敗者から見た関ヶ原合戦

敗者から見た関ヶ原合戦 (新書y)

敗者から見た関ヶ原合戦 (新書y)

内容(「BOOK」データベースより)
西軍必勝の秘策は、関ヶ原現地にその証拠が遺されている。三成ら西軍は、事前に中山道、北国街道を封鎖し、自陣の前面に巨大な土塁や切岸・柵を築き、松尾山の山下には強力な陣城を築いて鉄壁の防御態勢を準備していた。徳川家康ら東軍は、関ヶ原に誘き出され、西軍のエジキになるはずだったのである。西軍には考え抜かれた作戦が存在し、実際、合戦の勝負は最後の最後までわからなかった。長年の現地遺構調査により、三成ら西軍の「一大作戦」の全貌を明らかにする。

「やる夫 関が原」を読んで関が原のことにもちょっと興味がわいてきたので購入。
石田三成のイメージは既に「やる夫 関が原」で変わってしまっていたので、そうした三成の通説的なイメージから目からうろこが落ちてガラッと印象が変わるという楽しみを味わえなかったのは残念。まあ、「やる夫 関ヶ原」を読まなければそもそもこういった本を読むことはなかっただろうけど。
この戦闘でどうしても心情的に肩入れしてしまうのは西軍だったり、あるいは福島だったりするのは、今まで自分では意識していなかったが、江戸時代についてマイナスイメージをもっているのかなあ?悪い時代じゃないとはわかっているつもりだが、まだ通説的な(というか古い)江戸時代観が自分の中に残っているのかな。
『小説などでは、家康と心を通じているとされる北政所である。しかし、このような状況証拠を重ねてみると、家康への警戒心、そして何よりも反家康としての西軍に心を寄せていた姿が浮き彫りになってくる。』(P85)ああ、今まではなんでこんなこと書いているのかと思っていたが、「へうげもの」での家康と北政所の描写は「心を通じている」という関ヶ原でのスタンスの前ふりの話だったんだ。
上杉景勝、作ろうとしていた新城は『城の構造、つまり縄張りを見る限り、この城はとても軍事目的のみで築かれたものとは思えない。というのも、この城は明らかに阿賀野川の河川交通を意識したもので、景勝はそこに新たな経済効果を狙った城下町を築くつもりであった。』(P95)「やる夫 関ヶ原」でやたら浪人を抱えていたのを見て、新城が「経済効果を狙った城下町」だったという話を読むと、結局上杉は何したかったんだかよくわからん。