元禄御畳奉行

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 (中公新書 (740))

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 (中公新書 (740))

商品の説明



元禄に生きた酒好き女好きのサラリーマン武士が無類の好奇心で書きのこした稀有の日記をもとに当時の世相を生きいきと再現する。(本新書「帯」より)  朝日文左衛門、芝居を好み、詩文に傾倒し、博奕と酒色に耽溺し、ヒステリックな二人の妻に悩まされ、武芸十八般にあこがれ片っ端から入門するがどれもモノにならず、気力体力ともになく終生ヒョボクレ。 尾張方言でいうその気の弱い”兵法暗れ”文左衛門が、暮夜ひそかに天神机を引き寄せ筆を走らせつづけて二十六年八ヶ月、三十七冊、およそ二百万字。 稀有としかいいようのないこの膨大な日記「鸚鵡籠中記」を通して、文左衛門の生涯を追いながら、元禄の名古屋城下に生きた下級武士や庶民男女の表情を、体臭を、哀歓を泛びあがらせたいとまとめたのが、本書である。(本新書「あとがき」より)           筆マメにまかせて、下級藩士の婚礼の食卓メニュー、公用出張で味わった京大阪の料亭の美味、名古屋城下街々のファーストフードに至るまで、元禄の食についても書き散らしているので、食書としても貴重で楽しめます。


 元禄時代尾張藩の百石取りの武士で畳奉行で朝日文左衛門重章の『当時の世相、物価から天候気象、日蝕、月蝕の観察、城下に起った大小の事件から身辺雑記、演劇批評から博突情報まで、それらを一種独得のリアリズムをもって赤裸々に』(P15)書き留めた日記「鸚鵡籠中記」を元にして、元禄時代の諸事を見ていくという趣向の歴史読み物。色々と人間味あふれる、笑ってしまうようなエピソードが多数収録されていて、面白い。
 「江戸の人びとが外食できるようになったのは」元禄時代からだそうだが、「江戸」と限定しているのだから、他の都市(例えば京都や大阪)ではあったのだろうか。まあ、たぶんなかったとは思うのだが、そこのところもうちょっとはっきり知りたいな。
 当時の半紙に多かった死因が『酒毒と腎虚。つまり大酒とセックス過度』(P41)だった、少なくともそういう死因と判断されていた、というのはひどいな。
 当時既に刀が実際に用いるものでなくなって久しいため、芝居や食事が終わった後に刀を置き忘れる武士が何人か居たようで、そういうことをすると暇を出されたようだ。
 文左衛門は、上方出張の時に芝居をいくつも見に行くだけにとどまらずに、芝居の舞台となった場所を見に行ったり、芝居の元となった心中したカップルの墓を詣でてその「碑銘を手帖に写しとり、その悲恋の死に涙をそそいだりしている」というのだからよっぽど芝居好きなのだなあ。
 文左衛門は筆まめで、接待された記録などはちくいち書いてあるのに、56日の公用旅行の最中で一度しか仕事の記録がないというのは笑える。それも「大小紋繧繝等之織仕懸を見る。当役になりて、一度は行て見る」とあるので、畳の繧繝縁を作っているところを「一度」見学しただけなのだろうから、仕事を一切しておらず、何しに出張していたのかさっぱりわからない。
 江戸時代の名古屋は「男女の愛欲のいろ濃い街」で、文左衛門の日記だけでも100件近くの密通事件が記録されているというのは少し呆れる。しかしそれがあけっぴろげという感じなので暗さはない。
 そして参勤交代の最中に妻が浮気して妊娠してしまうということがあったようだが、やっぱりそういうことはあったんだ。(p243)
 当代藩主の母である本寿院は、35歳という若さもあったのかもしれないが、町人・役者・藩士など身分を問わず、気に入った相手を屋敷まで連れてこさせて性交していたようだ。6年後に幕府から言われて彼女は蟄居幽閉させられたようだが。しかし彼女は、期せずして尾張藩という大藩の最高の実力者的存在になってしまったから、こんなに奔放に振舞ったのだと思うが、その権力の基盤は亡き夫のもの、ひいては徳川のものだから、そんな奔放なことをしていればそら幽閉されるわ。
 文左衛門は芝居好きなので、心中事件が起こると芝居のようなことが現実にあると高揚するのか、心中事件があるといちいち日記に記録している。そして無理心中事件が起こったときなどは、『御役目の見廻りと称して(頼まれもせぬのに)現場付近を右往左往してい』(P167)たというのは笑う。