私のマルクス

私のマルクス (文春文庫)

私のマルクス (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
「資本主義の内在的論理についてマルクスが『資本論』で解明した論理は、超克不能である」という確信のもとに、自らの思想的ルーツをたどる。稀代の論客・佐藤優の根幹を成した浦和高校同志社大学神学部時代を回想しつつ、カール・マルクスとの三度の出会いを綴る著者初の思想的自叙伝前篇。文庫版付録・京都での講演を新たに収録。

 この「私のマルクス」と「甦るロシア帝国」という、佐藤さんの思想的自叙伝の前・後編はセットで年間ベストに入れたが、本当に両方とも素晴らしい本。
 これを読んでいる途中で、佐藤優さんと須賀敦子さんは文章が読みやすいとはいえないのに、頭が痛くなるまで続けて読んでしまう。全然違うのに何故だろうと思って、少し共通項を考えてみたら、非常に信仰について真摯に考えているキリスト教徒であり、自分の体験を語っている作家であり、外国で知識人と非常に深い交わりをした人である、ということで案外共通点があるな、この中のどの要素に自分が惹きつけられているのかはわからないが、こうした点があるものが、たぶん好きなんだと思うし、それがあるから非常に興味を持って読めるのだろうな。
 浦和高校に入学した年の夏休みに、15歳で社会主義国ソ連・東欧を一人旅ってすごいな!というか、当時の事情はよく知らなかったが、両親共に社会主義国となんらかの繋がりがあるわけでもないのに、そう簡単に入国とかできたのか、今まではなんとなく現在(だかちょっと前)の北朝鮮のように、かなりそうしたことを制限されていたというイメージを持っていたわ。進学校に進学させたい両親が、浦和高校に入学したらとペン・パルのいるハンガリーに行ったりシベリア横断をしてみてもいいじゃないか、と餌をぶら下げて、旅行に行かせるのだから、それほど閉ざされてはいなかったのだね。しかし、佐藤さん、十代で外国へ一人旅なんてかなり度胸があるなあ、若いころから東欧やらソ連に対する興味があったのだね、そういうことがご褒美として機能する位だから。
 『イスラームの側は、ユダヤ教徒キリスト教徒の信じる神はアッラーであるとカッテに解釈しているだけで、その論理にわれわれが付き合う必要はないと思う。イスラームの人間観には原罪がない。これはユダヤ教徒キリスト教徒と決定的に異なる』(P20)ユダヤ教徒キリスト教徒もそうかもしれないが)側からすると、イスラームが信じているのは同じ神だというのは違和感があり、それは原罪に対する認識が全然違うから、というのは興味深い。実は、ユダヤ・キリスト・イスラム教は同じ神を信奉しているというような文章しか読んだことがない、というか宗教についてわかりやすくかかれた易しいものしか読んでいないので、それ以上のことは知らなかったが、そうした同じ神を信じているといわれていることへ違和感があるというのは面白い(といっては失礼かもわからんが)。しかし、外国語といえば英語しかできないのに(『高校一年の一学期を終えただけの貧弱な英語の知識しかもっておらず』〈P46〉というのは流石に謙遜だろう、英語でペン・パルと文通していたのだから学校の範囲以上に英語の勉強をしていただろうし)東側である東欧やソ連へ行き、そこで意思疎通ができたというのだから、いかに英語が世界の公用語と化しているのかがよくわかるエピソードだ。
 70年代半ばの共産圏では、酒や食品などの供給は充実しており、一般労働者の一日の実質労働時間は3〜4時間程度だった、というのは非常に羨ましいし、そういうのが世界に現出していたのなら、そういった体制に憧れる気持ちはわかるよ。
 『イエス・キリストによって明らかにされた救済の教理は、イエス・キリストが一時的に去った現状に置いては、使徒たちの集団、つまり教会によって担保されている。だから「教会以外に救いはない」ということになる。救済は人間にとっていいことだから、それをキリスト教徒以外にも押し付けるというキリスト教の実におせっかいな性格は個々からきているのだ。』(P141、「マタイによる福音書」28:16-20からそうした考えに)『終わりの日を「階級社会が廃絶される日」とし、その担保がカール・マルクスによって基本的に明らかになったという構成をとるならば、やはり現在は中間時で、人間は終わりの日に向かい、基本的に救済が担保された状況で生きているということになる。ここではマルクスが発見した革命(救済)のイデオロギー(教理)は、共産党という名の「教会」が保持していることになる。』(P141-2)キリスト教共産主義が似ているといわれていることは知っていたが、具体的にどういうところがというのは知らなかったけど、そういった基本的な大枠の論理構成からして似ているのね。また、イスラームの伝承では、イエス(イーサー)は十字架に架けられたわけではなく、イーサーの居場所を教えた男をイーサーに似させてその男を身代わりとして十字架に架け、その間イーサーは少し留まって(この間が「復活」といわれていることだと述べている)から神は彼を天に召させたということになっている、ということは知らなかったが興味深いな。
 『処刑台を前にして革命家は民衆に対して、「お前たちのためにやっているんだぞ!」という呪詛の言葉を投げつける。渡邉先生はこういう構造に根源的に疑問を持っていた。「代理」の思想を拒否するのである。そこからピーサレフの徹底したエゴイズムに惹かれたのだと思う。革命運動もテロリズムも自分のためにやっているのである。革命により民衆が解放され、収奪や搾取がない社会に生きるということが、自分のエゴなのだ。だから処刑台を前にしてもエゴのために生きた自分のエゴに満足しなくてはならない。処刑の苦痛は一瞬だ。しかし、エゴイズムで完全に充足した人生に革命家は満足できるはずだ。確かに論理的にはそうなる。/しかし同時にそこから疑念がわいてくる。それならば、確信犯として殺人を行う犯罪者も革命家と権利的に同格なのではないか。恐らく、これがドストエフスキーが『悪霊』、『罪と罰』を通じて読書会に投げかけた問題だ。/ドストエフスキーは政治的に保守陣営、ピーサレフは革命陣営に属していた。しかし、政治的暗殺と確信犯的な強盗殺人は権利的に同格であるという認識は一致している。』(「私とマルクスP256-7」)革命家は自分たちのエゴでやっているのだと満足しなければならないというのには非常に納得できる、しかし、そこからドストエフスキーが『悪霊』、『罪と罰』で投げかけた問題とつながるというのは面白い、ドストエフスキーの長編は大体読んでいるけど、基本的に僕は小説をストーリー追っかけて面白いとか面白くないとか思って読んでいるばかりなので情けないことながら、そういったテーマがあったのかあ、ふうん、という他に感想がでてこないなあ、ドストエフスキーの小説には解説書なんかもそれなりに安価なものがでているからそれを読んで、そして再読してみようかな。
 『「君は真綿で首を絞めるようにして他人を自分の土俵に引きずりこんでいく」「君の基準に堪えられないと感じた人は君のもとから去っていくか、キミの崇拝者になるかのいずれかだ」』(P303)大学時代に友人である斎藤君から指摘され、またロシアの知識人からも指摘された佐藤さんの独特のカリスマ、自分ではそれをカリスマでは思っていないとしながらも指摘されたことを客観的にきちんと書いているのは面白い。
 高校や大学時代の恩師達とのエピソードがいちいち魅力的で素敵だ。佐藤さんの大学時代、同志社大学ではまだ学生運動が盛んだったということもあり、佐藤さんもその中で関わっているが、思想的にマルクス主義に興味があるからそこからの人間的なつながりによって自然に関わるようになったから、変な気負いや理想主義のニオイがなく、また自分の存在をその運動に委ねておらず軸足は思想的な世界にあるのがわかるし、神学部自治会の学生運動自体が上からの命令や流れではなく自分たちで意思決定しているようなところがあるから不思議と好意をもって読める。大学の移転問題で、神学部というトポスを残すために、神学部自治会のメンバーの八木橋君という人がハンストをして、限界(辞め時)になったとき、佐藤さんはあえて救急車を呼んでニュースとして新聞に掲載されることを狙ったというエピソードには、そんなことを考えるのか!と感心する。