保元・平治の乱 平清盛 勝利への道

内容(「BOOK」データベースより)

貴族社会が崩壊を迎える平安末期、京を舞台に勃発した保元・平治の乱。武士中心に語られてきた通説は、錯綜する兵乱の真実を本当に捉えているのか。河内源氏伊勢平氏を巻き込み、王家と摂関家が骨肉の争いを繰り広げた保元の乱。政治の実権を握った信西を、院近臣藤原信頼らが源義朝の武力で倒すも、平清盛に敗北、河内源氏の壊滅と清盛の勝利を招いた平治の乱―。野心に燃える貴族と武士たちが鎬を削った、闘いの真実に迫る。

 

 読めたことが嬉しくなるとても良い本。非常にリアリティのある様々な人物の政治的動向、歴史叙述で、保元・平治の乱で確認がどういう意図でどういう行動を取っていたのかが細やかに書かれていて、素晴らしい。説得力を持って多くの人物の動きが書かれているので、リアルな(情念で動くわけではない)政治劇としても面白い。まあ、劇というほど物語物語としているわけではなく、むしろしっかりとした物語のプロット、筋書きみたいな感じで、読んでいて色々想像することができるから楽しい。
 保元・平治の乱のことを知るためにこの本を読んだのだが、保元・平治の乱を知るにはまずこの本を読めと他の本を読んでもいないのに自信を持って言えるくらい素晴らしいものだった。250ページ程度の本だが、内容が非常に濃いのでなかなか読むのに疲れたけど、心地よい疲労感、良いものを読んだという幸福感を味わわせてくれる。
 それからほとんど引用がされていないので、そうした意味では読みやすいのはすごく良かった。
 源平対等史観や、河内源氏と東国武士には歴史的な強い結束があるというような虚構をはいだ、保元・平治の乱でのどういう政治的動きがあってそういう事態に至ったのかという流れだったり、誰と誰がどういう理由で結託(対立)したかだったり、当時の権門や武士がどういう関係を保っていたのかについて、煩雑にならずにこうした短いページ数で把握できるのが嬉しい。簡略化した教科書的な説明でなく、多くの歴史的人物が出てくるのでそうした意味では、ちょっと読んでいて疲れることもあるけど、説得力のあるリアティのある(蓋然性の高い)推測で当時の政治的な動きが描かれるので、読んでいて抜群に面白く感じる。
 まあ、上で――そして読んでいる最中にこの本の魅力をどう言い表そうかと色々考えて――言葉で色々無駄に言葉を連ねたが、「あとがき」の『二つの兵乱の背景、それにかかわった人物を、ここまで緻密かつ実証的に描いた書物はないと自負している。』(P251)という文章でいいたかったことがまとめられている。そうして「緻密かつ実証的」に書いてくれたおかげで、非常に内容が濃く、リアルで面白いものを読めたことに感謝。
 「はじめに」を読んで、以前は保元の乱で身内に処刑をさせたことには、授業などで説明されたとおりに残酷に思っていたが、今は恩情とは思わないまでも、他人の手によって処されることは同じ勝者の人間との間に溝が生まれかねないし、それに身分の低い人間にやらせてもその一族のプライドが傷つけられトップの人間が恨みをかいかねないから、同じ一族が敵味方に分かれた場合には身内に処させるというのは妥当な選択だったのかなと思うようになった。でも実際には、保元の乱後の義朝が身内の処刑をしたことは、どうにもならないことでも「道義的責任を問われることも免れなかった」ものだったのか。しかし同時にそうすることで、義朝にとってもそうすることで嫡流を確定するというメリットもあったようだが。
 奈良時代以前の政変が武力で決着が付いていたが、平安時代に安定してくると臣下の配流で決着が付いていたものが、保元・平治の乱と武力抗争で決着をつけた。そのため武力抗争は武士の力がどうのということというよりも、大きな政治構造の変化によるもの。
 しかし本文中で、河内祥輔「保元・平治の乱」という本をあまりに天皇家を中心としているという風にさんざっぱら言及・批判されていて、この本があまりにも説得的で、現実的な人物の動きを叙述した、素晴らしい本なので、河内さんがその本を書いてくれたことでこの本を書く原動力となったということはその本を書いてくれたことに感謝したい。しかしそうした批判を聞くと、河内祥輔「頼朝がひらいた中世」を積んでいるので、なんだか微妙な気分になるな(苦笑)。
 鳥羽院が崇徳を忌避した背景には、鳥羽・崇徳の二代の外戚として台頭してきた閑院流には政治に介入する動きがあり、かつて外戚の立場を利用して摂関を望んだこともあるので、彼らの台頭を危惧する意識もあった。
 そして院の経済基盤であり、院に忠実院近臣である受領層は、そうした受領層の家である末茂流の出で、近衛天皇の母である美福門院や近衛天皇を重視していた。
 そのため外戚として力をつけた閑院流の出である鳥羽院中宮・待賢門院(璋子)、その子崇徳(ちなみに後白河も)と、院の経済基盤であり忠実な院近臣・受領層の出である鳥羽院の皇后・美福門院(得子)、その子近衛を双方が戴きながら両者対立していた。
 実は摂関家も分裂忠通・頼長兄弟の対立も、こうした王家の分裂に無関係でなく、頼長の室が閑院流の実能の娘(待賢門院の姪)で、頼長は閑院流よりの姿勢だったので、美福門院が反発。頼長が養女としていた室の姪を近衛天皇に入内させようとした時に、美福門院は忠通の室の姪を忠通の養女として近衛の中宮に立てた。この入内競争がきっかけで、父忠実が兄忠通を義絶した。
 これによって、忠実・頼長の摂関主流と閑院流、 待賢門院の一派と、美福門院や院近臣と結ぶ忠通、村上源氏の雅定や中御門流の一派に政界は二分された。しかしこのような亀裂が生じていても、その上に鳥羽院がいたので彼が存命の間は、かろうじて両者は均衡を保っており、激発が抑止されていた。
 摂関家は、もともと忠通には息子がなかなか生まれなかったので、23歳年下の弟頼長に摂関の座を明け渡すことになっていたのだが、忠通が40歳の時に実施となる息子が生まれたことで当初の父や弟との約束を破り、摂関の座を弟に譲渡することを拒否することになる。そのことで対立が生まれ、上述の入内競争によって兄忠通は義絶されて、父忠実と弟より長門の関係決定的な破局を迎えることになる。
 頼長は摂関家の権門を統制することばかりに注意を払って、他の権門との軋轢に頓着しないこともあり、度々相乗を起こして彼自身の立場を悪化させた。また、学識はあったのだが旧例を持ち出して厳罰を処していたこともあって「悪左府」という悪名を冠され、院近臣と兄忠通の結合を招いた。
 源氏、源為義の先代である父義親が濫行で伊勢平氏(平家)に討伐されてから、武家の第一人者の座は彼らに渡った。また、源為義本人の粗暴な行動と家人の無法などもあり、白川院の信任を失い、鳥羽院時代となってもそうした状況は続いた。そのため同い年の平忠盛が昇殿したとき、彼は叙爵(従五位下)にすらなっていなかった。
 そうした状況で為義は摂関家の大殿忠実に救援の手を差し伸べられ、次代の頼長には臣下の礼をとることになる。そうして源為義は大殿忠実に奉仕することで、1142年にようやく叙爵が叶って従五位下の地位を得る。
 また摂関家に仕える際に、忠実を蟄居に追い込んだ白川院近臣の娘を母とする義朝は廃嫡されて坂東に下り、義賢が嫡男となった。
 しかしその廃嫡された義朝も摂関家と深く関係を持っており、彼が坂東に下向した後に関係を結んだ東国武士たちは、古くからの源氏との臣従関係だから関係を結んだというよりも、彼らが摂関家荘官で、義朝に忠実が支援があったこたことが大きい。つまり河内源氏と東国武士の関係は、いわゆる源氏の「譜代」の郎従といわれている家でも、摂関家の家産機構に依存して主従関係が継続したものだった。
 そのため義朝が東国で調停行為をできたのも、彼が河内源氏の人間だからというわけではなく、摂関家の大殿忠実の支援があったからこそである。
 こうした義朝の坂東での活動の成功は確かに息子の源頼朝の基盤を築いたが、彼が成功したのは摂関家領の拡大と安定、そして鳥羽院関係者の知行国支配強化という目的で忠実や院の支援があったということが大きかった。
 そして鎮西八郎、源為朝の九州での活動も東国の義朝と同じく、摂関家の家産機構の支援があった。
 義朝はこのように中央の権利に依存して武士団を束ねていたが、しかし中央情勢の変化で彼の政治的立場も変わることになった。
 鳥羽院の皇后・美福門院の乳母父藤原親弘が相模守となっていたので、摂関家領の人間でもあるがおそらく在庁官人でもあった三浦氏を通して、義朝は親弘と提携して、院近臣の有力者の藤原家成や美福門院に対する荘園寄進の機会を獲得して、さらに鳥羽院に寄進する機会を得た。このように彼が独自の行動を取ったことで、叙爵されると同時に下野守に抜擢されて受領となり、父為義の立場を超えることになった。
 義朝がそうした動きをした背景には、彼が統率していた武士団は摂関家領の荘官であったが、それと同時に在庁官人でもあったので、摂関家の内紛や政治的影響力の交代で、在庁官人としての立場を強めて院近臣系の受領に接近していたということあった。そうした背景も義朝の政治的立場を左右した。
 そして義朝の長男「悪源太」義平が、(為義の嫡男の)叔父義賢を襲撃し殺したことで、父・為義との関係が深刻になった。
 そしてこの時の武蔵野守は後に平治の乱の首謀者となる藤原信頼であり、武蔵における活動に信頼との連携が不可欠だったため、義朝と信頼の密接な関係はこの頃よりはじまった。
 近衛天皇が重病にかかりその病状が深刻化したことで、彼に皇子が生まれないまま死亡すると崇徳の長子である重仁親王が即位することになるおそれが出てきたので、崇徳院政となることを阻むため、美福門院・忠通は守人親王を擁立する動きを見せた。その結果、守人の父である後白河が中継ぎとして天皇となる。そして後白河の践祚と同時に、摂関家主流である忠実・頼長が失脚することになった。そして摂関家に対する抑圧が強まると、摂関家に属する源為義一族への抑圧も強まっていくことになる。
 その後鳥羽院の病状悪化したことで、崇徳や頼長の復権を恐れた、美福門院・忠通・院近臣は政変に備えて、武士を動員する。
 当時は摂関時代は母后の権限強かったが、院政期では人事権などの権限は父院に一元化して、母后の縁者が高位高官を占めて権力を握ることもなくなった。そのため、かつては有力な外戚と対立して皇統を負われたら再度政治の中心に復活することはなかったが、院政期には優良な皇子さえいれば院政ができたため、崇徳院が摂関時代ならばできたであろう風雅な隠遁生活を送ることが許されなかった。
 院政は摂関時代と違い、権力が父院に一元化したことで父院の死亡によって、著しい権力の不安定が起こる可能性があり、今回の鳥羽の死亡で実際その恐れが現実的なものとなった。
 そして平家、平清盛は彼の継母(先代の正室)宗子が崇徳の乳母であったため、どちらの陣営に付くのか予測できなかったため、後白河陣営からもその帰趨に注意が払われていた。清盛も渦中で強い権威を持つ宗子との分裂をさけるため自重していたが、彼の次男基盛が、後白河院の命で動員されたため、後白河陣への参陣をすることになった。そして平家一門が後白河陣営に付いたことで、実質的にこれで乱の趨勢が決した。
 鳥羽院の死亡後、美福門院・忠通・院近臣の後白河天皇の陣営は、信西の敏腕もあって頼長に対して挑発を繰り返し、それによって頼長は政治的生命を絶たれるか、それとも武力による形勢逆転を狙うかと言う選択に迫られることになる。そして、ご存知の通り彼は後者を選択することとなる。信西ら院近臣勢力は思惑通りに頼長を挙兵に追い込んだ。
 崇徳には特に圧力が加えられていなかったが、頼長の失脚・配流と同時に自分も失脚し・幽閉されることが目に見えていたため、鳥羽田中殿を脱出して、彼は頼長と行動を共にすることになる。しかし頼長の陣営は少勢で源為義一族が最大兵力であり、頼長・崇徳陣営に付いた武士はその為義などがいるが、その武士たちのほとんどは摂関家に政治的・経済的に従属してきた家人や摂関家領の荘官で主従関係により参陣した。しかし少勢といえど、摂関家の私兵たちで国家と対抗しうるということが、複合権門である摂関家の巨大さをあらわしていて、またその巨大さゆえに強く警戒されたが、このような結果にいたった。そして国家権力と摂関家権力が直接にぶつかりあうということになったが、そうなるといくら摂関家が巨大な権門であっても結果は自明なものだった。
 そして義朝は東国武士団の組織化に成功したが、彼はその武士団と共に後白河陣営に加わっていたため、親子が敵味方に分かれることとなった。
 頼長は興福寺悪僧や他の武士の到着を期待し、夜討を否定。援軍到着の公算が高いので誤った判断ではないし、頼長の高圧的態度も権門の主として主従関係にある者に対して行ったものだから当然のものだった。
 後白河にとって義朝は最も頼りになる武力であり、彼自身合戦に積極的だったため敵正面を受け持った。夜襲をかけたときにも戦の様子を逐一報告するなど、後白河軍の中核を占めていた。一方清盛は最大武力であったがもともと参戦に消極的だったため、第一陣には加えられたものの実際の戦闘では大きな戦果はあげていない。
 戦後、崇徳、実際には配流された後無念の思いを抱きながらも、平穏な余生を送っていた。怨霊的な崇徳像は、彼の側近が戦後出家し配流させられて、後に帰京を許されたあと、崇徳・頼長の悪霊を神霊として祭るべきことを唱えたことからそうしたイメージが形作られたと考えられているようだ。
 乱後、摂関家では頼長の荘園は没収され、父忠実も同罪で処分されるところだったが、氏長者である父忠実が所有する所領はそれをとられるときわめて摂関家の力が弱まるため、忠通が敵対していた父を弁護してまで阻止をした。しかしそれでも忠実・頼長の家人である武士たちは全て処刑され、また武士の預所の改易によって荘園の管理者である武士や悪僧が排除される処置が取られたため摂関家領を管理していた暴力装置が解体され、摂関家領の支配秩序が混乱することになった。また天皇の命令でそうした処置が行われたことで、摂関家の自立性は完全に否定され、権威が低下した。
 戦後の恩賞、平家はもともと政治的な地位が高く、そして崇徳陣営につく理由もあった彼らが後白河陣営に参陣したことで決定的に優位に立ったということもあり、実際の戦闘では華々しい戦果を上げたとはいえなくても、手厚い恩賞が与えられた。
 義朝は元々の地位が低かったが、河内源氏ではじめて内昇殿が許され、左馬頭という前任が院近臣の大物という格式高い官職を得て、この乱の結果として清盛に次ぐ存在として政界の中心に躍り出た。
 義朝のこの乱の恩賞が薄く、それが平治の乱の要因になったとするのは、源平がずっと前から対等であったとする鎌倉時代以後の源平対等史観の見方で事実とは異なる。
 予定通り、後白河は守仁に譲位し、二条天皇・父院後白河が誕生した。父院後白河には政務能力が十分にないので、院近臣信西が政務を主導するようになるが、権威にかけているため彼の執政に不満を持つものが少なくなかった。
 後白河が元々中継ぎの天皇だったことや王家所領が鳥羽院の死後分裂して院独自の経済基盤が弱くなっていたこともあり、院近臣は後白河・二条の両派に分裂することになる。
 二代権門であった王家・摂関家の解体によって、院近臣や清盛・義朝といった武士たちがその枠組みから解き放たれ、その勢力を増した。
 信西を倒すために兵を挙げ、平治の乱を起こした信頼、院近臣の名門の家柄で叔母が後白河の乳母だった。父忠隆は武人肌の人物で、その性質を信頼は受け継ぐ。また兄は早世したが、平忠盛の女婿となり、その子は平氏の基盤である播磨の受領となるなど平氏一門に準ずる立場だった。
 そしてもう一人の兄の基成は、長く陸奥守にあり、そして彼の任期終了後も陸奥は一族の知行国となっていた。また彼は任期終了後も平泉に留まり奥州藤原氏藤原秀衡を女婿に迎えて、その夫婦から奥州藤原氏の最後の党首である泰衡が生まれた。確か、この基成は義経の母の再婚相手の親戚だかなんかで、その縁で彼が義経を預かったんだっけ。
 信頼は武蔵・陸奥知行国主でもあり、武蔵が重要な拠点だった義朝とはそうしたところで関係を結んでおり、また良質の馬や武具を産する陸奥との交易は武門の地位を保持するためには不可欠だったため、信頼と提携していて密接な関係にあった。
 そうして源義朝と密接な関係を結び、清盛とも姻戚関係にあったことから影響力を持っていて、武門というべき地位にあった。そうした武門の側面があったため、保元の乱後に摂関家領を管理する武力を失っていた摂関家では、摂関家の忠通は嫡男と信頼の妹を結婚させた。
 そうした義朝や清盛との関係があった信頼は、後白河にとって彼らとの結節点としてなくてはならない存在であったため、急速に官位を昇進させていった。またその二つの大きな武門と密接な関係を持ち、摂関家を武力面から後見する立場にあった。そんな彼がいかにして信西打倒の首謀者となったのか。
 反信西派の顔ぶれ、二条側近、後白河側近問わず、白河院以来の伝統的院近臣家が多かった。新興院近臣家であり、信西との対立関係があった。また信西は後白河の政務決済の補佐役の地位に自身がつき、二条の政務決済の補佐役の地位に息子をつけたことで、その地位が信西の系統のものとなる可能性が高まり、他の息子にも弁官につけたため、それまでの伝統的な院近臣名家を超える権威を帯びることになった。
 信頼がそんな中で主導権を得ていたのは、義朝という自由に出操縦できる武力の存在があったからであり、彼が信西と対立したのも官職をめぐる紛議ではなく、摂関家の後見となったことで政務を主導しようとする野心が生まれたことが原因で、平治の乱は政務の主導権を奪取することを目指した乱だった。
 清盛は平治の乱でも元々崇徳よりだったという立場もあって、当初は中立であって、また反信西派の動きを察知していなかったため、平治の乱が起こされて信西襲撃がなされたときに彼は熊野参詣に出かけていた。
 信西は信頼の決起の動きを察知していたのか、後白河に信頼の野心について訴えでたが、そのときはまだ信頼を信用していた後白河にその訴えは信じられずに、信西が常にいた院御所に夜襲をかけて、その夜襲では信西は逃れたものの、逃げきることはできず、信頼たちクーデター側によって処刑され、そして息子たちの配流も決定されて、信西一族の短い栄華の日々も終わる。
 強引な軍事行動でも主導的な立場の人間が院や天皇の側近・重臣だから、正当化できるだろうと考えて決起したようだが。
 信西を排除した後、信頼は後白河院の近臣でもあったのだが、元々美福門院の近臣であり、摂関家の後見でもあったので、天皇親政になるように動く。後白河院の院御所に夜襲をかけて、その後も代わりの院御所に置かずして、内裏に後白河院の身を移したのも、彼が天皇親政を目指して院政を否定しようとしたから。
 清盛の妨害を懸念して教徒に容易に替えれない場所に言った後に決起したものの、清盛の名声から紀伊の武士たちが清盛の下に参集し、また清盛は京周辺に多くの郎党を持つため、そうした郎党を加えた清盛はその後入京を果たす。しかしこの時点ではまだどちらにもついておらず、主導権を確立すれば強力が期待できたため、信頼・義朝らは戦闘なしにその入京を許した。
 この清盛の入京を見て、信西と近しく、信頼・義朝の強引な権力奪取に不快感を抱いた内大臣・左大将の藤原公教は、二条側近の中心経宗・惟方に六波羅への天皇行幸を持ちかける。
 クーデター成功後、院・天皇の側近たちは信西打倒という点では一致していたが、信西打倒後には二条親政を支持しているが、政治の主導権をとっているのは信頼・義朝・師仲ら後白河側近となっていたので、それまで協力していた二条側近に不満が生まれ、両者に対立が生じていた。
 そのため首謀者の一部であった経宗・惟方が公教に応じることになった。信頼は武威で圧倒すれば周囲を従属させられると思い、権力奪取後の構想を欠いた、勝利の美酒により次の策を繰り出さなかったことで、こうした離反者を生んだ。
 また清盛も親戚関係にあったにも関わらず、彼を無視して強引な手段をとり危機に陥れた信頼に対する反発や、義朝の台頭への危機感もあり、またこの討伐によって、政治の中枢に加わるという野心も芽生えただろうということもあって、義朝らとの対決を決意する。
 信任の厚い信頼に裏切られたということもあって許しがたく、後白河院は脱出し、一旦仁和寺にむかうものの、その後天皇や清盛のいる六波羅に身を置くことになる。
 そうして二条や後白河、両玉が清盛陣営に移り、また彼らの優位を知って摂関家も彼らの陣営についた。
 そして信頼・義朝は降伏して諸兄かそれとも義朝の武力で逆転を狙うかのいずれかという保元の乱で見たような展開になり、当然武力で逆転を狙うもその希望も潰えるという結果に終わる。
 保元の乱の先例もあるため降伏しても処刑されるため、坂東へ逃げ、最後まで戦い続けるという選択肢は保元の武士とは違うところであり、そうした王権を相対化した東国武士の思考が後に鎌倉幕府を生む土台となる。
 後の鎌倉幕府の将軍源頼朝後白河院の姉の上西門院に近侍していて、その西門院と清盛の継母(先代の正室池禅尼が密接な関係にあり、逃げていた頼朝を捕まえたのが池禅尼の息子頼盛であることなどもあったため、助命された。
 乱後、清盛方に寝返って勝利者となった天皇の側近の経宗・惟方が後白河院に圧力を加えてきて、彼らの行状を後白河は清盛に訴えたことで、清盛は彼らを捕縛して後白河院の眼前で拷問に処すという荒っぽい手段を使ったという出来事をきっかけとして彼らは失脚した。
 こうした行為で失脚したのは、彼らが元々反信西派で乱の首謀者たちであって、結果的に清盛と共同して乱を鎮めたといっても、マッチ・ポンプのような行いをしたのに乱後主導権を彼らが握っていることに不満を持つ貴族たちが多かったこともあり、そうやって簡単に失脚した。
 そのように平治の乱が起こって以後、猫の目に政局が変わりながらも、彼らの失脚によって最終的な収束を向かえた。
 そして保元・平治の乱の結果として、意図せず平家は最終的な勝利者という立場になって政治的・武力的に大きな存在になった。
 そして信頼の失脚によって再び、摂関家領を管理するための武力の後ろ盾を欲した摂関家は、基実はかつては信頼の妹と結婚していたが、新たに正室に清盛の娘を迎えることになる。
 しかし平家も武力の組織形態は院政期の軍事貴族を巨大にしたもので、そういう点では東国武士を広範に組織しようとした義朝のほうが武力の組織形態としては斬新だった。また平家は王権と結合し、国家的な軍事・警察権を掌握していたので、院・天皇の命令を利用して地方武士を動員できたため、あまり積極的に独自の武力を拡大しようとはしなかった。
 あくまで保元・平治は貴族政権の内紛で武力・武士が用いられたもので、結果的に局外から招きいれられた清盛が勝利者となったが、正解における主導権を掌握したわけでも政権を樹立したわけでもなく、武士政権鎌倉幕府が誕生するにはそれから20年以上の年月を必要とした。
 二条天皇が逝去し、その子の六条天皇を要して摂政の任にあった基実も死亡したことで、清盛は義理の甥である憲仁親王(後の高倉天皇)を擁立するために、後白河と始めて提携する。
 しかし、同じ著者の「平清盛の闘い 幻の中世国家」も以前読んだことがあるけど、そちらはこの本で強く印象を受けたような抜群の面白さを感じられなかったのは不覚だな。それはたぶん、あちらのほうは、それなりに平清盛について知っていたからこの本ほど面白く感じられなかったのだろうな。でも、この本を読んで見事にその時代の細やかな政治の動きを描き出す著者と知って読めば、面白さを強く感じると思うので、いずれ読み返すだろう。