「大岡裁き」の法意識

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)

出版社からのコメント
裁判員制度、自己責任…静かに進行する大改革法は日本に根づくのか?

現在、この国では法と裁判のあり方をめぐる「第三の司法改革」が進行中である。法科大学院の開設、平成二一年をメドに始まる裁判員制度など、法の現場は大きく変わろうとしている。
日本人にとって法とは何か?
西洋法を継受する過程で、この国は何を取り入れ、何を棄ててきたのか?
そもそも、法はわれわれの法意識に合ったものなのだろうか?
長年にわたり議論されてきたこれらの問題を、改めていま問い直す。

◆「大岡裁き」の法意識とは?
・裁判所はこわい(いやな)場所である
・裁判官は人格者であるべきだ
・杓子定規でない、柔軟な解決をすべきだ
・金銭を請求するのは、強欲だ
・もめごとは、個人の問題ではなく、みんなの問題である
・勝者と敗者をはっきりさせず、「まるく」おさめるほうがいい

 「第1章 穂積陳重の外見の変遷と日本法の歩み」では、明治初年に藩(宇和島藩)から推挙されて西洋の学問を摂取した学生となり、後に法曹界で大きな地位を占めるようなった穂積陳重のことを、学生時代の和服で刀を腰に差した姿から、非常にリッパな髭を蓄えた姿、そして70歳のときの穏やかなおじいさんといった風情でようやく洋服が似合うようになった姿と日本法の変遷とを重ね合わせている(というか、それまでが仕事着だったり、英文著作〈外国〉用の英国紳士然として過度に気取って見える写真だったからな、重ね合わせるためにあえてそういうチョイスをしているのかもしれないけど)。宇和島藩、四賢公の伊達宗城の藩なのに、推挙する人間を漢学の素養で選んだというのは、わりと開明的なイメージのある宇和島でさえそうなのかとちょっと驚き。ちなみに、穂積陳重穂積八束民法典論争で「民法出デゝ忠孝滅ブ」という論文を書いたり、天皇主権説を主張した)の兄。
 『当時の学者、とりわけ帝大教授は、現在のわれわれが考える学者・大学教授の一般的イメージに比べると、はるかに官界・政界に近い存在だった。さきに述べたとおり、穂積陳重は、学者でありながら枢密院議長までつとめた』(P52)当時の学者、特に帝大の教授は現在よりもずっとエリートだし、その分自分が国の為に何らかの助力や助言をするべきだという意識もあったのだろうな。そうした意味で、八束の民法典論争で書いた論文は、旧民法を攻撃しながら具体的に条文をあげて論証せずに抽象論で攻撃した政治的煽動効果を狙ったものだったのは、当時の学者が官界・政界に近い存在だったから当時としては、そうした政治的な意図をもって論文を書くのは、別段おかしなことだとは思われなかったということなのかな。
 箕作麟祥、当時教授するとき、寺子屋とかもそうだが、教える側は逆から字を見ているのだが、それが彼は英文を逆さでスラスラ読めるってすごいな。しかも生徒が持ってきたジャンルもバラバラの初読の書物を、幕末の当時に19、20の若者がとなるとより一層そう感じる。
 仏法派は自然法(時空を超えた普遍的妥当性を持つもの)思想に影響を受け、英法派は歴史法学的(法は各国の歴史的相対性により規定される)な法認識に傾いており、八束の「民法出デゝ忠孝滅ブ」は、『「祖先教」である日本に西洋がキリスト教化したのちに支配的となった「極端個人主義」に基づく民法典を導入することの不当性を主張したのも、歴史法学派的な発想に基づいている』(P77)。だけど「ボワソナアド」(岩波新書)を読んで知ったのだが旧民法も、ボアソナードは直接には家族法部分を書かず、日本人の手によって書かれてその内容も明治民法に対比して勝るとも劣らざる半封建的民法であったらしいが。
 「権利」という言葉が訳語として定着した際に、ヨーロッパ語が持っていた「正」「直」「誠実」といった日常的意味と「法」という意味が脱落してしまって『ヨーロッパ語では同一語のうちに一体のものとして語られていた「法」と「権利」がわが国においてこのように二つの別の訳語として定着してしまったことは、その後、ヨーロッパ語の文献の翻訳を試みるものを、大いに悩ませることになる。』(P116)というのは、確かにどちらを選ぶかでかなり印象が変わりそうだから選ぶのが大変そうだ。
 明治31年に、前近代的な(きちんとして法を勉強していない、明治初年に司法官の地位に割り当てられて就いた)司法官たちを、司法大臣になった曾禰荒助が「老朽司法官の淘汰」と呼ばれる大人事を断行して、「法の担い手」の近代化を大きく前進させたのは、憲法でも裁判所構成法でも司法官の身分保障が厚くなっていたのに断行した、ということなので乱暴だが、当時の大多数の国民にとっても善き事であるようなので大英断だったと思う。なにせ、明治33年になっても拷問廃止を建議したボアソナードを揶揄しているような人間たちだからな……。
 『わが国では、為政者は裁判というサービスを提供することにより収入を得ようとしなかった。しかし、西洋では、裁判収入は有力な財源であった。』(P168)そこら辺の差異は興味深いな、どうしてそうなったのかが結構気になるなあ。