河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙

河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙

河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙

内容紹介
肉親を喪いながらも取材を続けた総局長、殉職した販売店主、倒壊した組版システム、被災者から浴びた罵声、避難所から出勤する記者。
内容(「BOOK」データベースより)
それでも新聞をつくり続けた。2011年度新聞協会賞受賞。被災者に寄り添った社員たちの全記録。


 周囲に人がいるのに、涙ぐんだり、喉がきゅっとするような感覚を味わったりした。本を読んでいてそんな感覚を味わったのは初めてだ。泣ける小説とか映画(映画自体あんまり)とかを読まない、みない、からかもしれないが、そんな泣きたくなるような衝動を味わったのはちょっと記憶にないほど。
 河北、「かほく」って読むのね、(野球の)楽天ができた当初は、たまに楽天関連のものを見に行っていたが、いままでずっと「かわきた」って読んでいたよ(苦笑)。
 「雪が降りだしていた。」(P22)ああ、震災の当日、仙台の方では雪も降っていたのか。震災当初から、情報を注視していたわけでない上、もう一年半も経っているので、そこら辺の細かなディティールが覚えていなかった(か、知らなかったか)。
 『これまでの取材経験において「壊滅」という言葉を聞いたことがないし、原稿で書いたこともない。だが、テレビが刻々と伝える被災地の様子は明らかに「壊滅」している。』(P35)ずしり、重く心にのしかかってくる言葉だ。今までの経験では考えられないこと、しかし、テレビで見たものがリアルに現状を伝える、それでも信じたくない気持ちから、「すぐには呑み込めない」というこの記者の寄る辺ないような気持ちを慮ると泣ける。
 防災庁の屋上に津波が襲い、避難していた30人ほどがその津波で10人ほどにまでなった、というのは当時、その前後の写真が衝撃的だったので覚えているが、改めて(本の中に挿入されている)当時の記事を読むと、何かこみあげてくるものがあるよ。
 避難所で号外を配ると、むさぼるようにその号外を読んでいる人々の『あちこちから悲鳴が上がる。号外で震災の惨劇を初めて知った人が少なくなかった。』(P45)というような反応を見ると、情報を得られる(与えられる)純粋な喜びというものを感じられ、また、情報を必死で読んで状況を知ろうとする人々の情景が浮かんできて、なんか泣きそうになる。
 震災翌日の南三陸町の『砕かれた民家やひしゃげた車が漁具にからまり、うずたかく積み上がっている』という中における『ランドセルを背負った女児と男子中学生が手をしっかりと結んで、自分たち(引用者注、取材をしに被災地に向ってきた記者たち)と反対方向に歩いていった。目を赤く泣きはらしており、口は真一文字に結ばれていた。何者をも寄せ付けない沈黙がまだ子どもである二人の表情にはあった。』(P74)という風な文章で描かれた光景のあまりの凄まじさに言葉を失う。この本に何回か、原爆投下後の広島を想起したとか、焼け跡のない爆心地というような言葉が出てくるが、まさにそのような感じの歴史上の光景のような、現実味のなさ。戦後、戦中の日本の、悲しさを湛えた子供たちを連想させる、たとえば、弟の遺体を焼き場に背負って持っていった兄のエピソードを。
 避難所に行き、医者に(幼稚園・保育園生くらいの)一縷の望みをもって、子供の遺体を見て欲しい、と思い、河北新報の車に必死の形相で乗せろと頼んだ、父親についての当時の記事を読むと、父親の愛情というものがひしひしと感じられて、泣けてくる。
 河北新報の山形総局が、現場記者や本社を取材や新聞作りに専念させるために、兵站を補給するための裏方に(記者として被災地で取材したいという思いを押し殺して)自ら判断し徹したというエピソードは、好きだなあ、こういう地味でもやるべきことをやろうと自ら判断して、なおかつ人情味の溢れる話。
 編集局の中国人留学生のアルバイト3人が、原発事故後の中国政府の帰国呼びかけを受け、一旦帰ろうとしたが『自分の気持ちを裏切ることはできません』とUターンして、仙台に戻ってきて、『列に立ってバスを待っていた時、送ってくれた河北の方々の顔を思い出しました。本当にこれから仙台を離れるの?みんなまだいるじゃないと思いました。結局三人で河北に戻りました。今考えてみると、やっぱり仲間と一緒にたたかっていいなと思います。』(P180)と業務日誌に書いたというエピソードは、そういう日本が母国でない人が「仲間ともに戦うため」に戻ってきたというのは、被災地の人だけじゃない、日本だけじゃない、他にも一緒に闘ってくれる人がいるということを強く感じられて、こうして本を読んでいても鼓舞されたような気分になり、また、当時の河北の人たちがそのことにいかに勇気付けられたかを思うと、その行いに感動するよ。

 本社から一反福島から退避するように命じられて、記者なのに(本社命令とはいえ)他の人が多く残っている中で離れたことに対する強い後悔が書かれた当時河北新報福島総局の記者だった人(後に福島から離れたことを自分で整理できず、「記者の仕事に区切りをつけ」た)の日記が引用されているが、その中の強い後悔とともに語られる言葉が強く胸に迫るかのようだ。
『怖い。自分の身を守ることを優先したい。だが、実際そうしたら後悔した。』(P186)
原発の作業員は命をかけて対応している。県庁職員も必死だ。逃げるすべがなくて県内にとどまっている被災者も多い。
 それなのにわたしは佐渡にいる』(P187)
『上司にあらためて「福島に戻りたい」と訴えると、許可が下りた。
 何でもいいから戻りたい。このまま戻らないと、一生立ち直れない。』(P190)

 『「ごめんなさいね、ごめんなさいね……」/(改行)/突然、隣席に座る中日のカメラマンがつぶやきはじめた。/(改行)/「僕たちは撮ることしかできない。助けてあげられないんだ」/(中略)/彼は眼下の人々に詫びるように、何度も独り言をつぶやいた。』(P68-69)巻頭に写真が出ている、白紙を並べ「SOS」の文字を小学校の屋上に作ったところを空撮したときのエピソード、巻頭のカラーの写真と「ごめんなさいね、ごめんなさいね……」という文章で既に軽く目頭が熱くなって、本文中でその部分を読んだときもまた、目が潤んだ。
 しかし、その後「その時 何が」という河北新聞の連載の第一回で、被災地の状況を改めて調べてみると、『その後数日間、飢えと寒さが遅い、死んでいった人もいた。医療チームが救命に派遣されたのが一週間後だった』(P248-9)ということが判明して、当時カメラマンは、他者のヘリで撮影しているし、たとえ自社のヘリが無事でも、救援物資を積んでいるわけでもなかっただろうから何もできなかったろうけど、自分を内心責めながら報道カメラマンに徹して写真を撮った、しかし、『新聞に写真が載れば自衛隊や警察の目に留まり、速やかな救出活動に繋がるのではないか/(中略)/そんな思いで自分を割り切っていたのだが、現実ははるかに厳しいものだった』(P249)ということを感じ、再び自己嫌悪に陥り、自問自答を続けている、とあるように、現実はそう上手くいかないものだね……。まあ、「速やかな救出活動に繋がるのではないか」というのは、空撮した人たちが、周囲が浸水して地理感覚がなくなり『学校名すらわからない有様だった』(P244)ということから考えると自己欺瞞のように傍からみると思えるが、当時必死に取材していた人たち、そして現在も何もできなかったことに苦しんでいる人、にそんなこというのはひどく酷であるし、そんなことを言うのは全く他人事として捉えているように思い、そんなことを少し思ってしまった自分に恥じ入る。
 震災1ヵ月後の社内アンケートでの「感動」の質問のところで、『友人がスーパーに並んで我が家の食材を買ってきてくれたこと。「三人の子がいたら、かみさん、スーパーにも並べないだろ」と言ってくれた。涙が出そうになった。』(P237)という回答には、ほっこりする。