未完の明治維新

未完の明治維新 (ちくま新書)

未完の明治維新 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
明治維新尊王攘夷と佐幕開国の対立が一転して尊王開国になり、大政奉還の後に王政復古と討幕がやってくるという、激しく揺れ動いた革命だった。そのために維新が成就した後、大久保利通の殖産興業による富国、西郷隆盛の強兵を用いた外征、木戸孝允憲法政治への移行、板垣退助の民撰議院の設立の四つの目標がせめぎあい、極度に不安定な国家運営を迫られることになった。様々な史料を新しい視点で読みとき、「武士の革命」の意外な実像を描き出す。

明治政府内には「強兵」「富国」「立憲制」「議会制」という4つの異なった政策目標を持った派閥があり、明治初期の政争はそれらについての対立。
征韓論、西郷と板垣の強硬論の主眼はむしろ中国。台湾出兵後に『日中関係は同年九月には戦争直前の事態まで発展した』(P107)考えてみればそういうことが当然起こるというのはわかるが、そこについては教科書とかだとさらっと流されているものだから、そんな戦争直前という状況になったことは知らなかった。そして、その時点で征韓論争後だったが西郷呼び戻しも提案されているので『征韓論分裂によって、西郷が直ちに在野の反政府勢力の中心となったわけではないのである』(P107)
「富国」と「強兵」は別。一気に二つのことを改善できるほど開国当時の日本政府は豊かではないとは思っていたので、別個のものだという説明には、やっぱりそうだったんだと納得。
幕末の議会論、内閣の構想があったりと今まで結構いいものだというイメージがあったが、財権と兵権は各藩主が握り、院には藩士。という構想を改めてみてみると酷いなあ、結局藩の構造は全く変えないってことじゃん。こうして考えると、幕末時の内乱がなければもっと近代的な諸制度を取り入れるの遅れていたのかなあ(そしてそれが取り入れられるころには完全な独立を維持できているかどうか)と思っちゃう、戦争が進歩にきっかけにとはあまりいいたくないけど、それに後に維新した人らがつくった体制のことを考えると、維新してよかったとは言いがたいが。
西南戦争、出兵時には東アジア政策は日中・日朝関係の沈静化で争点化が困難になり、挙兵理由があやふやに。西郷が勝ったとしても、明治憲法くらいのものや日清戦争とその勝利くらいはできていたであろうというのは、じゃあ勝ったとしてもそんなに変わらんか、と一瞬思ったけど、実際に(西郷が勝つパターンのような)長い内乱になったとしたら、武器輸入やらの借金とかで二度と一本立ちできなくなっていそうな気もするけどね(笑)
『もし、西郷、大久保、木戸、板垣が「武士の革命」の「同志」でなかったならば、彼らは次の一歩について相互にもっと慎重だったに違いない。はっきり敵とわかっていた徳川慶喜が相手だったならば、明治六年(一八七三)十月のいわゆる「征韓論争」に敗れたからといって西郷は兵を率いて鹿児島に引揚げたりはしなかっただろう。翌七年の台湾出兵の時のように東アジア政策について、西郷と大久保とは譲歩できないほど対立してはいなかったからである。敵との間では忍耐強く、かつ合理的に振る舞う者も、同士の間では往々にして憤怒に委せた行動をとりがちなのである』(P234)個人的には目からうろこの指摘。今まで西郷のイメージは基本的に維新後のイメージだから、いまいち偉人という感じがしなかったが、維新時の敵との間での事跡をろくに知らないで、同士の間での行動で判断していたからかな。
大隈、佐賀か。どうも薩長土以外の人はどこ出身だかよく知らん。
明治十年代の日本は、米価が上がって農民が潤う。地租、インフレに対しては無能なので、政府財政難。『専制政府という物は、制度的に国民的基盤がない分だけ、減税は簡単にできても増税はあまりやりたがらない。』(P215)専制という言葉から横暴なイメージがあるが、増税には国会とかよりも慎重なのね。よく考えたら、徳川時代もそうか(時代を経るごとに負担減)。