甲子園への遺言

 kindleで読了。
 60歳、長年(約30年)やっていたプロ野球のコーチを辞めて、高校教師となって高校野球の監督として甲子園を目指そうとしていた矢先に癌で亡くなった野球人高畠導宏氏の伝記。選手としては将来を嘱望されつつも不幸な怪我もあって大成できなかったものの名コーチとなった。
 甲子園優勝という大きな目標を掲げても、周囲の人に彼ならばやるだろうという思いを抱かせることができる人物。読むと本書中でも幾人かの口から出ていたが、高校生に指導できていたらどんな選手が生まれていただろうというifが知りたくなる。

 オリックスMLBで活躍した田口選手が受けた、高畠コーチの指導の1つに「バットを投げる練習」というものがある。『これは正しいバット軌道をつかみ、バットをなるべく体の近くを通す、つまりインサイド・アウトでバットを出せるようにするための物でした。バットを正面(センター方向)に投げようと思ったら、右中間に向かってバットをなげないといけません。(中略)一番理想なのは、センターからライト寄りの右中間に向かって投げる。そうすると、うしろが小さくて前が大きい”卵型”の理想のスイングが出来上がります。
 僕のバットはグリップが異常にでかくて、投げにくかった。だから、わざわざグリップの部分を切り落として投げるためのバットを一ダースほど作りました。』(N226)
 他にも『ティバッティングで、ボールの底を着るようにして打ち、ボールを真上に上げる練習』(N237)スイングスピードとバットコントロールの正確性を上げるための練習なども行った。

 高校時代から抜群の打棒で高校卒業して社会人野球の丸善石油に入るも、一年で休部。その後中央大学に進むという一風変わった経歴の持ち主。ドラフトで巨人に指名されるも、社会人野球の日鉱日立の後藤監督が絶対に欲しいと囲いこんで、そのまま日鉱日立に行く。その後南海へ入団した。左右に打ち分ける強打者。
 当時の日鉱日立の後藤監督は長年そのまま巨人に入っていたら、怪我もなく選手としても大勢したのではないかと気に病んでいた。癌が判明した後に病床の高畠氏を訪れた時、長く気にしていたそのことを尋ねた時の二人の会話がいいね。『今の私があるのは、あのときがあったからですよ(中略)もし、巨人に行っていたら、九連覇には多少役に立ったかもしれないが、おそらくそこで終わっていたでしょう。一年、日鉱に御世話になって南海に行ったからこそ、今の自分がある。本当にいいスタートを切らせてもらって、感謝しています。』(N1238)その言葉で『後藤は何十年来の胸のつかえがとれることになる。』(N1238)そして高畠氏も後藤監督がその年に辞めることになったのは、都市対抗大会予選の北関東準決勝での自分のミス(本人はそう感じていたこと)で負けたのが原因ではないかと長年気にしていた。しかし同じ時に後藤監督から、それが理由ではなく色々な理由があってその前から辞めるのは決めていたと伝えられたことで長年の胸のつかえが下りた。両者が長年気にしていたことが、最後になって直接違うと聞かされて安心したというこのエピソードは好き。

 高畠氏が入団した南海は日本で最初にスコアラーを用いた球団。鶴岡監督の下で参謀で蔭山ヘッドコーチと尾張スコアラー、そして野村捕手がデータ野球をはじめていた。
 10年選手にはボーナスを支払う必要があるから南海はその前にトレードで放出することが多かった。そうして大洋へトレードされた森中投手。『冷たい球団の仕打ちに起こった森中に、尾張はあるものをプレゼントした。』(N1447)日本シリーズ用に収集した巨人のデータを渡したという、このエピソードはいいね。森中投手はそのメモもあって、その年巨人戦7勝して、18勝14敗という成績をあげた。
 南海に入ったばかりのとき、野村選手兼任打撃コーチに「なにも変えなくていい。このままでやれ」と言われる。そして野村は『「高畠を絶対に新人王にする。あいつなら必ず獲れる」/ と、公言して憚らなかった。』(N1628)それほど完成度の高い打撃だった。
 しかしオープン戦期間中に練習で肩を怪我して、その怪我を隠して試合に出ていたら『脱臼は開幕直後からクセになり、ボールを投げることさえかなわなくなっていたのだ。』(N1736)その脱臼癖がたたって活躍できていなかったところ、3年目に兼任監督となった野村監督に代打の切り札として見出された。昭和45・46年と代打中心の起用で3割打つなど、当時DHがあったらもっと活躍できたであろう選手。昭和47年には肩の怪我の影響でバット振るのも難しくなった。そして野村監督にアイデアの豊富さが見込まれて、28歳で打撃コーチ転身を命じられる。
 高畠氏は色んな練習を思いつくアイディアマンであり勉強家、そして多くの選手から慕われる人柄もあってコーチとして成功する。
 また、彼はピッチャーの癖を見抜く達人でもあった。昭和45年『野村はつぶやくように、米田が投げようとする球種を次々と当てていく。高畠はその時、ただ「一流打者の読みはすごい」とあっけにとられただけだった。
 また、米田と対決の時がきた。野村が、ふたたび高畠を呼びつける。「分かったか」と野村。高畠は、どういう意味なのかさえ分からなかった。すると「アホ、まだ分からんのか」と、米田がフォークボールを投げる時のクセを教えてくれた。ついでに、一冊の古びた本をポイッと投げつけて去った。(中略)古い本には、球史に残る大リーグの強打者、テッド・ウィリアムスがこう書いている。
「全投手のうち、80パーセントにあたる投手の球種が、投げる前からわかっていた。それほど投手の癖はあるものだ」』(N2321)野村監督が読んだというテッド・ウィリアムスの本、高畠氏も読んだのか。他にも読んだ人いるのかちょっと気になる。
 ロッテ時代高畠コーチが指導した、後に名遊撃手となる水上氏。それまで全球打ちに行っていたのを、ヤマを張ってその球が来たら仕留められるようにしろ。打てないとフォームいじるのが主流だった時代に、そういわれてから打てるようになる。たとえ山はずれて絶好球で三振しても、高畠コーチがこういう取り組みをしていると監督にいってくれて責任を持ってくれているので、そのやり方を試すことができた。その取り組みもあって全130試合に出場し9番で15本のホームランを打った。そして翌年には投手の癖が読むことを教えられる。そのようなコーチ時代の選手を成長させた話が面白い。
 高畠コーチは水上氏に通常バッティングでしてはならないというバットをこねるのを手首の弱さを克服させるために練習させた。
 『配球を読む力も、ピッチャーのクセを見抜く力も、高さんには誰もかないません。でも、もっとすごいのは、高さんの頭の中に”引き出し”が無数にあったということです。その選手の欠点を見つけると、基本からまったく外れた練習でも、それを通じて克服させることができた。それが高さんです。』(N2604)