平安の都

平安の都 (朝日選書)

平安の都 (朝日選書)

内容(「MARC」データベースより)

平安京平安時代の文化について、読み物風にわかりやすくまとめる。都市としての様子、寺社や祭り、またそこに暮らしている人々の生活など、事件やエピソードをまじえながら綴る。


 ちょっと前にアマゾンでバーゲンブックになっていたので(今もまだ在庫あるみたいいだが)、この本の編者である角田文衛の「平安の春」が結構面白かった印象があるので購入。しかしバーゲンブックって、別に古本ってわけでもないのに、何で定価以下の価格で販売できているのかがいまだに仕組みがよくわかっていない。
 平安時代平安京のさまざまな人、場所、くらしなど色々な事物について多くの筆者の手により、一つの項について基本的に見開き2ページという短さで簡潔に説明されている。文章の短さもあって小難しさも全くなく、また短い区切りで説明する事柄が変わるため、さくさくと読みすすめることができる。
 京都、はじめは「みやこ」と呼び、首都をあらわす一般名称だったが、11世紀末の院政期から京都が平安京を指す固有名詞となった。
 内裏の近衛、武芸よりも音楽や舞踏に力を入れ軍楽隊化ししていった。また、内裏には強盗が入ったり(天皇の寝所から24メートルしか離れていない場所に強盗が入っても、誰も駆けつける侍臣がいなかった)、物乞いが入ってきたりと相当無防備な状況だった。
 当時の天皇は、暗殺・クーデターでその地位を奪うことのできない、「僧王」的存在だった。
 平安京の大学について「大学寮」「大学別曹」と2つの項目を設けて説明しているのは、平安時代の大学についてちょっと興味があったので、ちょっと嬉しかった。
 鳥羽殿、東西1キロ、南北800メートル以上という大規模なもので、邸宅というよりひとつの都市ともいえるようなものだった。また鳥羽は平安京の南の玄関口でもあって、鳥羽院の門前は終日賑わっていた。
 平泉、京都をモデルとしていたことは知られているが、それは『京都ニュータウンともいうべき鳥羽をモデルにしていた』(P120)ものだった。
 平安時代は供養は自宅や寺院で盛大にしても、埋骨にそれほど関心を払わず、簡素な埋葬をしていたので、時の権力者――藤原道長平清盛――であってもその埋骨地がいまだに判然としていない。
 小一条院東宮(皇太子)だったが、道長にその後の保証(院号、勅旨田、年官年爵)と交換で東宮の地位から身を退いた。そのごとくに文化的な面で名を残すとかもせず、悠々自適と暮らしていたというのだから、道長に「竜顔なし」と評されたのも故なきことでもないのだろうが分を知って、上手く譲位しながら、その後自由に暮らしていたとは羨ましいし、たぶん本人にとって最高の人生だったんじゃないかと思うわ。歴史上の人物を羨ましいと思うことはあまりないのだが、この人の人生は普通に羨ましいわ(笑)。
 源義経が平泉に行っていたのは出家を嫌がる義経に困った義父である藤原長成が、彼(長成)の従兄藤原基成が当時平泉政権の顧問役だったから、その縁で預かってもらってもらっていたというような理由だったのか。