終わりと始まり

終わりと始まり

終わりと始まり


個を超えた〈普遍〉には与せず、誰にでも分かる平明さで、静かに個として個に語りかける詩人。好きといっても/人はお世辞や水色も好きだし/――清々しい簡潔さで、日常の平凡な世界に価値を見出す最新詩集。ノーベル文学賞記念講演を併録。
(Publisher Michitani 未知谷のホームページより)

 池澤夏樹「春を恨んだりしない」は、この詩集に収録されている「眺めとの別れ」の一説が題名として使われ、また本文中にも引用されていた、それは詩がわからないなりに、すごくいい詩だな、と感じることができるくらい良かったので、この本を読んだ。まあ、詩なんて読みなれていないし、自分は感受性が鈍いと自覚しているから、正直なところどんな含意があるかわからないから、かなり頓珍漢な受け取り方をしているかもしれないが(まあ、それはいつものことといえばいつものことだが〈笑〉)。 「題はなくてもいい」これ結構好き。『束の間の一瞬でさえも豊かな過去をもっている』(P12)小さな他愛もない出来事も過去を持ち、流れの中にある、と意識させてくれることや『こんな光景を見ているとわたしはいつも/大事なことは大事でないことより大事だなどとは/信じられなくなる』(P15)日常の普通の行動にも自分がよく表わされており、その日常の普通の行動は非常事態の行動と同じように大事だといっているのはいいね。
 「詩の好きな人もいる」『そういう人もいる/つまり、みんなではない/むりやりそれを押しつける学校や/それを書くご当人は勘定に入れなければ/そういう人はたぶん、千人に二人くらい』(P16)ああ、そんなに少ないんだと詩をわからない自分としてはなんだか安心する(笑)。
 表題作の「終わりと始まり」戦争が終わった後に、一般市民たちが瓦礫を片付け、死体を処理し、新しい家を建てなければならず、復興までの時間のかかる仕事は注目されず、カメラは他の戦場に行ってしまっている、そして復興が一旦終わっても戦争時を思い出して愚痴る横ではもう再び何かことを起こそうとしている人がいて、さらに錆付いた論拠を掘り出す人もいる、そして時が流れると戦争を知る人は、戦争を少ししか知らない人に、少ししか知らない人は、ほとんど知らない人へと世代交代がされる、というのは戦争が終わっても、それによって戦争が起こした事態が直ぐに解決されるわけでなく、その後片付けにもまた民衆にとって苦難なことであり、そうした苦い記憶も年月によって世代が変わることで風化されてしまう。までは、たぶんいいんだと思うが、最後の『原因と結果を/覆って茂る草むらに/誰かが寝そべって/穂を噛みながら/雲に見とれなければならない』(P22)は、戦争によって悲惨になることが予見できていても止められないから、ほとんど知らない人たちによって巻き起こされるであろう新しい戦争を、諦めて見ているほかない、という人間の無力さ、引き継がれない教訓といったことを表しているという理解でいいのかな?
 「憎しみ」の『憎しみ 憎しみ/その顔は愛の恍惚に/歪んでいる』(P24)というフレーズはなんか響きが良く、格好いいので好きだな。
 「空っぽなアパートの猫」全部引用したいぐらいすごくいい詩。解説を読んで、この詩が「眺めとの別れ」と同様に夫の死を悼んだものだと知る、猫と擬することで喪失感や死を現実のものとして中々捉えることができないということを非常に強く感じることができる。
 「眺めとの別れ」『またやって来たからといって/春は恨んだりしない』というフレーズから始まる、素晴らしい詩で、これが収録されていることで、ほとんど買ったことのない詩集を、この本を買ってみようかという気にさせてくれたもの。
 「一目惚れ」冒頭の『突然の感情によって結ばれたと/二人とも信じ込んでいる/そう確信できることは美しい/でも確信できないことはもっと美しい。』(P57)という言葉は、なんとなく好きかも。
 「括弧のなかの点々のよう」『あの日のわたしはどこに身をひそめ/どこに隠れてしまったのか――/これはなかなかみごとな手品/自分の前から自分を消してしまうとは』(p64)この冒頭の文章の、飄々としたとぼけた味わいが好き。