甦るロシア帝国

甦るロシア帝国 (文春文庫)

甦るロシア帝国 (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
外交官としてソ連崩壊を目の当たりにした筆者は、新生ロシアのモスクワ大学で神学を講義し、若者たちに空恐ろしさを感じる―「ロシアはいずれ甦り、怪物のような帝国になる」。プーチン大統領の出現でその恐れは現実化した!今後のロシア帝国主義政策を理解するために必須の、ロシア知識人たちの実像を描き出す。

 「私のマルクス」と「甦るロシア帝国」は思想的自叙伝の前・後編であるのでセットで年間ベストに入れた、両方ともすごく面白い本なのだが、ソ連の崩壊直後で混乱した状況でのロシアの知識人たちとの交流は見ていてすごく面白い。そうした状況だからか国柄なのか知らないが、ロシアの知識人たちは政局に対する観察眼が非常に優れているから、その知見を読むのも面白い、佐藤さんとの対話の形で書かれるから読みやすいし。
 ソ連解体の原因は経済政策の失敗と民族政策の失敗である。民族というのは18世紀末以降流行になった近代的現象で、近代人にとっては民族主義宗教的役割を果たすものでもある。そして『学問として民族が近代的な現象で、国民国家が「想像の政治共同体」であることを認識している知識人であっても、実証的には否定される民族の悠久の大義のために命を差し出すのだ。』(P11)現実に「悠久の大義」ではないとわかっている人間すら捉えられる、民族主義という強力な信仰。この文を読んで、過去に宗教によって死んだ人たちの宗教感情を、近現代の民族主義の感情と同じものと考えれば理解しやすくなるかもしれないなと思った。
 佐藤さん、在外勤務手当てのうち千ドル分を、学生たちに仕事を作ることで支援していた。一応支援することで将来のロシアのエリートに親日感情を抱かせるかもしれないとの思惑もあったといっているが、才能ある人間が混乱した状況の中で十分に勉強することができないことを憂慮したからそうした、という純粋な厚意・善意(キリスト教的な隣人愛)のほうが先にきていそうだし、大きそうだ。また、資本主義国の言語を操ることができる専門家達は生活に困らなかったが、困窮しているロシア思想や東欧語の専門家たちへは、佐藤さんが関心を持つ古本や新本を集めてもらう、相手の言い値(といっても、誰もが倍以上は取れないといったというが)で買うことや、話題になった政治家の暴露本の要旨をまとめてもらいそれに原稿料を払うこと、あるいは授業で使うフロマートカの神学書をチェコ語からロシア語に翻訳してもらい謝礼を払うなどで支援をしていた。単純に支援したいから、といっても知識人が持って当然の矜持から受け取ってもらえないから仕事を作ることによって支援をした、そういった佐藤さんの姿勢には頭が下がる。
 ロシア正教の神父や神学大学という言葉が出てきて、一応細々ではあるがソ連体制下でも教会はあったんだ、いやよく考えればソ連の中にもイスラームの人たちも居たのだからキリスト教徒たちがいたって不思議ではないのだが、やはり共産主義で宗教否定する立場だから、江戸時代の日本のキリシタンみたく地下にもぐって密かに信仰されていたという勝手にイメージを持っていたよ。
 『科学的共産主義学科では宣伝(プロパガンダ)と煽動(アギタツィア)について系統的に訓練を受ける』(P44)宣伝と煽動について教える学科というのは凄いな、いや僕が無知なだけで日本にもあるのかもしれないけど。ソ連では宣伝と煽動を区別しており、宣伝は理論的に相手を説得することで、その対象は政策決定者や知識人である。一方、煽動は感情に訴えて相手の共感を得ることで、対象は大衆である。このような、区別の仕方ははじめて知ったが面白い。
 ソ連アフガニスタン戦争はアメリカにおけるベトナム後遺症と似た傷を残した。帰還兵が突如として錯乱状態を起こしたり、あるいは無気力症におちいり定職に付かずぼんやりと毎日を送る青年も増えてきた。
 『一九八九年の春、私の記憶では五月の人民代議員大会で、サハロフ代議員がアフガニスタンソ連軍の武装ヘリコプターが友軍兵士を銃殺し、皆殺しにしたと告発した。ソ連軍幹部は、事実無根であると激しく反発した。/「佐藤先生,サハロフ・アカデミー会員が言ったことはほんとうです。ただサハロフは本当の意味を理解していない。あれは戦友たちへの愛なんです」/「愛だって?どういうことだ。意味がわからない」/「ソ連軍の乗った装甲車や兵員輸送車がアフガンゲリラに捕らえられてしまうことがあります。捕虜になった将校は文字通り身体を切り刻まれて斬殺される。あるいは石打にします。大きな石を当てるとすぐに死んでしまうので、握りこぶし大の石をたくさん集めてきて、できるだけ苦しみを長引かせて、殺すんです。生きて還ることは絶対にできない。それだから、このような隣地の現場を見つけるとソ連軍の武装ヘリが機関銃やミサイルを撃ち込んで、戦友たちを早く楽にしてあげるのです」』(P69-70)こうした、普通は愛とは正反対に位置する、殺すという行為が、愛だといえてしまう特殊な状況、そしてその中で実行しないでいるとその苦しみを長引かせてしまうから、(相手に同情できる)普通の人が愛によって殺すということを実行する、ということには圧倒されてしまう。こういう話を読むと、そのサハロフ代議員のように単純に非難することはとうていできなくなる。
 日本人旅行者はロシアのレストランはサーブが遅くて、食事に時間がかかったと文句を言うが、ロシア人はレストランへ行くのは年に一、二回で、前日の夕食から控えめにして、当日の朝食、昼食を抜いて、思いっきり食べるから、レストランでは時間をかけて食事をするところである認識がある。(少なくとも当時の)ロシアではレストランは、そんな前日の夕食から準備をするというのは面白い。
 課外授業として、佐藤さんの友人である黒い大佐と学生たちがレストランで食事しながら話して、食事してというシーンは個人的に大好き。単純に僕は喜びをもって食事しているシーンが大好きだし、また黒い大佐がマサルのプロフィールを学生たちに話すシーンもいい、アフガン帰還兵であるアルベルトがアフガンでの悪夢のような体験で後遺症で悩んでいることを皆の前で喋り、自分はどうしたらいいかと大佐に聞き、その後に自分の気持ちを見つめるためにはどうしたらいいのでしょうと尋ねた、それに対して大佐がいった『それは書いてみることだよ。そうすれば、自分の気持ちを文章に正確に表現することがいかに難しいかがわかる。そこから更に書き進め、これ以上、進めないというところまで書いたら、それが自分の意思に近いのだと思う』(P116)という言葉はいいなあ、好きだなあ。
 『ロシアの計算では、風呂場、トイレ、洗面所、納屋、廊下は住居面積に含まれない。廊下、納屋、風呂場が結構大きいので』(P155)ロシアでの3LDKで85平方メートルなら、日本の基準では120平方メートルくらいになる。という文章で、そうしたロシアの計算法だから、住居面積が日本と同じかより狭いという、面白おかしなことになっているのはそうした理由もあるのかな。
 閉鎖核秘密都市出身のナターシャ、父は核の施設で働いていたが当時のロシアの混乱によって給金未払いになっていた、そんな家計を助けるため佐藤さんの講義をまとめたりといった仕事をしていたが、父が失踪したことを契機にしばらくすると連絡が付かなくなる、そしてどういう経緯をたどったのかわからないが、1995年に佐藤さんと再会したときには家族の生活のためにモスクワ大学の哲学部から共感として残ることを進められた才女が、外国人の愛人として私生児を生んでいた、というのはナターシャと連絡がとれなくなってから再開するまでの間の生活やもうその才能を生かせないということを思うとひどく悲しい。
 「自壊する帝国」とかで重要な人物として出てきた、モスクワ大学時代の学友であるサーシャのことを『アレクサンドル・カザコフ君』(P205)と君付けで呼んでいるのは、本当に友人として親しいということがよく表れていて、なんかいいよね。
 ソ連では私的な経済活動が禁止されているため、差別されているユダヤ人は家庭教育に力を入れて『小学校五、六年の頃から、家庭教師をつけて、大学レベルの知識を身につけさせようとするのである。私の知り合いのユダヤ人が、「金や銀は、戦争になると、国家によって接収されてしまうが、頭の中に入っている知識を国家が切り取って、持ち去ることはできない」と言っていた』(P271)なんだか中国戦国時代(だったかな?)においても、子供のために資産を蓄えるよりも教育をすることのほうが、戦乱で資産を失うことがあっても頭脳は生きている限り失われないし、その頭脳で食べていけるから、教育を重視したというようなことが書かれていたのを思い出し、社会の安定に不信を持った人間というのは資産よりも教養を重視するのが常なのだなと感じた。
 『ロシア人は外部から普遍主義を押しつけられるのには忌避反応がある。しかし、ロシア人が個別利益を押し付けようとするときに、それを個別利益とは言わない。あなたたちにとっても利益がある普遍的なものであるという。ロシア人が言う、普遍的なるものには、必ずロシアの個別利益が含まれている。ロシア人はそのことに気づいているのだが、認めようとしない』(P327)その理由はわからないとセリョージャは言うが、ただロシアは動議国家で全人類の苦難を背負っている発想があり、それはソ連にも受け継がれている。ソ連の経済政策と民族問題の苦しみ、東西冷戦の終結があるが、ロシア人は冷戦に敗れたとは考えず、時代の転換の徴をロシア人は掴み、人類が背負うべき苦悩を、自らが率先して背負っていると考えている、というある種のメシア思想がある、というのは面白い。ただ、前半の普遍主義と個別利益の話はだいたいの普通の国が当然にそうなんじゃない、とは思うけど、日本のお花畑の人々とか政治家とかはともかくね。
 最後、次の講義で初期マルクスの阻害論と宇野経済学による「資本論」の読み解きを話して欲しい、と科学アカデミー民俗学研究所の副所長であるセリョージャから言われて、講義ノートを作り始めるところで終わっているが、この後のその講義の話も見てみたいので、それが描かれなかったのが少し残念。いや、実際描かれたら他の講義のシーン同様わかんないまま字面見て読み流すはめにはなると思うけどさ(苦笑)、宇野経済学についてもうちょっと知りたいけど、わかりやすそうな本で新本で買えるものがないからなあ。