義経 上

新装版 義経 (上) (文春文庫)

新装版 義経 (上) (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
みなもとのよしつね―その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代…幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。

これから歴史小説をもっと読んでいこう。まずは鎌倉時代を舞台にした小説から読む、この小説を読んだのは司馬遼太郎さんの小説ならまず間違いないだろう(といっても司馬さんの本は、「坂の上の雲」と「燃えよ剣」くらいしか読んだことないけど。)と思ったから。
九郎の自然な高慢さに秀衡は好意をもったみたいだけど、その見下す理由が夷狄であるからというのは、当時の時代の感覚では自然なことなのだろうけど不快。
『この僧には欲気などからっきしなく、人を煽動し、そのことに芸術的昂奮を覚えるたちの人物であった。』(P282)文覚、なんちう奴だ。
『諸将が祝賀にやってきた。「追撃して京までのぼられよ」と人びとはいった。
 が、頼朝は賛同しなかった。凶作と飢饉の上方へ攻め入れば、こんど敗北せねばならぬのは源氏であろう。それよりも鎌倉に府をつくり、関八州律令国家から独立させることが急務だと思った。』(P340)富士川の戦いのあと、京へ昇ると頼朝が言って、諌められたんじゃなかったっけ。
『普通、弟に生まれれば、その所領の地名か所縁の地名を名乗るのが世の通例になっている。たとえば源義朝の庶弟義広は志田を苗字とし、八番目の弟が為朝は鎮西八郎と称し、十番目の弟の行家は新宮十郎と称するようなものである。』(P489)頼朝が範朝に起こったのにはそういう当時の通例があったためか。由なき怒りというわけでもないのか。


以下は感想というか、自分用のメモみたいになっちゃったな(まあいつもとかわんないといえばそうだけど)
義経と頼朝が初めて会うところ、『たれか、おれの兄弟は来ぬか』(P352)とあり、義経が頼朝の元へ来た兄弟の中で一番乗りのような感じだけど。永井路子「炎環」ではその前に全成が来ていたので、たぶん全成が先に来ていたのだと思うけど。
奥州藤原氏は関東下総の住人亘氏が藤原氏を僭称とあるけど、奥州藤原氏はちゃんと藤原氏。と、高橋崇「奥州藤原氏」で読んだ(確か)。時代的にしょうがないけど、
『戦術上、京都防衛は不可能といっていい。
 このことを、清盛はすでに見ぬき、死ぬ前に宗盛に戦略案を言いのこしている。
 「捨てよ」
 というのである。』(P419)対先日読んだ、「平清盛 福原の夢」の「九条の末・八条河原軍事拠点構想」は清盛と共に雲散霧消した、とあるということは生きている間(まあ、死んでも言わんけど)に捨てよとは言わないんじゃとちっと思った。
『九条の末・八条河原軍事拠点構想は、清盛と共に雲散霧消した。』『この地に軍事拠点を作れば、宇治や奈良方面からの敵のも備えられる。事実九条兼実の土地をむりやり取り上げた一ヶ月前に南都焼き討ちがあった。地形的にいうと、南から京に向かう軍勢は、現在東福寺が位置する低位段丘を南北に貫通する法性寺大路(現本町通)を北上せねばならない。西は鴨川との相田の氾濫平野である。段丘の南の緩斜面に堀・掻楯・逆茂木などの使節を施し、東の丘陵も抑えれば、迎撃は容易かつ効果的になる。南方に軍事的緊張がある場合、どうしても押さえておきたい地点の一つだろう。後白河法皇法住寺殿に不穏な動きがあったとしても、北の六波羅と連絡して挟撃もできる。』(「平清盛 福原の夢」P276)