TOKYO YEAR ZERO

TOKYO YEAR ZERO (文春文庫)

TOKYO YEAR ZERO (文春文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
1945年8月15日。玉音放送の響く中で見つかった女の死体。そして1年後に発見される第二、第三の死体。GHQ占領下の東京に殺人鬼が徘徊している!そいつを追う警視庁の三波警部補。だが三波自身も警察組織も暗い秘密を隠していた…。実在の連続殺人に材をとり、圧倒的リアリティで描く戦後の闇。衝撃の警察小説大作。


 プロローグとか一部ごとの最初の1ページに、細い字で3つくらいの文章が混ざった文章があったり、本文でも一人称の内面に、過去の出来事についての文章が数行太字で挿入されている独特な文章で、ただでさえ冒頭は読み薦めるのが大変なのに、余計に読みにくく感じた。だけど、読みにくいと思ったのは最初だけで慣れるとサクサクと読み薦めることができた、ちょくちょく挿入される太字のところが何なのか気になり、語り手に感情移入するのを妨げてくれたおかげで、読んでいて雰囲気の重苦しさを強く感じてきつくならない要因になってくれている。主人公や語り手に感情移入するのというのは、いい読者ではないのはわかっているが、どうしても読んでいるうちに自然とやってしまう悪癖なのでそれをさせないように、太字を挿入して主人公へ感情移入して行くのを防いでくれているのなら凄いし、作者さんに感謝。それに語り手の精神状況が尋常ではなく、またハードボイルドでウェットなところがないので、戦後の悲惨な状況を精神的にきつくならずに読むことができ、そして当時の状況について他の歴史の本を読んでみようかという気分にさえさせてくれる。戦後のような悲惨な状況下において語り手まで動揺していると、個人的には読むのが辛くて物語どころではないという気分になってしまい、苦行と感じながら読み進めるはめになるのだが、こういうタフな主人公なら、きつい状況での小説でも面白く読み進めることができる。
 プロローグいつの話かと思ったら戦中の話か、といっても最後に玉音放送が流れたシーンで終わるから本当に末期、というか最後の日だけど。
 わずかな隙間しかないほどの満員の電車に乗るために、悪戦苦闘している人たちに、警察手帳を出して警察だといって自分が電車に乗るとか、こういう関係のない些事たることで身分を利用するような行為をしていたのでは、今までは警察嫌いというキャラがたまに出てくるが何で嫌いなのかいまいちわからなかったが、こういう行為をしている警察官が多かったのであれば、ちょっと前の小説の年配の人とかにそういう人間がいても不思議ではない、というか当然だなという風に感じた。
 小平の名前わりと早々と出てきて、逮捕されるのもわりと早くて(200ページいかないくらい)、あれ?となるが、同じ場所で発見された白骨化したもう一つの死体のほうは否認したりと、その後が長いね。しかし小平、殺した女の雨傘や腕時計を平然と他の女にプレゼントとしてあげていたというのはすごいゾッとする。
 台湾人が襲ってきて警察署で銃撃戦なんて、こうしたすさまじく治安の悪い状況のときがあったというのは、戦後の混乱期や左翼運動全盛期における極左のテロとか、現在の治安から数十年前にはそんなことがあったということは、事実としてあっても、そういうシーン見るたびに素直には信じがたい思いがいつもあるよ。しかも警察がその台湾人連中を逮捕して、その記録を残さず復讐として殺すなんて、警察がよくヤクザ的と評されることがあるが今までそのことにいまいちピンとこなかったのだが、混乱期の警察をみると本当にヤクザと親和性を持つものなのだなと、そうした評しかたになるほど一面の真実を突いているものだったのだなと少し納得した。
 『「ここは国民バーの一つだよ。直撃を受けた時に百人以上が閉じ込められて生きたまま焼かれてね……」/「だが俺は二日前に来たんだ」わたしはまたそう言った。/「それなら、あんたは幽霊と飲んでいたんだな」』(P307)2日前に来たバーにいったら、戦争中爆弾が直撃して100人以上が生きたままやかれて破壊された場所だったことがわかるシーンは現実感がぐらりと揺らぐ、信頼できない語り手でしかも意図的にわかりづらくしているわけじゃないようだから、どれをどの程度信じていいのかわからなくなるなあ。
 ヤクザの親分である千住、語り手の三波が今まで黙っていた情報をだしたときに、今までの黙っていたことに対しては何もいわずに『千住はそれ以上聞いていなかった。立ち上がり――/わたしに金と錠剤の雨を降らせ――/「困るものか」千住は叫んでいた――/「楽しみができたよ!」』(P370)という行動をしたところとか、何ともいえないが好きだ。なんというか、純粋にその情報に喜び、またそれ以前の三波が錠剤とか金を貰いにしょっちゅう来ていて恩があるのに言わなかったことに一言の嫌味もいわない、その陰性がないさっぱりとした粋な態度をとっているからこのシーンが好きなのかな。あくどいこともやっているけど私欲よりも、戦後の混乱期に極度に大きくなり、物資を買うために一般人も関わらざるを得なくなったアンダーグラウンドを外国人に牛耳られないためという使命感が先にあるようだから好感がもてる。
 過去の小平について調べに栃木に行った折、地元の警官に歓迎され、戦後の混乱している東京の状況下での基準としては偉く豪華の食事を御馳走されたとき、その警官が乾杯の挨拶の挨拶で『日本と天皇陛下に乾杯』(P440)といっているのは、まだ田舎の方が精神に余裕があるから以前から未だ変わらずに明るくいえる台詞で、語り手の三波のように東京という破壊された都会で生きて、既存の秩序が一新され、外国人の横暴やアンダーグラウンドの伸張を目にし、人間の汚さをより感じている人間からしたら、もう自分のことで手一杯だから、彼の陽性な行いは疑いを持たない明るさをもてた戦前と戦後との対比という感じのギャップがあって面白い。そうした戦後の強烈な体験という差異があるから、田舎の方が保守的な人間が多いのかなともちょっと思ったりした。
 最後の一瞬の美しい幻覚から、取り返しようのない現実へと覚める転換は残酷でありながらも美しい。三部作のようだけど、この終わり方では語り手は次から変わるのか?それとも同じ人なのか、どっちか良くわからないなあ、まあ、同じ人でも再び名前を変えているだろうけど。