雪 上

雪〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

雪〔新訳版〕 (上) (ハヤカワepi文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

十二年ぶりに故郷トルコに戻った詩人Kaは、少女の連続自殺について記事を書くために地方都市カルスへ旅することになる。憧れの美女イペキ、近く実施される市長選挙に立候補しているその元夫、カリスマ的な魅力を持つイスラム主義者“群青”、彼を崇拝する若い学生たち…雪降る街で出会うさまざまな人たちは、取材を進めるKaの心に波紋を広げていく。ノーベル文学賞受賞作家が、現代トルコにおける政治と信仰を描く傑作。

 オルハン・パムクは、以前「わたしの名は紅」(単行本版では「わたしの名は赤」)を読んで、それがとても面白く印象に残っていたので、この「雪」が文庫化したので購入。だけど、最近文学は読めなくなってきたということもあり、一年半以上積んでいたがようやく上巻読了。
 舞台は90年代後半。イスラム原理主義と西洋的なものやイスラム世俗主義世俗主義と信仰などについて描く、東部でアルメニアに近い田舎の都市カルスを舞台に、雪で遮断された一時的に小さな小世界となったその町で起こされた反イスラーム原理主義の軍事クーデター、そしてドイツへ移住していたが久しぶりにトルコに帰り、イスラームの少女がスカーフを被って授業へ出ることを拒否されたことで自殺したという事件を取材しにたまたまこの街にやってきた純真な詩人Ka氏は期せずしてその渦中に置かれ、軍事統制下の町や人々を見ることになる。
 wiki見てみたら、この小説はどうやら政治小説なようで、だから政治的・社会的な話が多いのだが、もっと身近にイスラーム原理主義世俗主義かが関わる話があったり、イスラーム社会に対しての知識・知的な関心があれば違うのだろうけど、移民でイスラームについての問題が起こっているような国家でも、イスラーム国家でもないからいまいち縁遠く感じてしまうなあ。つまらないということではないけれど。
 都市の知的青年(詩人)がちょっと現実離れしたような幻想(ファンタジー)的ともいえる出来事を体験し、大事が起こってもクールに描写されるというのは、ちょっと規模が大きいし血なまぐさいけど、現代文学的(村上春樹とかオースターとか)で、翻訳文のせいもあるのかもしれんが、文体もそんな雰囲気をなんとなく感じるな。まあ、似ていると感じてしまったのは、あまり文学を読まない(比較する母数が少ない)せいで、無理くりそうしたものに似ていると、こじつけているだけかもしれない。しかし、こういう心理的効果ってなんか呼び名があった気がするがどうも思い出せないな。
 ただ、クールに見えるのは主人公の性格というよりも、後に友人が書いたという形式からだから、最初にはそう思ったけど、それらとはちょっと違うかもね。まあ、そのおかげで一歩引いてというか、無闇に熱くならずに、穏やかな心持ちで読み進めることができるのはいいね。そのあたりも、たぶん政治小説で両方の思想を出すのに、どちらかに肩入れしたり嫌悪感を覚えさせるのは本意ではないから、そうやるのは現実的・現代的で重い問題を扱いつつも、平静に読んでもらうための工夫なんだろうな。
 Ka氏が詩の朗読をきっとするだろうという予言的な小地方紙のオーナーの発言のような起こる出来事が、そう運命付けられているかのような描写があったり、また後にKaの友人がこの本を書いたという設定もあって、何時間後に誰々は何々ということになる(例えば「ネジプは二時間三分後に銃弾によって粉々に打ち砕かれるであろうその美しい瞳を」みたいな)という文章があることもあるからそういう宿命感がより強まることや、Kaはそれまで長年詩をかけなかったのに、この地に着てから何か出来事があるたびに詩の天恵を受けて、素晴らしい詩を次々に書くという出来事があることで、物語っぽさ、幻想的な雰囲気が強まっている。
 個人的には「わたしの名は紅」は物語的にも非常に面白かったし、近世オスマン帝国の首都イスタンブルが描かれていてその描写も魅力的だったから、あちらのほうが好きだな。
 5章の自殺者を学校から追いやった校長に銃を撃った男の話は、宗教がらみじゃなければそれなりに納得というか共感できてしまうから、個人的には彼に否定的な印象をもてないな。
 西欧化したトルコ人イスラム主義政党に抱く、今までの生活が終わるかもしれないという不安を抱くという感覚が書かれているのは、なんだか安心した。やっぱりイスラム世界は一枚岩と見るのは阿呆だとわかっていても、詳しくないから他のイメージがないので、こうしてそうじゃないとわかるとちょっと安心。ただ、トルコのようなイスラム世界の中では一番と言って良いほど開かれている国でも、そうしたイスラム主義の誘惑があるのかという思いもある。
 Ka氏含め、かつて左翼運動に熱心だった面々は情熱を失ったり、イスラム主義に転向したり、西洋に傾倒することが良いことなのか
 Ka氏が色々天恵を受けて詩を作るというシーンは、こうした何か素晴らしい芸術作品が生まれる場面だったり、演じられる場面を文章で見るのはなんだか読んでいて楽しい。これにも何か意味があるんだろうけど、そんなことを考えずとも。まあ、実際に詩や美術品、ダンスだったりのよさは、私はそれを眼前にしてもわからないだろうというむなしさというか悲しさもほんのちょっとだけ感じるけど。
 そしてそれを恋人のイペキに聞かせて、どこが良かったと何回も尋ねるのは、Ka氏の久しぶりに詩が――それも良いものが――できた喜びが感じられてなんだかほほえましい。
 しかし後半になるまで、まさかクーデターが起こされるとは思っていなかったので、唐突に劇場で銃撃が行われたのには驚いて、少し困惑し、何かが終わったというか急激に別の物語へとチェンジした印象を受けた。だから、しばらく現実に銃弾を撃たれているのに、それが劇の演出だと思っている人々にはなんとなく共感を覚えられる(笑)。
 しかしそうした描写は、劇場でのクーデターが起きた時の一般人の困惑が感じられるので、なんかいいなと思う。あと、クーデターの直後の混乱が書かれている文章は、急激に何かが変わっている感じが現れていてちょっと面白い。
 かつての有名役者で現在も焼く社業をしているスナイ・ザイムがクーデターの首謀者となったが、どうにもその後どうするかがさっぱりなのに、彼の口車にのってしまった軍関係者の軽率さはなんなんだろうな。それに彼自身病気で先行き短いことが分かって、そうした行動に出るのは、そうしたところは、どうも好感持てない。まあ、あるいは本人的にも最後に一花的な冗談が、期せずして現実になってしまっているのかもしれないが。まあ、そうだとしても彼はそうしたことが現実になったことで困惑するというよりも喜んでいるみたいだけどね。
 イペキの妹カディーフェ、イスラム主義に傾倒する青年に推戴されるような立場の<群青>の恋人なのか、それはちょっと思わぬ関係だな。
 しかしスナイ・ザイムが<群青>を『なぜ誰もかれもあんな人殺しを崇め奉るんだ?』(P379)なんていっているのには、クーデターの主導者だから思わず皮肉な笑みが顔に浮かびそうになる。
 上巻は、カディーエフにつれられて、再び<群青>に会いに行かされるところで終わる。