寝ながら学べる構造主義

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

寝ながら学べる構造主義 ((文春新書))

内容紹介
なーんだ、そんなことだったのか!
フーコー、バルト、ラカンレヴィ=ストロースと聞いて、難しそうと尻ごみするのは無用。本書を一読すれば「そうかそうか」の連続です

 地域や時代によって善悪や美醜の判断、そして常識は変わる、というのは現在の「常識」である。たとえば多くの人が、ある陣営の人から見る風景と反対の陣営の人が見る風景が全く別物という考えが主流となり、「常識」になったのはここ30年ほどのこと。たとえば、50年代のアルジェリア紛争のときにサルトルは、フランスのアルジェリア支配を批判して、「フランス人のものの見方」を相対化したが、相手側の言い分が断固正しいといったもので、当時の常識である国際紛争のどちらか一方に「絶対的正義」があるという時代の「常識」からは出ていなかった。しかし現在では、ある政策には一理あるが、他方の反対している人の視点を考えることも必要というのが、「常識的」で無難な回答となり、どちらの話も事実と誤りがあるものだということが「常識」となっている。こういう話を聞くと、例えば、中韓の言い分を全面的に受け入れているような人たちというのは、現在では変に思えるけどどちらかの言い分に「絶対的正義」があるというのが昔は「常識」だったから、戦後直ぐとかの昔の人なら当時の常識に即した対応といえるけど、現在ではずいぶん古い「常識」的思考の持ち主だということなのかな、という考えがふと頭に浮かんだ。
 そうした、ある視点が他の視点より正しいとは論理的に基礎付けられないという考え方の批評的な有効性を教えてくれたのが構造主義であり、それが「常識」に登録されたのが60年代のこと。あ、上で30年前と書いたり、ここで60年代といっている年代の差異は、学者と一般人の差異なのか、あるいは一般にそういう考えが認識されたときとそうした考えが主流になったときの違いなのだろうか、そこらへん説明ないからわかりません。
 物事の見え方が各々変わるということを発見した最初の例は、マルクスであり、それは「階級」によって物事の見え方が変わってくるというものだった。あと、マルクスヘーゲルから人間観を受け継いだが、それは静止していることは堕落することであり、『たいせつなのは「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じ詰めれば、ヘーゲル人間学とはそういうものでした。(このヘーゲルの人間理解は、マルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまで、ヨーロッパ思想に一貫して伏流しています。)』(P28)とのことだが、僕は出来うることなら何事もなしたくないという怠惰な人なので、個人的には耳が痛いわ。まあ、いうほど真剣に捉えることができていないけどね(苦笑)。
 私が何ものかは、どういった地点で何を作り出しどういった能力を発揮し、どのような資源を使用しているかで決まるもので、主体性の起源は主体の「存在」でなく「行動」のうちにあるというのが構造主義の根本。特定の状況下でどういう決断をしたかによって、自分が何ものであるかが決定される。ネットワークの中心に何かがいるのでなく、ネットワークの「効果」で主体が何者か決定され、『中枢に固定的・制止的な主体が居り、それが判断したり決定したり表現したりする、という「天動説」的な人間観から、中心を持たないネットワーク形成運動があり、そのリンクの「絡み合い」として主体は規定されるという「地動説」的な人間観への以降、それが二〇世紀の根本的な趨勢である』(P32)自分の本質とかが馬鹿げていると感じるのは、こういったことが明確に言語化されていなくとも「常識」となっているため、そうした考えを持っているからなのか。
 他の構造主義の源流の一つには、フロイトがいる。あ、本筋とは関係のないことだが、太郎冠者と次郎冠者の無秩序に散乱した「断片」があるとき、そこからどのような物語でも編み上げられるから、嘘か真実かを確かめようがない、という文章を読んで、ミステリの難しさを改めて感じるわ。まあ、それはそれとして、結局太郎冠者は嘘を見破られたが、それは「太郎冠者が嘘つきの不忠者であることを主人は知っている」という情報を「番人」が(無意識的に)受け入れを拒んだからであり、彼は自分があらゆる可能性を勘定に入れることができる狡猾な人間と思っているが、「太郎冠者が嘘つきの不忠者であることを主人は知っている」可能性だけは感情に入れ忘れた。それはなぜかというと、彼は主人をあなどっているため、愚鈍な主人に自分の下心が見抜かれている可能性を認めておらず、主人は自分より愚鈍であって「欲しい」という「欲望」が、目を曇らせた。『この無知は太郎冠者の観察力不足や不注意が原因で生じたわけではありません。そうではなくて、太郎冠者はほとんど全力を尽くして、この無知を作り出し、それを死守しているのです。無知であり続けることを太郎冠者は切実に欲望しているのです』(P38)。
 言葉が表わすものをどう区切るかはそれぞれの言語によって違うので、持っている意味の幅が違い、別の言語で完全に対応する語を見出すことは極めて困難で、人間は言葉で表わすことで、元々ない切れ目のない世界に人為的に切れ目を入れている(例として、「星座」が挙げられている、またしばらく後の場所で書かれている、例えば日本語ではぶつり音としては別の音であるrとlを区別しない、などどういう音を同じ音とみなしたり、別の音とみなすのか、という「音」も同様)、だからその切れ目は言語ごとに差異がある、というような考えは、ソシュールという人から出発したのか。あと、構造主義とは関係なく、古典派経済学は「価値」と「有用生」が別物であることを熟知していたという文章を読んで、そう考えると僕がサバイバルとか収容所とか刑務所とかの物語が好きなのは、物の価値が極大化した状況で日常的な他愛もない物を渇望する話は、日常的なものを非常に貴重で素晴らしいものと感じさせてくれるから、好きなのかもなあ。
 フーコー、あらゆる文物には生まれた時がある。彼が本を記した「監獄」「狂気」「学術」などは、時代や地域に関わりなく基本的に同一のものとして私達は信じているが、それらは幾つかの歴史的ファクターの複合的な効果として「誕生」したそれ以前には存在しなかったものである。
 歴史の線、というものは、選び取られたただひとつの線だけを残しそこから外れたりする出来事や歴史的事実を視野から排除したときだけ「歴史を貫く一筋の線」が見える。内田さんが、例としてあげられている、祖父母の血筋という4つの線があるけど、その内の3人を除去し一人だけを父祖に指名している、という話はわかりやすい。
 耐え切れないほどの苦痛の閾値は、個人差だけでなく、どのような文化的バックグラウンドを持つかによっても異なる。
 60年代から全国の小中学校に普及した三角座りは、手遊びをさせなくすることもできるし、首も動かしにくいため注意力が散漫になることを防ぎ、胸部を圧迫し強い呼吸ができないので大きな声も出せない姿勢にするもので、「生徒たちを効率的に管理するための身体統御姿勢」というのは、深く考えたことがなかったが、そのような生徒を騒がしくさせないように作られた姿勢だったのか。
 バルトのエリクチュール。あることばづかいを選択すると、選んだ語法が強いる「型」にはめ込まれる、こういうことは現在では常識になっていると思うが(例えば、一人称が変われば、思考も変化するというのは、僕ですら前からずっと思っていたことだからね。まあ、そういう変化がなんか嫌だから、一人称はいまだに安定せず、文章では僕、私をその時々の気分で変えたり、実生活では俺を使うが、それらもどうしても他に一人称を使わずに済む言い方がとっさに出てこないときに限定されているからね)、バルトの考えだったのね、今まで自分でうだうだと堂々巡りしながらそのことをたまに上手く言語化できないものか試みていた自分自身が阿呆らしい(苦笑)、よーし今度バルトの入門書があったら読んで、そこらをしっかり頭に入れようかな(笑)。『「価値中立的な語法」のうちにこそ、その集団が無意識のうちに共有しているイデオロギーがひそんでいる』(P123)。
 『私たちは(自分が「何ものであるか」を忘れて)実に簡単に「テクストを支配している主人公の見方」に同一化してしまいます。それが「現実の私」の敵対者や抑圧者であってさえ。』(P124)というのは、以前から主人公に肩入れしすぎて、客観的になれないのは自分の悪い癖であるとは認識(たしかナボコフはそういう読みは悪いこと、と書いていたような)していたが、誰もがそうとわかりホッとする。
 レヴィ=ストロース、人間が社会構造を作り出すのではなく、社会構造が人間を作り出す。人間の本質は贈与にある、たとえば贈り物を貰ったら心理的に負債感をもつから、「反対給付」つまりお返しをしないときがすまない、という人間固有の「気分」がある。この「反対給付」は、夫婦愛や父性愛を知らない集団があるにもかかわらず、知られる限り全ての人間集団に観察される。これら贈与と返礼には、社会が同一状態を保たず、恒常的な「変化」を獲得するという効果と、もう一つ内面的な効果として、『「人間は自分が欲しいものは他人から与えられるという仕方でしか手に入れることができない」という真理を人間に繰り返し刷り込む』(P163)効果の2つがある。
 不条理な昔話などの教訓は、『「この不条理な事実そのものをまるごと承認せよ」という命令のうちにこそあ』り、その『要点は「差別化=差異化=分節がいかなる基準に基づいてなされたのかは、理解を絶しているが、それをまるごと受け容れる他ない」と子供たちにおしえることにあ』(P190)る、という説明は、考えてもみなかったことなので興味深かったし納得できた。