日本仏教の可能性―現代思想としての冒険

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

日本仏教の可能性―現代思想としての冒険 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
ハイテク化が進む中で、日常が複雑になっている。体温がなくなった世の中で、人々は健全に生きることが難しく、心の置き場を見つけることができない。かつて生活とともにあった仏教は、いま、私たちにどのように関わり、道を示すことができるのだろうか。葬式、禅、死者―。生活に根付く仏教的なキーワードを取り上げ、新時代における意義と可能性を探るスリリングな連続講義。

なんか、やたらと口語だなとおもって、最後の方を見ると初出一覧があり、それを見ると講演が元となっているようなので納得。
廃仏毀釈、今まで政府が主導のものだと思っていたので「民間で起こった仏教排斥運動」だということは知らなかった。
「第二章 死者とどう関わるか」の「仏と他者――『法華経』を読み直す」は興味深い。
『女性が自己を発見していく中で、禅の果たしてきた役割というのは、江戸時代から近代までを通して大きいものがあったように思われます。』(P177)そうした繋がり(?)を意識したことなかったので、ちょっと驚いた。
『そもそも一神教多神教をそれほど決定的に相違するものと見ることができるでしょうか。日本の宗教も、戦国時代にはかなり一神教的な発想が発展したといわれています。神道界では最高神を求める哲学的な思考が発展しますし、浄土真宗蓮如たちの阿弥陀仏信仰はかなり一神教的なところがあります。そうした動向がキリシタンの受容を容易にしたと考えられます。そうとすれば、日本の宗教を単純に多神教だとは断定できません。ひとつの文化の中にも多神教的な側面と一神教的な側面があります。キリスト教でもカトリックの聖者崇拝やマリア崇拝を考えると、多神教的な要素が入ってきます。そもそも、キリストという媒介者を立てるところに純粋な一神教からずれが出てきてしまっているとも言うことができます。』(P207-8)
一神教多神教という区別は、カトリックの聖者信仰を知ってから、よく分からなくなってきていたので、この「それほど決定的に相違するもの」ではない、と「ひとつの文化の中にも多神教的な側面と一神教的な側面があります」という指摘を読んで、ようやくそんな大枠の区別は意味がない・くだらない(例えばキリスト教を、聖者崇拝のある(キリスト教と聞いたらまずイメージするであろう)カトリックを、一神教の代表例としてみる見方)と思えるように。
一神教の神、極限の神は、『仏教が最終的に突き詰めていくその極限とそれほど違いません。使者や日本の神仏は、言ってみれば、そのような極限への通路とでも考えられます。』(P212)ということは、その極限を言葉として言い表して、民衆に認識されているかの違いかな?まあ、その極限の神と聖書の神(こちらは人格があるように見受けられるし、極限の神を聖書ができたときから想定していたとは到底思えないから)とは同一なのかどうかや、同一ならどう理屈をつけて納得しているのか知らんが。