ふぉん・しいほるとの娘 下

ふぉん・しいほるとの娘〈下〉 (新潮文庫)

ふぉん・しいほるとの娘〈下〉 (新潮文庫)

内容紹介

日本に残されたお稲は偉大な父・シーボルトを慕って同じ医学の道を志す。女の身で医者になることなど想像すらできなかった時代に、父の門下生を各地に訪ね産科医としての実力を身につけていくが、教えをうけていた石井宗謙におかされ、女児を身ごもってしまう……。激動の時代を背景に、数奇な運命のもとに生まれた女の起伏に富んだ生涯を雄渾の筆に描く吉川英治文学賞受賞の大作。


 上巻を読み終えてから割合早く下巻も読み終えることが出来てよかった。久しぶりにこんな長い小説を読んだわ。しかしイネが石井宗謙の下に修行に行ってからは、その関係が最後にはどういうことになるかについて知っているので気分が重くなり、読み進めるスピードがどうしても遅々としたものになってしまった。
 二宮敬作、鳴滝塾で勉強していた時代に金がなくて人に雇われ小銭を稼ぎながら、安い芋ばかり食っていたが、それをみかねたシーボルトが書き物の整理や植物の採取などをさせて給金をだしてもらい、それで学業を続けた。そういう事情があったならば彼が格別に師シーボルトに強い敬慕の念を抱いているのもよくわかる。
 イネの学問への情熱はすごいと思っていたが、それは向ける先が定かではない漠然としたものだったようで、敬作に何の勉強がしたいと問われて返答に窮する。そこで敬作は女医者への道を指し示した。
 イネの異父弟がいたのかと上巻で驚いたが、7歳と幼くして亡くなったのね。だから「風雲児たち」では登場しなかったのか。
 宗謙は怜悧な美貌を持つ有望な蘭法医だったが、すっかり自らの不遇を嘆くおじんになってしまっているなあ。
 お滝が一度宗謙の下で修行しているイネに会うために岡山まで来たが、彼女が長崎に船で帰るときの見送りの直後に犯さすとは……、宗謙なんたる非道か。
 犯されて一度岡山に戻ってきた後、食事も口にせず一日中部屋で身じろぎもせず、口をつぐみ続けているとか、彼女の強い喪失感がわかるからやりきれない思いが湧いてくる。そして宗謙の妻のシゲがそうしたイネの行動から、事実を察してイネに平謝りをして、許しを乞うているのはあまりにもシゲがかわいそうだ。うん、シゲは自身に子が出来ないからといって宗謙が他の女に産ませた男児を頭を下げて引き取って養っているくらいで、本当にいい人だし哀れな人。だけど、そんな彼女の行いは宗謙が性的に奔放に振舞う一因となっているのじゃないかとも思ってしまう。責めを負うべきなのは宗謙一人だし、他の人を責めるのは八つ当たりだとはわかってはいるんだけど、そんな思いもチラリと頭を掠めてしまう。
 イネが産湯の準備は一人では出来ないから妊娠中に世話をしてくれていた石井家に仕える女中のお七にそれを頼むが、何か自分の中で一区切りをつけるため、それ以外は医者を呼ばせずに自分ひとりで生むという覚悟をして、実際に出産してからへその緒を切るところまでやったとは壮絶。強い意志を持ってしたその行為には、野生の気高さみたいなものを強く感じる。
 ペリーが来る少し前くらいの時代には『長崎のオランダ、中国との貿易もかなりすたれてきてい』(P272)たというのは何でだろう?何か理由があるのかな。そういう事情だから、頭の固い人が貿易の必要性を疑っても不思議でないかも。その分だけ抜け荷とかそういうものが増えたというような、ありそうもないことが実際にありはしない限り。
 商用の場合は飛脚で7、8日で、国事に関する場合は15日というのは、その書面を持っていくのにも格式があるという理由なんだろうが、国事のほうが遅いというのはちょっと吃驚してしまうな。江戸時代は外からの刺激が少ないというのもあるのか、国事が格式のためのものでしかなく、喫緊の事態を想定していないちょっとズレたものになってしまっているのかな。
 ペリーの行動は何度読んでも腹立たしさを感じてしまうなあ。
 吉田松陰アメリカへの密航を企てた際に、艦に三泊もしていたとは知らなかった。それとペリーは「日本遠征記」で『二人の立場に同情し、その真剣な態度に打たれたと記されているが』(P320)、日本側の記録では下田奉行に通報して、送り返す海岸も指示して彼らの逮捕に協力したとは(笑)。まあ、ペリーらしいな(偏見)。
 イネ、子供を生んで長崎に戻ってからしばらく医業を離れる。しかし再び敬作の入る宇和島に戻って蘭学修行を再開し、ここで村田蔵六大村益次郎)に師事する。しかし村田との関係はあまり描かれておらず、あまり深い交流もなかったようなのは、二人がロマンティックな関係だったという設定の作品も見かけるので、ちょっと意外だった。
 シーボルトの日本への渡航禁止を解除するって、国法を破ってアレだけ大騒動になったのに、結局彼が受けた罰がほとんどなくなってしまったなあ。幕府がそれを認めることが一番国法をないがしろにしているんじゃないかという気がしないでもないな。28年ぶりの再来日のため、門下生が多く死亡し、門下生では敬作が一人で迎えなければならないのはシーボルトの名の高さから考えると非常に物悲しい、淋しいものに思ってしまう。
 コレラ、江戸市中だけで7月27日から9月23日までの57日間で28万人が死亡したというのは、仮に江戸に150万人くらい居たとしても2割弱も死亡しているというのは凄まじい。こんなに死亡していたのだから江戸の人口が100万人を超えているなという確信を抱くことが出来たよ。まあ、こんなことで確信を得たくはなかったけど。しかし、コレラの流行は開国した結果起こったものだから、外国人への憎悪が増すのもわかるわ。
 二宮敬作とシーボルトの再開のシーン、良い師弟関係というのは素晴らしいものだなと改めて思った。シーボルト日本から出立する日に敬作が亡くなるとはなんという縁の深さなのだろう、この師弟は。
 シーボルトにイネの娘の出生について教えていないから、彼が宗謙について教わったのなら私に教わったのと同じだといったのは、真実を知らずにかつての弟子を褒めるシーボルトも物心ついてから始めてあう父に心配かけまいとその言葉に胸に痛みを覚えながらそのことについて語らないイネ、父娘双方が哀れになってくる。
 後にイネの娘婿になる敬作の甥の三瀬周三、語学に堪能でオランダ語が上手で英語も出来るとシーボルトの感嘆されているのはなんだか嬉しくなってくる。
 しかしシーボルト、日本に来て早々女中を妾にして(しかも2人も)イネに失望されるとは、そしてその女中が一女を生んでいる。そんなこともありイネの父への敬慕の念は薄れていく。
 シーボルトが一時幕府に外交問題について助言をする外交顧問の役目で月に100両、その他に年二百両の手当てで雇われていたとは知らなかった。そしてその雇われているときの助言も的確なようだし、調整工作も巧みにこなしていた。その働きは外国の公使たちに不快の念を覚えさせるほどだったようだから、シーボルトは国に仕えるという意識は希薄だが、雇い主のために自分の役割を果たすことに全力を尽くすという人柄なのかなと思えるようになったから、彼が若い頃に日本に来たときに国法を犯していたことで若干抱いていたわだかまりが解けていく。まあ、その働きに反感を抱いた外国の公使たちが連合して、外交上好ましくない結果を招く恐れがあると、幕府に働きかけた(脅した)結果解雇されてしまったが。
 シーボルトが出国後は敬作が死に、シーボルトの通訳をしていた娘の婚約者である三瀬周三が獄中に入れられるなどイネの周りに悲報が続いた。
 イネは周三の放免について宇和島伊達宗城に動いてもらうために宇和島藩に出仕する。
 結果として時局や伊達宗城の働きかけなどもあって、三瀬周三が解放されたのはホッとしたが、そのあまりの外貌の変わりようは痛ましい。
 イネは宗城候に名前を賜り、失本イネから楠本伊篤に。しかしイネは頻繁に宇和島と長崎を行き来しているなあ。
 横浜での外国人との貿易で肯定は長崎弁の「ヨカ」、否定はマレー語の「ペケ」が使われた。今まで×をペケってなんでいうのだろうなとは少し思っていたけど、ペケとはマレー語で、この時代の貿易のときに使われた言葉だったとは知らなかった。
 石井宗謙の息子の信義、福沢諭吉からも人柄を愛され、伊篤(イネ)とも死ぬまでそれなりに交流があった。
 しかし登場してくる人たちは蘭学者が多いということもあり、かなり新政府が発足して以降身辺がめまぐるしく変わったな。
 三瀬周三の逝去後に娘のタカに手職をつけさせようと医者にするためにタカの異母兄である石井信義の元に預けようとして、タカは東京へ行く船の中で彼女と同行していた彼女に前から懸想していた信義の知人の医師片桐に母と同じく船中で犯されて身籠るとはなんと数奇な運命の親子なんだろう、その事実には言葉を失ってしまう。あまりに痛ましい。しかしそのことについて信義が憤激して、片桐にタカに近づかないように証文を書かせたりしているというのは少しだけ、本当に少しだけだが救われるし、彼の人間性の良さをありがたく思う。そしてそうして生まれてきたタカの子供に亡父の名前である周三と名づけたと言うのは、どう反応していいのかわからなくなってしまう。
 しかし一度東京から長崎に帰っていこう医業に携わらなかったため、後に一度東京で再度医者になった時にはもう自分の技術が時代遅れになったことを感じたというのは、父親であるシーボルトとなんとなくオーバーラップするな。
 晩年は身内がどんどん死んでいき、子供や孫は居るがそのほかでは、最後まで残ったのはシーボルトの息子のアレキサンデルとその弟というのもまた不思議な話だな。しかしアレキサンデルは50台半ばまで日本で仕事をしていたということにも驚いた。