今昔物語

今昔物語 (ちくま文庫)

今昔物語 (ちくま文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

平安時代末期に成ったこの説話集は、おそらく大寺の無名の書記僧が、こんなおもしろい話がある、ほかの人に知らせてあげたい、おもしろいでしょうといった気持ちで集め書かれたと言われている。本書は、大部の説話集の中から本朝の部のみをとり上げ、さらに訳者福永武彦の眼により155篇を選んだ。文学的香り高い口語訳により、当時の庶民の暮らしぶりを生き生きと再現している。

 現代語訳。原典「今昔物語」の全1040話の中から、155話を訳者が選び、原典とは別のわけかたで各部にわけたもの。この本でも650ページ超のかなり厚い本なのに、それでも「今昔物語」の全エピソードの7分の1程度しか収録していないということには、「今昔物語」がそんな量の多い作品だとは思わなかったということも含めて驚いた。
 原典が昔の説話集なので、現代の小説とは違う、一風変わった文体・内容だが慣れたら非常に読み良いし、エピソードのほとんどが1話数ページと短く終わるのでさくさくと読みすすめられる。解説に『原文をなぞった直訳ではない。しかしまた決して恣意に言葉を補ったり言い換えたりはしていない。彼自身が完全に租借消化した後に自分の言葉でつむぎだした正確無比な名訳なのである。』(P681)と書かれているように、現代語としてストレスなく読めながらも、元の昔の文章の味わいが伝わってくるような文章で良かった。まあ、私は古文さっぱりダメだから、読んでいてそういう気がしたというだけだけど。
 ところどころで以前歴史の本でエピソードが紹介されているので見たはあるという話(例えば玄象の琵琶の話)だったり、歴史の教科書で見たエピソード(「受領は倒るる所に土を掴め」)とか、有名な「羅生門」「芋粥」という芥川の小説のモデルとなったエピソード(というか、「羅生門」の蛇を魚と偽り売った女というのはまた別のエピソードから取ってきたものだったのね)のような、あるいは出展が「今昔」だとは知らなかったがここで見て、はじめてのここが出展だったのかと知った話(例えば「猫におびえた腹黒い大夫の話」)などもあり、「今昔」自体はこれが読むのは初めてだがそのように見知ったエピソードが結構色々とあったので、そういうことからも当時を知る史料としても想像力の源泉としても優れていることを知り、「今昔物語」という作品の存在感の大きさを改めて実感させられた。
 多分、すべての話で「という話である。」で終わらせているが、最初のいくつかのエピソードはそうした最後の文章で○○するべきではないなどという話の教訓を引き出したり、話の登場人物の評価するわけでもなかく、それに昔のこうした短い話にはそれがつきものだと思っていたので、読んでいてちょっとしっくりこないというかちょっと困惑してしまったが、しばらく読み進めていくうちに慣れた。
 そして最初のいくつかのエピソード、最初はいまいちどんな話なのかわからなかったが、改めて感想を書いている今、ぱらぱらとめくってみると昔のすごい人紹介みたいな話ということに気づく。現実にそんな人はいない、ありえないと現代人から見たら思うような、そういう超常的内容だから、なにか教訓話で意味があるのかなと妙に勘ぐってしまっていたから、そんな困惑してしまったのかな。
 現代的に見たらええっと思ってしまうようなことが褒められていることもあるなど、そうした時代の違いによる感覚の差に気づける。そうした感覚の違いには少し狼狽してしまうようなところもあるが、現在は当たり前と思っていてもかつては違っていて、現在の感覚は絶対的な感覚ではないのだということを改めて意識させてくれる。また、かつてはそんなことが許されていたのだ、あるいはこんな習俗がかつてあったのかという興味深さもあって面白い。
 例えば、ある男(橘季道)が恋仲になった女房が仕えている屋敷に頻繁に出入りしていたら、その屋敷に住んでいる侍たちが恥をかかせてやろうとしたので、彼のお付の童が主人が恥をかかずに屋敷から出られるように、近くの女の童の髪を引っ掴み、着物を剥ぎ取って騒ぎを起こした上に自ら「追いはぎ」がいると声を上げて、その侍たちを外に行かせて、その間に主人を外に逃がして、恥をかかせなかったことを褒めていることなど、現代の感性から考えたらちょっとえっと思ってしまう。
 あとは風習的にいえば「大力の僧が賊をいじめる話」で、お供をつれずに歩いていた坊主におぶって行ってあげようかといわれて簡単におぶっていってもらうというのは、ちょっと驚く。これがそうした体勢をとった後、賊が脅したらおぶってもらっている状態の僧が力をこめて身体を締め付け、そのままの状態であちこち生かせるという話だから、あるいはおぶさった状態にするために不自然でもそうした入りにしたということかもとも思うが、いくらなんでもおぶさるのが全くありえないのに、そうした描写をしないだろうとも思うので、たぶん親切でおぶっていってもらうなんてのも全くない話ではなかったのかなと思う。けど、実際のところどうなのかはわからないのでそこらへんのところは気になるわあ。
 ある女性相手に当時の碁の名人がめためたにやられたという話は、その女性が本当にいたかは定かでないまま、当時の人々は『「変化の者が相手をしに現れた」/などと疑って、口々に取りざした、という話である。』(P50)と終わらせているのは、なんか放り投げたようなキッチリと落ちが付かない感じの終わりなのが面白い。
 奇異な話、妙な話がいっぱいのっているけど、その妙な現象について当然のことのように進んで、説明がほとんどないから読んでいてアレッこれで終わりという拍子抜けというか面食らうような部分がある。広まった体験談を伝え聞いたみたいな形式だからそうした説明をしていないのか、それとも不思議な話でも現在の小説みたいに懇切丁寧に説明せずに不思議なまま置かれても当然のように受け入れられた、あるいは当時の人にとってはそれが現実的に理解できるものでありえないものではないと思っていたということなのかな。まあ、おそらく一番最後だろうが。
 算木(数式をとくために用いる道具)を操ることで、呪詛などの術も操ることができるみたいな話は、当時はそれほど数学を神秘的なものと捉えていたのだなあということがわかってなんとなく印象的。
 「蕪とまじわって子ができる話」、蕪をオナホみたいに使って放っておいたら、それをある娘が食べて妊娠し出産したという話には、これも処女懐胎というのかなあと思ったり(笑)。
 「生き埋めにされた子が助かる話」今昔物語の中では長めの話(20ページちょい)だが、この話はこの本の中でも屈指に好きだな。
 「死んだ妻とただ一夜逢う話」一方的に別れた妻とよりを戻そうとして、別れてしばらくの年月が過ぎた後に、彼女の家に行ったときに一夜を過ごしたが、朝起きると自分が抱いて寝ていたのが、骨と皮の死体だったことに気づき、あわてて衣をまとい出て行ったが、すぐ見間違いではと思って振り返るが死体のままというシーンは、印象的だ。
 「平中が本院の侍従に恋する話」恋がかなわぬと知ったが恋心がやまず、彼女に幻滅して何とかその心をおさめようとして、便所で汲み取った便を見ようとする。彼は女の童がそれを捨てようとするのを奪い取る、しかしどうも様子がおかしく嫌なにおいがしないので、そこにある小水のような色のものに口をつけ、便のような塊を口に含んだというのはいろんな意味でやばいな。結局それは、彼がそうすると見越してその侍女が似た色・形のかぐわしい臭いがするものに変えておいたというのでよかったが、本物だったらと思うとゾッとするわ。