明治天皇 2

明治天皇〈2〉 (新潮文庫)

明治天皇〈2〉 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
新政府は東京遷都、廃藩置県など緊要な施策に次々と着手。明治天皇西郷隆盛重臣たちが唱えた朝鮮出兵を自らの裁決で阻止するなど、若年ながら国家の舵取りについて重大な決断を下していく。また繰り返し行なわれた全国巡幸は、臣民の間に統一近代国家としての日本の意識を植え付けた。西南戦争を経て、国際社会の一員として成長した日本は、やがて自由民権運動の興隆を迎える。

読む前は注が多くて(しかも四分冊)、難しそうに思えたが、歴史の本として屈指の面白さと読みやすさ!さくさくと読めて、読んでいてつっかえることがない、読み物としても読めるレベルの平易さ(内容は盛りだくさんだが)なのはすごく嬉しい。まだ2冊までしか読み終えていないが、明治時代の通史として最上の物なんじゃないかとさえ思えるほど。いや、他の通史ろくに読んだことないんですけどね(笑)。まあ、明治の通史自体、数が少ないから、仕方なくこれで代用しようとしたんだが、期待をはるかに超える出来だわ。

文語の原文を引用したあとには、親切にも現代語訳がついているから、つい原文は読み飛ばして訳だけを読んでしまう。わからなくとも、いちおう何回か読んでみて意味を読み取ろうとしないといつまでたっても昔の文章に慣れることはできない、とはわかってはいるのだがついつい恣意に流され、楽をしてしまう。

岩倉遣外使節団、失敗ではなく、むしろ(西洋を視察し、体験することができ、その知識を日本に帰って活用することができたという意味で)大成功とする見解は目からうろこ。

天皇の栄光は、その治世の長さと天皇が日本国民に常に深い関心を払っていたことからくる揺るぎない印象に由来するもので、美化された理想像から出たものではなかった。』(P101-2)美化されたものではないというのはちょっと意外かも。

英国代理公使ワトソンとロシア代理公使ビュツォフの天皇への謁見での立礼・坐礼に関するエピソードは面白い。
かたくなに謁見での立礼を求めたワトソンには、副島(当時・外務経)はその要求をその国の例に従うべしと一蹴して、ワトソンはそれなら謁見しないと怒ったが、その後間もなく来日したビュツォフが謁見を申し出て、立礼・坐礼どちらでもかまわないといった、そうしたら天皇は立礼で公使を迎えた。そのことをワトソンが知って、同じくどちらでもかまわないといって謁見を申し出て、彼もまた立礼で迎えられた。という話なんだが、引用せず、自分で書いてみたら、いまいち面白くないな。まあ、文章力低いからしゃーないか。そして、このエピソードは、明治天皇自身の決断(他の人からこうしてくれと命令(懇願)された、とかいうのではなく)で立礼によって迎えたというのもちょっと意外だった。

佐賀の乱、今まで中公新書のなんだったか(タイトル忘れた)で書かれていた(著者の推測として描かれていただけかもしれないが)、政府(大久保)による江藤の謀殺というような印象があったが、欠片とも書かれていないので(そして、今までの自分のなかでの印象を改めて思い返すと、あまりにも陰謀論的な色が強いのに我ながら愕然としてしまい、今までの印象はちょっと一旦放棄した。)、この事件に対する印象がいよいよどういった経緯で起こったのか正確なところがわかんなくなってきたな、佐賀の乱についての著作、時間ができたら何冊か読んでみようかな。

1876年当時、日本の気温は「華氏」で表示されていた、ということは知らなかったので、ちょっと驚きだった。

熊本城の戦い、思っていた以上に大規模な戦いということにかなり驚いた。ちょっと、熊本城攻防戦についての小説か、歴史読み物があればぜひ読みたいという気分になってきた。

『大久保の死の衝撃と侍補の諫言は、天皇に新たな責任感と自らに備わった威光を目覚めさせたようだった。』(P313)転機
『この時期を境に、われわれは明治天皇の肉声を聞くことができるようになる。型通りの勅語の言い回しでなく、これまでもっぱら耳を傾ける側にまわっていた一人の人物が自ら話す側にまわる時が来たと決意したかのように、それは天皇独自の響きを帯びていた。』この時期(=1881年)。

植木枝盛、自分を天皇と同一視(晩年だけでなく、自由民権運動で盛んに活動を展開していた時期から)。名前しか知らなかった人物だが、変人だなあ(笑)