人にそのことを申し入れるも断られ、むしろ自分の死体が他人の手に渡らないように、友人たちに自分が死んだら棺を海に捨ててくれと頼み、それを友人たちも請け負ったが、棺を運んでいる途中に、その友人たちを店に招きいれ飲み食いさせて休ませている間に、棺の中身を遺体から石へと替えておいたというのは流石になあ。しかもそれが学術的目的としてより、後に博物館を作り自分が死んだあとも妻や子が生活できるようにするのに、その博物館の目玉を作るためという不純なもので、解剖もせずにその遺体を茹でて骨を取り出したというのだから、とてもじゃないがその行動を肯定的に捉えられないよ。しかしテレビ(「アンビリーバボー」だったかな?)でこの話を見たことがあったが、これってジョンの逸話だったんだ。
 しかし『荷車には地下の厩から出た馬糞や、解剖室から出た廃棄物が積まれる。どちらも農場の肥料となるのだ。しかし、ある水曜日のこと、「スコットランドのウィリー」と呼ばれていた頭の弱い農場労働者が水牛車を引いてきた。ウィリーは解剖室から腐った肉や骨が詰まった籠を外に運び出し、水牛を厩に引き入れたところで、台所から昼食とビールの用意が出来たと声をかけられた。彼は、人体廃棄物の入った悪臭のする籠を覆いもせずに荷車に積んだまま、家に入った。すると、学校帰りの子供数名が荷車に目を留めた。いつもそこに農場から運ばれてきたリンゴが積まれていることを知っていた子どもたちは、荷車に飛び乗った。失望は恐怖に打ち消された。「彼らがそこで見つけたものはリンゴではなく、緑っぽい青と黄に変色した、途中まで切開した腐った男の腕と肝臓や腸だったのだ」。』(P421)と書いてあり、さらっと書いてあるが、盗んできた死体は肥料になってないかコレ!?そうした末路を考えると墓をあらされて、死体を盗んでまで解剖するというジョン・ハンターの行動はとてもじゃないが肯定しきれるものではないな。というか、現代でも墓から死体を盗むことを喜ぶ人はいないだろうから、医学の進歩をもたらしたのだから現代的視点から見れば肯定したいけど、この使った死体の処理方法を見ればわかるように人の気持ちを考えればその行動を否定したい気持ちもある。
 しかしそれでも『ハンターは生涯をかけて外科を「科学」にした』(P447)という功績は「偉大」という言葉すら陳腐に見えるほど大きなものだ。