宣教師ニコライとその時代

宣教師ニコライとその時代 (講談社現代新書)

宣教師ニコライとその時代 (講談社現代新書)


内容説明
幕末の文久元年(1861)7月、25歳の若きロシア人司祭が蝦夷地の箱館に到着しました。その名はニコライ。ロシア領事館付き司祭として正教を広めるという遠大な志を抱いて、この極東の島国にやってきたのです。それから約50年にわたって、彼は日本人にロシアのキリスト教を伝えるべく奮闘します。 ロシアに帰ったのは二回だけ。それも布教の資金を集めるための一時帰国でした。彼はロシアでは「ヤポンのニコライ」、日本では「(駿河台にある)ニコライ堂のニコライ」として知られ、多くの人びとの尊敬を集めました。永眠は明治45年(1912)2月16日。

高僧ニコライが厖大な日記を残していたことは知られていましたが、すべて関東大震災で消失したと信じられてきました。ところが、日記は震災前にペテルブルグの古文書館に移されており、ずっと眠っていたのです。そのことをつきとめたのが著者中村健之介氏でした。1979年のことです。

中村氏は日記の公刊、および翻訳という大事業に取り組むと同時に、その内容を一般向けに紹介すべく早い段階で『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書)を書きました(ただし、この段階では日記のすべては解明されていません)。その後、2004年に『聖・日本のニコライの日記』五巻(ロシア語原文)を刊行、そして2007年には、氏をふくむ19人の訳者による日本語翻訳版『宣教師ニコライの全日記』九巻(教文館)が、ようやく刊行されたのです。そこには当時の高官やジャーナリストから庶民に至るまでの姿が生き生きと描かれています。また日本各地の風景や産物が克明に記され、他に類のない貴重な記録となっています。さらにロシアへの一時帰国の際の記述からは、従来知られてこなかったロシア社会の実情も垣間見ることができます。

本書は全貌が明らかになった日記全体をふまえた上でのニコライ紹介であり、いわば決定版です。今年(2011年)はニコライ来日150 年、来年は没後100年にあたります。この節目の年に本書が刊行されることはまことに意義あることです。ぜひ多くの方々に読んでいただきたく思います。

後藤新平の正教との関わり、知らなかった。子供時代にも少し関わっていた、と言うのはちょっと意外。知らなかったのだから意外も何もないかもしれないけど(笑)

資金繰り大変そうだ。実際に『ニコライ大主教が「頭を悩まされたのは、大部分は財政上の問題」』(P86)だった。日本での信徒からの収入が極めて微小で、ロシア本国からの多額の援助に頼りきりに。ロシアで寄付集めに紛争している姿を見ると、本当に情熱のある人棚と感じる。
日本正教会教団が不動産による利益で協会運営の経済的基盤を築くようになるのは、ニコライの時代が終わってずっと後、一九六二年』(P97)長い道のりだ。

ニコライ、天性の楽天家。司祭、伝教者からの絶え間ない宗祖、無心を聞き(読み)、そのストレスを分かちあえる人がいない孤独というのが、ずっと続くと言うのは、常人ならちょっと耐え難いことだな。
ニコライ、「カリスマ型指導者」ではなく理想化されるのを嫌った人。冷笑的に人を見ることがない人。

『常に相手より有利に立つ外交官サトウを侮る日本人はいないが、このような、暖かく親切で、つい相手と対等になって喜ぶ宗教家ニコライを侮る日本人はいた。皮肉なことに、それはニコライに直接接した教会内の人に多かった。』(P132)優しいが故に侮られる。無料で正教学校で学び、ロシアに留学させてもらっても、給与の高い職へ移ったり。教会の外でロシアやニコライの悪口を言い出すケースもしばしば。というのは、そうした優しい人の悪口をいう恩知らずな人がいるというのは、本当に嫌な気分になる。そういうエピソードを読むと、実際に善い人というのは損なものという風に考えてしまって、善人が生きづらい世の中は嫌だなと考えてしまう。それは、今も変わらないだろうけどさ。それでも、善人こそ余計なことに思い煩うことなく、幸せになって欲しいと思うのが人情じゃん。

ドストエフスキーは深い孤独感の病気に苦しんでいたから、「友愛の教え」であるフランスのジョルジュ・サンドなどの「田園的ユートピア社会主義」に心酔した。そして後になって、ロシア選民思想めいた愛国心から、これがロシア正教の教えなのだと主張するようになったのである。』(P147)今まで、ドストエフスキーのことは小説の解説とか訳者あとがきなどの説明でしか知らなかったが、自分のなかのドストエフスキー像がかなり理想化、肥大化したものだということを、これや他のドストエフスキーについて述べられている(例えばドストエフスキーの神話化、「予言者」に祭り上げられた)文で自覚した。

ソロヴィヨーフ、「ふりをする人」。アリョーシャのモデルと伝記では言われ、ドストエフスキーの妻からはどちらかというとイワンのモデルと言われた人。