翔ぶが如く 6

新装版 翔ぶが如く (6) (文春文庫)

新装版 翔ぶが如く (6) (文春文庫)


内容(「BOOK」データベースより)
台湾撤兵以後、全国的に慢性化している士族の反乱気分を、政府は抑えかねていた。鹿児島の私学校の潰滅を狙う政府は、その戦略として前原一誠頭目とする長州人集団を潰そうとする。川路利良が放つ密偵は萩において前原を牽制した。しかし、士族の蜂起は熊本の方が早かった。明治九年、神風連ノ乱である。

 この巻は読了してから、感想を書くまでだいぶ間が空いてしまったから結構内容忘れててやばいなあ、それに感想を書き終えてから次の巻を読みはじめることにしていたから、しばらくこのシリーズを読めていないから、色々と忘れないうちにさっさと読まなければなあ。
 地方官会議、日本人が西洋式の会議になれていないため、真面目にやっていたのは最初の一、二日というのはひどいな。その中でも、鹿児島県令の大山は積極的に不真面目な態度、例えば会議中に大鼾をかいて寝たり賛否の挙手をどちらも挙げなかったり、をとることで政権に対する軽蔑をあらわにしていた。
 宮崎八郎は権道主義的発想をする人で『権道的発想というのは、八郎の場合、天下の二台勢力を想像の上で手玉にとり、想像の上で勝負させ、想像の上で勝ち残った一方をさらに斃す、というもので、詩の起承転結のようにあざやかである。「そんなことをいう男」とは、ほぼ以上のようなことであろう。』(P48)ようするに机上の空論であり、
 久光、野に下られると厄介だから国家から優遇されたが、業績がなく、また国家をあげて業績を作らせまいとした、というのはまるで位打ちだね。久光が恐れられたのは単に薩摩勢力が背景にあっただけではなく、公家出身者や大官たちとは比べ物にならないほどの漢学や国学の教養を持っており、名利でも動かされず、懐柔にも乗らず、妥協もしないという不退転の精神があり、品行方正で武士的気品を強く持っていたからこそ、明治初年に巨大な存在感を有していた。また、どういう現実を見ても揺るがないという日本には希な思想家的気質を持っていたというのは面白い、まあ、その内容は守旧的で独創性がないものであるが。また、明治9年当時、久光は太政官には反発しているが、その体制を武力で揺さぶるつもりはなく、むしろ鹿児島の士族が爆発することを憂いていたと書かれてあり、ちょっと意外だった。廃藩置県以後、藩主は東京にいたけど、久光は藩主でなかったからひきとめる理由がないから鹿児島へ帰ることができた、とあるのはそういえばそうだったね、そう考えると規則を無視した行動をとっているわけでなく、あくまでルールを守っているというのは、これまで読んできた久光のイメージとも合致して、彼らしいなと感じる。
 大久保、薩摩の二大勢力である、久光党と西郷党から独立して単独で存在して、薩摩勢力という背景がないにもかかわらず、政府のトップにいて頼りにされており、トップにいることを政府の内部では不信がられない(つまり、薩摩勢力という背景がないのに、排斥されず、己の能力だけで政権のトップにいる)というのはすごいな。
 西郷は他人を使うことは上手いが、まるっきりの他人は苦手という指摘には納得。
 前原一誠、師匠の松蔭が忠孝のどちらを優先させるかの問題を、君国への忠を明快に優先させる山鹿素行の影響があるから忠を優先させるが、彼はどちらを優先させるかという矛盾が解決していない。けど、儒教に親が置いたら遠くには旅をしないというのがあるが、それをかなり忠実に守っており、幕末にもほとんど諸国を奔走した履歴がなく、明治になっても戊辰戦争が終わるともう帰郷しようとしているが、政府に引き止められる。技術的な面で突出した才能があったわけでもないし、正直この人、長州出身で松蔭の弟子であること以外に、なんの功績によってこの時期そんなに存在感が大きくなったのか微妙な人だな、これだけ読んでいると。
 前原はこの時期に長州の太政官に不満を持つ派における象徴になっていた。そういった点では、長州の西郷的存在であるが、ただ彼は西郷に比べて非常に政略感覚が幼く、自分が東京に来ることで重大な政治的波乱が生じるとまったく認識できておらず、遊びがてらといったような感じで東京に出てきた。しかし、前原が荻へかえった時には既に蜂起する決心があった。
 上京中の前原に接触した会津人の永岡久茂『この時期太政官を転覆しようとする抗争においては、永岡ほど緻密な計画と決意をもっている者はいなかった。永岡はこの種の大計画を持っていただけでなく、思想の左右をえらばず、すべての反政府運動家を糾合しようとしていたし、その方面での顔もひろかった。当然ながら永岡は海江田や内田のような島津久光の側近たちともつながっていた。』(P166)この人は今まで知らなかったけど中々面白そうな人だな、もっとこの人について話を見たいな。彼は会津藩士であり、元の仲間達が極めて小さな土地へ移され、窮乏していることを知っているからこそ、誰よりも苛烈で切迫した気持ちを抱いていた。しかし、録に組織だっていないから部下もおらず、平素連れ歩いている2人の書生が密偵だというのは泣ける。
 前原のもう一人の師である松蔭の叔父の玉木文之進、公(君主と民衆)のために私を捨てよというのが思想の中心にあり、ただ吏僚となる道を肉体化するまで教えているが、そう教えられたものは吏僚にとどまらず、革命家になってしまうというのは可笑しみを感じる。
 西郷の密使(実は密偵なのだが)が来て半月以上経って、ようやく反乱の打ち合わせをするために、一人派遣したのだったが、その折に前原は金を与えるのではなく、貸したというところに人物の小ささがでてきているねえ。
 讒謗律が、ドイツで半年前に発布された出版法にそっくりでそれを手本にした法律だというのは知らなかった。
 神風連が蜂起した2日後に、前原たちも蜂起という約束があったということは知らなかった(たぶん、覚えていないだけだろうが)。
 児玉源太郎、受けたことのある正規の教育が藩校での初等の漢文教育と大村が大阪玉造につくった兵学寮での下士官としての養成教育を1年受けたきりだというのはすごいな。まあ、よく考えると当時の正規の教育って案外少ないから、寺子屋とか蘭学やら漢学やら先生に教わるとかでも正規じゃないわけだから、当時の一般の人と比べて少ないというほどではないのだろうけど。