千年王国を夢みた革命

千年王国を夢みた革命 (講談社選書メチエ)

千年王国を夢みた革命 (講談社選書メチエ)

内容(「BOOK」データベースより)
ヨハネの黙示録」に記された「千年の間」とはなにか。「キリストの再臨」はあるのか。原始キリスト教の教義が、千六百年の時を経て新旧イングランドによみがえり、ピューリタン革命を推し進める有力な思想となった。「千年王国論」がはたした役割と意義を鮮明に描き出す。

近代になって千年王国思想を唱える人々は、中世的「狂信派」と見られていたが、その思想がイギリス革命に大きな影響を与えた。
千年王国論、王政復古後も『革命的な性格は失っていたが、なお多くの支持者を残した。そのなかには、近代科学の父アイザック・ニュートンやM・ウェーバーによって「資本主義の精神」と関連付けられた牧師リチャード・バクスターなどが含まれていた。』(P214)ニュートン、不思議とキリスト教関連の書籍でちょくちょく見かけるが、ネームバリューゆえなのか、それとも宗教家としても優秀だったのかどっちだろ。
イングランドアメリカのニューイングランドとの千年王国思想を持つ人たちを通じての交流については、知らなかったのですごく新鮮だった。1640年代にニューイングランドからイングランドへと帰国した人が『移住者全体の約六分の一に相当する三〇〇〇―四〇〇〇人と推定している。』(P80)とそれほど多くいて、『帰国者の圧倒的多数は、一六四〇年代のピューリタン革命に端を発するものであった』(P81)というのは驚いた。
千年王国論とは、本来、反体制の思想』だから、共和党政府を支持していたから、独立派が(近い将来キリストが再臨するという)狭義の千年王国論から、『キリストの来臨や地上における支配については言及され』(P148-149)ないものへと変容したというのは面白い。
『第四王国は、ローマ教皇カトリックに姿を変えて、十六世紀―十七世紀にいたっても健在であった』(P168)ので、『ローマ帝国およびその残存物を「キリストの王国の敵」と見なすのであった。半キリストの没落によって、キリストの王国は樹立される。アスピンウォルの生きた十七世紀には、第四王国の打倒を通じてのみ、第五王国の実現が可能になったのである』(P169)カトリックへの異様な攻撃性はそこからか。
アスピンウォル、『ピューリタン革命は十七世紀、の多くの人びとによって、「革命」ではなく「大反乱」や「内戦」として理解されていた。』(P175)のに、『事件の渦中にあったアスピンウォルが、それを「革命」として認識したことは、きわめて興味深い点である。』(P175)たしかに、同時代の人の多くがそう考えていなかったのにその渦中にあった人間が沿う認識していたというのは興味深いね。
第五王国派、国王処刑後も共和党政府や王政復古後などに反抗し続けた、ある意味「反体制の思想である千年王国論」に忠実で、最後まで現実と妥協しなかったということか。
アメリカ独立革命でも、『再び千年王国論は革命的な思想として積極的な役割を果たした』(P148)『その後もフランス革命やイギリス産業革命といった社会的変動期において、千年王国論はたびたび主張され、多くの人びとの心をとらえていった』(P148-149)たしかにこうして例を見ると「狂信的」なだけではなく、革命期の思想としても大きな役割を果たしているんだなと思える。
最後の「あとがき」で近年にも狂信的な新興宗教千年王国思想を信奉していたということが書いてあって、やっぱり、千年王国思想は狂信的なものになりやすいのかな。まあ、そうした「狂信」があったからこそ、『ニューイングランド帰りのピーターやアスピンウォルは、国王処刑に正当な根拠を与え、世俗の君主制を批判するという、当時としては困難な課題に挑戦した』(P203)というような人物が出てきて、ピューリタン革命が一時的でも成功することができたのだろうけど。


<追記>

プラトン入門」の『パイドロス』の引用にあった↓の文が、千年王国論にもマッチしているような気がするので、追記。
『――恋は誰も知っているように「狂気」的性格をもつ。しかしそれは無条件に悪いことだろうか。いやそうではない。「われわれの身に起こる善きもののなかでも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。無論その狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども(藤沢令夫訳)』