翻訳夜話

翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)

Amazon.co.jp
東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、異なる聴衆(参加者)に向けて行った3回のフォーラムの記録。「夜話」とあるように、話の内容はいずれも肩の凝らない翻訳談義だが、レベルの異なった参加者との質疑応答の形をとっているために、回答内容は自ずから微妙に変奏されており、結果として入門、初級、中上級向けの3部構成の翻訳指南書に仕上がっている。
柴田が書いたあとがきに、「翻訳の神様から見れば、我々はすべてアマチュアなのだ」とあるように、両者の回答は、体系化された技術・翻訳論議に向かうのではなく、翻訳を行う際の、動機や心構えを説明することに費やされている。例えば「大事なのは偏見のある愛情」(村上)とか、「ひたすら主人の声に耳を澄ます」(柴田)とか、あるいは「(翻訳することによって、原文の世界に)主体的に参加したい」(村上)といった具合だ。

途中に、「海彦山彦」と題したカーヴァーとオースターの同一の小品(巻末に原文がある)の競訳が掲載されており、プロ翻訳家たちとの最後のフォーラムでは、これを巡った質疑が展開する。文脈や文体のうねりといった、一般論では語り尽くせない領域で具体的な論議が進行するこの部分からは、競訳ゲームのおもしろさという以上に、テキストと翻訳家との間で生じる本質的なスリルが伝わってきて、非常におもしろい。劇的な魅力たっぷりの、本書の白眉と言っていいだろう。(玉川達哉)

フォーラム1の東大のワークショップ、質問がポンポンと出てきて、とっさに文章(エピソード?)だったりを引用できるというのは、すごいな。さすがに頭がいいなと感じるよ。

翻訳競作、たとえば、村上さんの訳文ではなにを言っているのかいまいち読み取れなかった文章が、柴田さんの訳文の方で読むとどういうニュアンスで言っていたかというのがわかる(村上さん→柴田さんという順序なので、どうしてもそうなる)。という体験ができたが、そういう体験をしたのははじめてなので新鮮な心地だ。
カーヴァーの短編は、手紙がどういうことを意味しているのかわからない。最近文学を苦手だと悟ってから、あまり読んでいなかったので、気にしてなかったが、こうした短編で断片性(?)を持った小説を読むと、自らの読解力不足を突きつけられるような感じがして暗澹たる気分になる。長編ならば、細かいニュアンスをかなりこぼれ落としても、ストーリーはわかるから読んだ気になれるが。
カーヴァーの本、読もうと思っていたが、この短編を読んだ限りでは個人的にはピンと来ない作品なので、ちょっとしばらく止めておこうかな。
ただ、フォーラム3において、
『柴田 これは、カーヴァーの作品のなかでもとくに奇妙ですからね。
 村上 文体はリアリズムなんだけど、かなりシュール・レアリスティックな話になっていますね』(P182)と言っているのをみて、どこかホッとした。
「個性の不在」、「社会的にゼロになる話」ということばを読んで、はじめて、そうした主人公について描写していないことがそれを意図したことだと知った。そういうことは、文学的な素養のある人だったり、勉強している人はそうしたことは、当然というか前提として捉えられていて当たり前というようなことなんだろうか?

オースター、「オーギー・レンのクリスマスストーリー」、彼がやっている毎日同じ場所・同じ時間を写真で撮るということは、アートかは知らないけど、実際に毎日同じ対象をとるということをやっている人も、結構ぽつぽつと話題になるから、案外いるようだよね。この短編は結構好きだ。

こうやって、訳者が違う翻訳を続けざまに読んでみると、案外Aではニュアンスが汲み取れなかったがBではわかるということがあるのだと体感できた。いままで、同じ本を訳が違うからといってまた読むという行為(なんか微妙にわかりづらい書き方になるが、すっきりとした表現が出てこない)をいまいちよく理解できなかったが、こうした体験をしてみると、そうした行為をする理由がなんとなく理解できたよ。

『僕は翻訳というのは、基本的には誤解の総和だと思っているんですね。だから、一つのものを別の形に移し換えるというのは、ありとあらゆる誤解を含んでいるものだし、その誤解が寄り集まって全体としてどのような方向性を持つかというのは、大事なことになってくると思うんですよね。僕は、そういう方向性というのを「偏見」という言葉である程度置き換えちゃっているわけで、偏見という言葉はあまりよくないんだけど……。いろんな誤解があって、たとえ誤解の総量が少ないにしろ、その一つ一つの誤解がそれぞれ違う方向を見てたら、できた翻訳というのは、あまり意味がないと僕は思うんですよ。だから、たとえ偏見のバイアスが強くても、それが総体としてきちっとした一つの方向性を指し示していれば、それは僕は、翻訳作品としては優れているというふうに思うんですよ。音楽の解釈・演奏と同じですね。』(P192、村上発言)誤訳についてなんやかんや言われても、かなり一般には評判の高いような翻訳作品というのは、自分が面白いと思っていてもそうした誤訳について批判されている訳書があると、ひねたような感情を持ったり、原文の尊重云々と批判されているのに反発して開き直って面白ければ何でもいいじゃないか、と理屈なしで思っていたが、この説明でようやく納得がいって、そういうものこそ優れた翻訳作品なんだ、と太鼓判を押されたような気分で嬉しい。

「逆に、しゃべるんだったらこうしゃべるのがリアルなんだけど、字にするとおかしいというのもありますしね」(P213、柴田発言)この発言で個人的に想起させられたのは、たとえば一人称の「うち」とか、小説で見たことないなあ。まあ「うち」という一人称にすると、素人の僕でも違和感があるし、きっと古びやすいだろうというのがわかるけど。

巻末についている、翻訳競作の原作2作品の原文がついているが、英語は全然ダメなのでそこは読んでいない。