黒船前夜

黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志

黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志

内容(「BOOK」データベースより)
ロシア・アイヌ・日本の三者の関係をとおして、北方におけるセカンド・コンタクトの開始を世界史的視点で捉える。―異文化との接触で生じる食い違いなどエピソードに満ちたこれこそ人間の歴史!渡辺史学の達成点を示す待望の書、遂に刊行。


渡辺京二さんの本、神風連は題材に馴染みがなかったから結構読みにくかったが、題材(?)がこれくらいポピュラーならやっぱり読みやすいなあ。それでいて、読んでいると新しい知見を得ることができるから、すごく面白い。
この本によって「松前の統治」が単純に悪と一断できる類のものではけっしてなく、評価できる点も多々あると言うことが理解できた。

ぺニョフスキーの文章を、ぺニョフスキー自身が日本沿岸を巡検・測量かのように、オランダ通詞が誤訳。だから、林子平もぺニョフスキーが日本沿岸を測量したと理解したと誤解していた。

天明のころの知識人の世界認識まだ貧弱。例えば、工藤平助はオランダがロシアの隣国であるかのように理解していて、しかもオランダはロシアに「服従したる国」だと考えていた。

ロシア人、シベリア経営において、現地住民を布教して改宗させようという情熱は持たなかった、と言うのはちょっと意外。

「おろしや」、『ロシア語の「エルの音が非常に強く響くため、その前に母音があるやうに聞こえるからであろう」』(P57)そういう理由があったのか。

17世紀半ばにロシアがオホーツクあたりで用いた船は貧弱なものだった。

鎖国、明文化されてなくても、実体としてはあった。『シュパンベルクやウォルトンの船に出向いて交易を行なった庶民たちは、なぜその事実をお役人に対して隠蔽せねばならなかったのか。彼らの頭脳に異国人との交流はご法度と言う観念が叩きこまれていたからではないか。まさか彼らが、存在もしない禁令を勝手に妄想したとあえて主張するものはあるまい。』(P72)うん、納得が行く説明。

戦国時代。蠣崎、たびたび出兵して、主人安東氏を助けている。って、その頃はまだ、完全に独立していたわけではなかったのか。

秀吉が蠣崎氏に与えたのも、交易の管理権で、架空の領土支配権ではない。
家康、松前における対アイヌの独占権。ただし、アイヌが奥州北部などに南下することや北上してエトロフなどで交易するのは自由。

アイヌモシリは日本に従属的な立場にある一種の保護国とみなされていたことになる。そして、アイヌをそのように従属させ保護すべき責任者が松前藩なのである。』(P109)なるほど、保護国ね。

シャクシャインの乱アイヌ同士の闘争で、当事者の片一方が松前藩に武器援助を要請したが、断られた。断られてから帰る途中に松前への使者は疱瘡にかかって死んだが、それが待つ前による毒殺だという流言が飛んで、対立相手(シャクシャイン)がの共同で蜂起を提議して、その提案に毒殺されたと信じた当事者の片一方が乗った。という経緯だが、ややこしい、というか松前とばっちりwww
まあ、蜂起に応じた背景には、交易条件が(商場知行制に変わったため)不利になっていて不満が溜まっていたと言う前提があるけどさ。

松前藩、「商人との癒着、風俗の淫蕩、アイヌの虐待、ロシアへの警戒心の欠如」といった「常識」は天明の幕府の蝦夷地見分以降、幕府系の者たちが述べた松前藩糾弾を真に受けたところに成り立った偏見。『「常識」が成立する以前の旅行記松前藩の統治を悪しざまに言っているものをすくなくとも私は見ていない。』(P122)意外だ。
『古松軒は江戸発足以来、各藩の人足の使いぶりを見てきたのである。その人が松前藩吏の人足指揮を賞賛しているのだから莫迦にしてはならない。』(P123)『彼は日本女とアイヌ女が立ち話している様子にも目にとめている』(P123-4)イメージ変わる。
松前藩の場合、幕藩体制における自藩の仕組みの異相さを自覚するゆえに、実情を守秘したい思いは特に強かったのではなかろうか。』(P126)たしかに、『武家・町人がいれまじり、鰊をとって一年の暮らしをたてる』(P126)というのは江戸時代のイメージにはない、特殊なものを感じるよ。

アイヌが原日本人とか、アイヌ文化は日本文化の基層といった梅原説。『民族とは言語を中核にする文化の共有によって成り立つ歴史的概念』(P134)で、「日本人」ができたのが7、8世紀。アイヌもそれあまり遅れずに形成。今日に通ずる日本文化ができたのは室町後期で、アイヌ文化の成立もほぼ同時期。縄文人を共通ルーツとしてアイヌと日本人がいるというのは有益な仮説だが、アイヌとその文化を『日本人や日本文化の領域に原型あるいは基層としてとりこまれるべき存在ではない』(P134)

アイヌ、十三世紀にサハリンへ渡った。って、最初から棲んでいたわけではなかったのか。なんとなく、今まで元からいたような気になっていたよ。

「ツグナイ」、紛争解決のため、議論(チャランケ)して宝を差し出すこと。あるいは慣習違反、マナー違反のさいに、宝を差し出すこと。

アイヌにとってこの世はよいもの楽しいものなのだ。しかし、それはすべてこの世があの世に支えられていてこその話だった。アイヌはふりかかる苦難を自分への試練ととらえていると藤村はいう。「だから、ひとことで言うと、アイヌの人たちは聖人というものを一生涯の大目標においているのである」』(P145)

アイヌを日本の国風に同化せずに放置しているのは、その方が「掠め安きため」であり、松前藩と請負商人への不信は、こののちの幕府の方針はもちろん、明治以降の歴史観にも大きな影響を与えることとなった。』(P150)松前同化政策を積極的に獲らないから非難されるって、今の価値観から見ると可哀想だ。松前は悪玉視されているが、少なくとも明治以降よりはずっとましだよな。

12本を10本と数えるアイヌ勘定といわれているものは、『いわゆるアイヌ勘定は鮭と鱒の勘定のときにしか使われないという。こうした輸送中に傷みやすい品物は一二本をもって一〇本とするのが一般の商慣習だったのだ。何も相手が無知なアイヌだからごまかしたわけではない』(P157)「一般の商慣習」だったというのは知らなかった。

漁場、日本人によって勝手気儘に開発されたのではなく、アイヌ住民の同意を得た上で開発がなされていた。

アイヌは日本人商人の奴隷だったのではない。アイヌが〆粕生産に従事するのを忌避した場合、労働を強制するような暴力装置を商人たちは持っていなかった。』(P159)強制ではない、ということはかなり意外だった。自分稼ぎをする選択肢もちゃんとあったということに驚いたが、それに驚くって、今まで僕はどのくらい松前藩の統治に非常にマイナスイメージをもっていたかがわかるな(笑)。

松前藩、未開の状態に留める政策をとったというのは誤解。農業は奨励された事実もあり、『松前付近のアイヌには日本語に通じるものが多く、服装・履物の点ではむしろアイヌの方が日本人化を拒んだのが実情だった。』(P164)
『幕吏たちは松前藩アイヌを未開状態に放置したと憤慨するけれども、アイヌ自身にとっては彼らの生活はけっして「未開」ではなかったし、放置されることが幸せだったのである。幕吏の国防意識にとらわれる必要のない今日の私たちからすると、松前藩アイヌ不干渉政策は、アイヌの自立した社会を温存した点で評価に値するのではなかろうか。』(P166)

大黒屋光太夫離宮の御苑長の娘が彼のために唄を作ったというのは光太夫の思い違いで、彼女が歌ってくれたのは当時流行っていたウクライナ民謡に過ぎなかった。』(P170)「風雲児たち」でそのこと書かれていたが、違ったのか。

松平定信、長崎への入港許可証を与えたが、ロシアがその後すぐきたら通商を許すつもりだった(また定信失脚後もそれほど時を経ていなければ、国交が樹立されていた可能性は大きかった)。そして、その場合は、厚岸を交易地にする用意があった。ということは、意外だった。定信が鎖国令を明文化した人だという知識があるから、余計にそう感じる。

『幕府は海外と甲禁止令とキリシタン禁令の建て前上、漂流者を厳重に取り調べはしたものの、道理をはずれた取り扱いをしたわけではけっしてない。』(P185)例えば、光太夫らの行動は監視されていたわけではなく、外出して人と会うのも自由だった。

松前の者どもはたとえばウルップにロシア人が居住している状況をまったくつかんでいないし、第一そういうことが気にならないらしい。クナシリ・メナシ事件のあとの「改正」一件もほとんど実行されておらず、藩士の要所要所の勤番も名目だけで、彼らに任せて置いたら蝦夷地は野放しになってしまう。』(P203)それなら、上知はしょうがないな(笑)

レザーノフがきたとき、長崎には日本人のパン屋があった。と言うことには吃驚した。

スターリン時代のロシアの学者、ロシア人がボタン1つと鯡50〜100匹とを交換したのに、それを日本人のアイヌ掠奪の例として引くって、いくらなんでも酷すぎる。

レザーノフ、日本(南千島、アニワ港)襲撃を計画していたのは確かだが、最後には計画をほぼ断念。「風雲児たち」を読んだだけでは、実際に命令したのかよくわからんかったが、そういうことなのね。

そしてその襲撃。『ソ連時代の研究者ファインベルクはアイヌが日本人の暴力から救ってくれと彼らに訴えたと記している。ロシア人が保護してくれなければ自分たちはみんな首を切られるというのだ。彼女は同地を視察したクルーゼンシュテルンがロシア人が、ロシア人がサハリンを支配したとしても、アイヌが利を得ることはあるまい、彼らは日本人によってすこぶる親切に取り扱われているようだと述べていることをまったく黙殺している。』(P263)ソ連……、どの国でも係争地における自国の(虚構の)正当性を訴えるのは、こんな捏造しかないんか?

露領アイヌと日本人との交易、『それによると、日露関係が断絶する以前は「立派な手続きで誠実に」交易が行われていたという。クリル人はラッコやアザラシの皮・鷲羽などを持参し、米・衣類・煙草・漆器などと替えた。「物々交換は双方合意の上で、決して侮辱したり、押し付けたりしないで行われた」。値段は変動せずきまっていて、ラッコの皮一枚に米大俵一〇といったふうだった。』(P290-1)

ゴローヴニン事件、読んでいくうちに、起こったことがしょうがないことだと思えるようになった。
質問が「まったく関係のない無秩序」なものだったのは、『これは江戸人特有の尻とり的連歌的思考なのである。世界を論理的に系統立てて把握しようとするものではなく、パノラマのように拡がる世界に、連想作用によって自在にはいりこもうとする独特なアプローチなのだった。』(P304)また、そうした質問は公的な尋問としてではなく、個人的な関心によって行われた。友人として尋ねていて、返答を強要しているわけではなかった。なので、幕府がそうした細かい無意味なことを聞き出そうとしていた、と言うのは間違い。

ゴローヴニンはフヴォストフが着用しているのと同じ袖章のある軍服を着ていたという証言や、リコルドが送ったゴローヴニンの蔵書中から日本語の商品名札が発見された等等、疑わしいところやゴローヴニンの陳述に虚偽あることを知っていたが、追求しなかった。直截ゴローヴニンにあたっている、荒尾が彼を信頼していたんだろうけど、そこは追及しようよ、職務放棄じゃないのか、コレは?

『何のことはない。林蔵もゴローヴニン揺籃期の民族国家を代表するナショナリストと言う点では似たもの同士だったのだ。』(P309)ゴローヴニン、自分に似た人物に好意を抱かなかったのは、笑える。まあ自分に似ているとは意識していなかったろうが。

荒尾、『彼の構成と寛仁はたんに彼個人の資質ではなく、国際社会に対して日本人を代表する自覚的なメッセージだったのではなかろうか。』(P311)もし、相だったら面白いね。

幕府の蝦夷地経営は財政上黒字だった。

アイヌの人口減、『日本人商人の資本が蝦夷地を掌握する度合が深まるに連れて、アイヌ社会の単位であるコタンが崩壊しつつあったことを示すものにほかなるまい。』(P348)松前藩の統治が今まで言われていたほど悪くないとしても、結局交易相手というだけだから、統治者として、アイヌを保護したり、アイヌのためになることをしていたというわけではない。