入門 朱子学と陽明学

内容(「BOOK」データベースより)

論語』のおもしろさがわからないという人は、その解釈の魅力を知らないからである。孔子孟子の古典から知的営為を積み重ねてきた儒学。その中から宋代に新しい学問として現れ、儒教的な「宇宙認識」を哲学化した朱子学。そしてそれを継承しつつ克服しようとした陽明学。これらの世界観はいかなるものだったのか。東アジアの思想空間を今も規定するその自己・社会・宇宙のとらえ方を、心・性・理・気・鬼神などのタームを通して平易に解説。その魅惑に満ちた世界へと読者を誘う。

 はじめにで「その世界観をおおざっぱに理解するという視点から叙述した」(P9)というが、やはり苦手な哲学系の本ということや儒学という馴染みのない分野ということで正直なところよくわからないまま読み終えてしまったという感が強いなあ。まあ、ところどころは楽しめたけど。
 『理とは天に由来し、宇宙万物に秩序を与えている当為・原理・法則・道徳のことである。士大夫たちは経書を読むことによってそこに書かれたりと合体し、そして宇宙の普遍的原理と一体化しようとするのである。読む肉体、読む好意、書物、文字などはすべて気である。したがってこの行為によって理と合体することにより、そこから得る「道徳的主催者としての会館」は宇宙全体に充満する気としてひろびろと拡散してゆくのである。』(P16)初っ端からそんな「宇宙的快感」という宗教的な話からはじまりちょっと面食らってしまう。
 そして気は生命力を有した物質であり、霊的物質。宇宙は全て一つの気からなっている。しかしそれをある視点で見れば陰陽にわけられる。しかし陰陽は絶対的なものではなく、相対的なもので、陰の部分を他の観点からみたら陽にみえるかもしれない。運動エネルギーが低いところが「陰」で高いところが「陽」となる。
 朱子は『すべては理である。どんな怪異現象も、理でないものはない(『朱子語類』巻三・一九)。ただしそれは、怪異現象もありうるという理なのであって、士大夫はそのことさえ理解すれば、個々の怪異現象事態を理解することはしなくてよい』(P26)儒学といえば「怪力乱神を語らず」という言葉が印象に残っているから、そうしたものを完全に否定しているのかと思ったらそういうわけでもないのか。
 儒教とは、と一言で言うのは難しいことだが、著者なりに儒教について簡潔に表すと『儒教とは、地のつながりを基本にした宗教的な愛と道徳のエネルギーを、血縁以外にも拡大することによって文明的共同体の構築・維持を企図する思想である。』(P35)とのこと。
 儒教では親や子への愛を出発点として、その『親や子を愛するという最も自然で強力な感情を少しずつ周りに広げていけるのが人間であり、人間が人間であるかぎりは広げていかなくてはならないのである。親と子のまわりにはきょうだいという同心円があるだろうし、その周りには親族・同族という同心円があるだろうし、その周りには朋友という同心円があるだろうし、……という具合に「愛の同心円」をひろげてゆくのが人間である、と儒家は考える。そして最終的には国家という同心円、そのまわりに世界(天下)という同心円がある。聖人やすばらしいくんしならばそこまで同心円がひろげられるはずである。これが『大学』にいう「修身→斉家→治国→平天下」という「同心円拡大の統治」の基礎になっている。』(P38)朋友の位置を見ると、血縁がかなり重視されていることがわかるわあ、そういうところは中国的だなあ。
 『孔子が自らの思想運動をひろめようとしたとき、理性的な観念ではなく美意識という感性的なものに訴えたのが、儒の成功の要因のひとつであった。春秋戦国時代のほかの思想運動家たちの言説を見てみるがよい。孔子以外は、実に理性的かつ論理的に、自らの説の妥当性を語っている。それに比べて孔子の言葉は、ほとんど論理性が欠如していると表面上は受け取られてしまうほど感覚的で、素朴である。』(P53)孔子は彼と同時代の思想家の中でも特別に論理的ではないのね。
 P64-71において近現代の日本の朱子学者と彼らの著作の良さを熱心に、丁寧に語っているので、きっと読んでも理解できないものばかりだろうに思わず興味が湧いて読んでみたいと思ってしまうほど、その部分は読んでいて面白いな。その部分で島田虔次の「朱子学陽明学」(岩波新書)を、「朱子学陽明学の複雑かつ精緻な論理回路の魅力」を充分に味わうことはできないが、「複雑膨大なひろがりを持つ朱子学陽明学がこれ以上ないといってよいほど手際よくまとめられていることはたしかだし、朱子学をこれ以上明快に整理できる人はほかに存在しなかったというのも事実なのである。中国人、韓国人もこの本をよく読んでおり、この本の簡潔性を高く評価している。」(P64)なんて説明を読むとものすごく読みたくなってくる。
 朱子学性善説。例えとして自動車のフロントガラス(「気」)越しに世界を見るが、そのガラスのケアを全くしないで完全に汚れてしまって外が見えなくなってしまったときに悪人となる。外が全然見えない状態だと、人を轢いたり、事故を起こす。だから悪人にも理(善)はあるのだが、それが全く発現されていない。
 朱子学陽明学の違い。朱子学は「わける」思想、陽明学は「わけない」思想。陽明学がなにをわけないかというとたとえば、理と気、性と情、内と外、善と悪などをわけない。そして朱子学は「根本は一つだが、結局は二つにわかれている」と世界を把握するが、陽明学は「表面上は二つに分かれているように見えるが、根本は一つ」と把握する。
 陽明学を認められるかは「知覚が心で、心は理」という朱子学的には荒唐無稽なテーゼを受け入れられるかにかかっている。なぜ荒唐無稽かというと朱子学では当然知覚は気で、気は物質的なものであり、一方で理は非物質的なものであるから、物質的なものがそのまま理だということはありえないとなる。
 『王陽明知行合一は、アフォーダンス理論に似た考えで(中略)アフォーダンスにおいては、環境や外部から何らかの価値や意味を提供している。ここに「すわりにくそうな椅子」があるのであって、それを見て「すわりにくそうだな」と思うのではない。ここに「座りにくそうな椅子」があるのである。「座りにくい」という価値をアフォードしているのである。それと同じようなことを王陽明も語っている。「好き色(具体的には美人のこと)を好む」というのは、色があってそれを「好い」と認識し、その後にそれを「好む」
のではない。「好き色」といった瞬間にすでにそれを好んでいるのである。「好き色」という認識と「好む」という行為の間に一瞬の隙間もない。』(P171)うーん、とりあえずアフォーダンスは素晴らしい美術品をパッと見て素晴らしいと思えるか、それとも外部からの説明などを聞いて素晴らしいものなんだと思うかの違いってことでいいのかな。ただし王陽明と『アフォーダンスとの違いは、王陽明の場合は、環境や外部が主観に価値や意味をアフォードしているわけではない、ということである。主観と外部は完全に同時に連動しているのである。私の心は外部に出ており、外部がそのまま私の心なのである。』(P171-2)上に引用したガラスの例でいうと、私欲によってガラスが曇っているが、そのガラスの曇りを拭い取れば、儒教の徳目とかの価値観と自身の感情・行動が自然と完全に一致し(それが宇宙の理であるから)、自身の心が赴くままにやれば儒教的にも完璧な状態になるみたいなのが知行合一って状態ということでいいのかな。よくわかんねえや。
 6章では、大塩平八郎が編纂した『儒門空虚聚語』という書物を通して、朱子学陽明学の性格の違いを説明しているが。なぜその書物を選んだのかについて『ひとつには、この書物は、朱子学から陽明学への思想的変革の流れを見事に把握しきっているからである。』(P177-8)と書いてあるのは、まさかこんなところで大塩平八郎の名前が出るとは思わなかったが、彼がそんないい書物を編纂していたというのは面白い。
 「気」の思想は民衆のものと捉えられているが、そうではなく『気もまた、知的エリートによる現実支配の思想であった』(P227)ようだ。
 『気の思考にもっともよく似ているものが貨幣であるという点にも留意すべきであると思う。宇宙に偏在する気は、流動する生命エネルギー的物質である。何よりも流動するという点が重要である。そして、その流動の様態に応じて、万物に変化する(これを造化という)。この花とあの鳥は形も全く異なる生物であるが、それは気の性質と凝結の様態が異なるからであって、元はひとつの気である。/これと同じことは貨幣においても言える(中略)貨幣は社会を休みなく流動しながらこの机になったりあの車になったりする。』(P229)