平家の群像

平家の群像 物語から史実へ (岩波新書)

平家の群像 物語から史実へ (岩波新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「賢人」重盛、暗愚な宗盛、「運命の語り部」知盛、こころ弱き人維盛―。それぞれ『平家物語』の描きだしたイメージでよく知られる平家の人びと。しかし「実像」はどうだったのか。当時の貴族社会や合戦の現実に目配りしつつ、人物それぞれの動きを丹念に追うことで、新たな「史実」が浮かびあがる。歴史研究の醍醐味を味わえる一書。

『源が歴代天皇皇子に下賜される姓であるのに対し、平姓は二世以下のそれだった。その後光孝・仁明・文徳の各天皇の子孫にも平姓が与えられた。』(P3)源・平、皇族に下賜された姓だとしか知らなかったけど、天皇皇子と二世以下という違いがあったのははじめて知った。
正六位以下は10世紀以降ほとんど実質的な意味がなく』(P5)
『『平家物語』は、平家一門が朝廷の高位高官に就いたことを強調している。しかし、六波羅に陣取った嫡子重盛らが全国の平家御家人を率いて内裏を警護するなど、国家の軍事警察部門を掌握している以外は、朝廷内における平家の存在感はいわれるほど大きくない。というのは一門の公卿は、国政を審議する各種の公卿会議に参加する資格も識見も認められていなかったからである。彼らには行政執行の中軸をなす重要ポスト経験者が皆無で、上流階級に必須のおもだった儀式の執行役を務める能力を有するものもほとんどいない。並び大名の域を出ないといってもいい過ぎではない。
 だから平家の国政への要求は、高倉天皇や姻戚関係によって結ばれた親平家の有力貴族によって代弁されていた。これを平家が政治を動かすための表ルートとすると、ウラルートは後白河の有力近臣や滋子を通して院に働きかける方式だった。』(P14-15)
史上初の武家政権六波羅幕府。『平清盛 福原の夢』も読もうかな。
重盛、『平家物語』では「賢人」に書かれているけど全然違うのね。
小松家嫡子、清経。えーと「やる夫 鎌倉幕府」では誰のAAだったかとかどういうことをしたのか全然思い出せんなあ、もともと平家方はうろ覚えだけど、うむ再読しなくては。
『基通は有能達識の政治家とは思えないが、それと保身の術につたなくないことは別である。』(P134)うわあ、嫌なやつ。
『皮肉にも三種の神器は、天皇不在という空前の事態に直面して、はじめてその政治的意義が強烈に意識されるようになった。』(P154)今まで当時はさほど意識されていなかったとかどっかで見たような気がするが、平家滅亡の折に遺失した神器のことをこだわっているのは何でだろうと思っていたが、平家都落ちの時から重要性が意識されたということか。
鵯越義経の功ではなく、功は多田行鋼をリーダーとする摂津武士にあるというのはそうだったのか、というかじゃあその時の義経の立場がよくわからん。