渡りの足跡

渡りの足跡 (新潮文庫)

渡りの足跡 (新潮文庫)

内容(「BOOK」データベースより)
この鳥たちが話してくれたら、それはきっと人間に負けないくらいの冒険譚になるに違いない―。一万キロを無着陸で飛び続けることもある、壮大なスケールの「渡り」。案内人に導かれ、命がけで旅立つ鳥たちの足跡を訪ねて、知床、諏訪湖カムチャッカへ。ひとつの生命体の、その意志の向こうにあるものとは何か。創作の根源にあるテーマを浮き彫りにする、奇跡を見つめた旅の記録。

 梨木さんの著作だからと、どんな本なのかも確認せずに購入したが、渡り鳥に関するエッセイで、解説によるとこうした自然を主題とするノンフィクション・エッセイで自然学知と書き手の主観的な反応が重ね書きされるようなものを「ネイチャーライティング」と呼称するらしい。
 最初のほうの、『この日この時間の網走の湿度は約二二%、西南西の風、最大瞬間風速は13・9メートル。清々しく冷気を含んだ空気。』(P12)という文章は、数字によってどのような感じだったのかは、普段湿度とか風とか気にしたことがないので想像できないが、こうした細かいディティールを具体的な数字で積み重ねていったあとの「清々しく冷気を含んだ空気」という表現にはやられた。この文章で、一気に引き込まれる。小説家さんだから当然かもしれないけどやっぱり文章上手いなあ。
 在来種で絶滅の危機にある植物が多くなる一方で外来種が増えている、『こういう事態に追いやった責任の大部分が人間にあるにしても、その人間もまたnatureの一部であるのだし、ならばその欲深さや浅はかさもまたそのnatureなのだから、この状況こそが、この時代この場所の「生態系」に他ならない。だが、何とか環境の人為的な破壊を食い止めたいと試行錯誤する人々がその種の中に出ることもまた、自ら回復しようとする自然の底力の一つなのだろう。』(P17)ああ、なるほど環境保護などといっている人がでるのも自然の底力という発想はなかったが面白いし、自然を愛しているのに、どちらも自然のものとして受け入れるスタンスをもっているというのは素晴らしいな。
 ヒヨドリ、渡りをする固体や同じ地域内の標高の高いところから低いところへ近距離移動する個体、同じ場所にとどまる固体など同じ種類でもそんな違いがあるのかと少し驚いた。
 著者はカラスがジャコウネズミを捕食した時を丁度目撃し、その光景を描き出しているが、ジャコウネズミは臭腺があって臭いので食べるのに逡巡していて、たべたあとも電線で嘴をぬぐっていたというのは、今までカラスはゴミとかあさって食べているという印象があったからそこらへんの感覚は鈍いのかなと思っていたが、『この近くにゴミ処理場があり、この辺は烏が多いんです、と案内人が説明した。ということは、においには比較的免疫のあるカラスだったのかもしれない。』(P81)ということなので、そうした臭いが平気かどうかというのは固体の慣れの問題で、種族として臭いのでも全然平気とかそういうわけではないのか。
 渡りをする鳥に送信機をつけて、渡りの実態を把握するという調査が80年代から行われている。その送信機は鳥の体重の4%以下にして負担を少なくしているらしいが、命がけの渡りをする鳥へ負担をかけなければいけない、そうしたデータを集めることで開発や伐採の計画を再考させる契機になるが、元々鳥好きの人たちなので送信機を装着させることには『前述の『鳥たちの旅』でも「今日取り付けた送信機はあの鳥をくるしめてはいまいか」と眠れぬ夜を過ごす様子が描かれている。』(P94)というように、かなりの葛藤があるようだ。
 「春になったら苺を摘みに」での日系二世の方の話があったが、その続きの話が本書の「渡りの先の大地」という章で描かれている。アメリカ市民でありながら、収容所へ家畜同然に放り込まれたあと、「あなたは合衆国軍隊に入隊し、命ぜられたいかなる戦闘地にも赴き、任務を遂行する意思がありますか」と、「あなたはアメリカ合衆国に対し、無条件の忠誠を誓い、内外のいかなる武力による攻撃からも合衆国を忠実に守り、日本天皇あるいは、他の国の政府や権力組織に対し、あらゆる形の忠誠や服従を拒否しますか」という2つの質問にノーと答えたから、彼らは「ノーノーボーイ」と呼ばれた。それは普通そんなことをした国家に対して、いくら自分が生まれてきて国民だという意識を持っている国家であっても、忠誠を誓えるか、しかもそんなことを不躾に質問されて、というと中々難しいよ。もちろん、それに対して自自らの勇敢な行動で、自分たちがアメリカ市民であることを証明しようとした人たちも尊いとは思うが、どちらかというと「ノーノーボーイ」のような人に個人としては共感を覚える。まあ、そのどちらにしても自分を構成する要素の多くを切り捨てた決断をしなければいけなかっただろうから、どちらにしても懊悩せざるをえない決断だったであろうが。
 オオワシ、途中で休みを取らずに生まれ故郷から飲まず食わずで渡るというのは凄まじいな。
 『オロロン鳥は、その姿かたちから、北半球のペンギンとも呼ばれている。』(P186)おお、鳥の名前自体知らなかったから、ちょっとググって写真みてみよう。 
 鳥たちが渡るのには、太陽や正座の位置が大きな役割を果たしているらしいが、幼い頃に星空を見ることのなかった鳥は、成長してからいくら星空を見ても定位することができないというのは面白い。
 最後の元知床開拓団のお年寄りと茸狩りするエピソードは好きだな。しかし、テレビで知床開拓が失敗例として挙げられたが、実際は楽しいことも十分にあった山の恵みもありという土地だったのに、行政も開拓者も逃げ出すほどの厳しくも美しい大自然というイメージをつくりあげ、そのテレビ番組もそのイメージに沿ったものを作ることが最初から決まっていたのか、当時の写真の着物が上等すぎると元開拓団の人が苦言を言われたというのは理不尽だし、実態と違うことを行政は、観光とかのためだろうがアピールしているのはなんだかな、とは感じる。