百姓の力

百姓の力 江戸時代から見える日本 (角川ソフィア文庫)

百姓の力 江戸時代から見える日本 (角川ソフィア文庫)

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 江戸時代の村や百姓についての様々なことが書かれている。
 ○走り(欠落)から訴へ
 戦国時代から17世紀前半に走り百姓が頻出した。『「走り」とは単なる流浪ではなく、縁者や知り合いから走り先の情報を得たうえで、落ち着き先にある程度の目途を立てて行う移住行為でした。当時はどこの村でも耕地開発や荒れ地の再開発のための労働力を必要としていたので、村も大名もこぞって優遇策を用意し、他所者を承知したのです。
 こうなると、走り者の発生によって生じた荒れ地を、他所からの走りものに耕作させるという循環構造が生まれます。(中略)耕地は荒れ地化←→再開発を繰り返しつつ、次第に固定的な耕作者を得て安定していったというわけです。』(N530)
 『一七世紀前半以降、年貢の増徴から百姓経営維持の重視へと、幕府・大名が農政を転換した背景もあり、小農自立が進みました。それにともない「走り」も減少して、村請制が全国的かつ体制的に確立していきました。
 その結果、村の性格は「解放的」から「閉鎖的」へと変わってゆき、百姓の抵抗形態も「走り」から「訴」へと重点を移していったのです。
 ここで一つ補足しておくと、「走り」は江戸時代中・後期にもありました。しかし過重負担への抵抗としての「走り」が広く見られたのは、やはり中世・近世以降期の特徴です。そこには百姓の家と村請制度が、いまだ安定的に確立していないという固有の時代状況が存在していたのです。』(N544)
 ○理屈の上では将軍の土地だった山野
 『豊臣秀吉は、検地にあたって山野の大部分を、石高をつけない「高外地」としました。高外地は秀吉の領有下にあるものとしましたが、この原則は徳川氏にも継承されました。
 山野には耕地以上に、大名・旗本などの個別領主を抑えて、統一政権の力が強くおよんだのです。この原則は、山野を開発して耕地化することが重要課題とされた享保期(一七一六~三六)に、改めて強調されます。享保七(一七二二)年九月、幕府は、幕府領・大名領・旗本領が入り組んだ地域で開発された新田は、すべて幕府領にすることを明示したのです。全国の山野は将軍の領有地なのだから、そこを開発してできた耕地はすべて将軍のものになるという理屈です。(中略)この論理は、幕末にいたるまで繰り返し主張されました。大名・旗本は、この論理に正面から対抗することはできません。将軍が全国土の所有者であるという論理は、単なる観念論ではなかったからです。幕府はこの論理にもとづき、幕末まで何度か、それも集中的に、新田開発を試みました。』(N1390)もっとも『現実には大名らの抵抗により理念が貫徹できない場合があった』(N1405)。