戦争の世界史 下


戦争の世界史(下) (中公文庫)

戦争の世界史(下) (中公文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

今から何百年かたったのち、われわれの子孫は、本書がおもな主題とした一千年紀を、人類史上の異常な激動期として認識するだろう―軍事技術の発展はやがて制御しきれない破壊力を生み、人類は怯えながら軍備を競う。下巻は戦争の産業化から二つの世界大戦と冷戦、現代の難局と未来を予測する結論まで。


 クリミア戦争で伝統的補給方法の欠点が明らかになったことと、英仏の発明家が民間の工学技術を軍事のあらゆる面に適用する機会を与えられたことで、戦争の産業化は1850年代以降、一層加速した。
 輸送の革新は当然鉄道と蒸気船によるもの。
 1873年の世界不況が転換点となり、経済における国家行政の積極関与の有効性が明らかになったことで経営者的干渉が行われるようになった。
 1880年代以前は民間の発明家が、軍事に関わる技術革新のイニシアティヴをとっていた。1840年初頭からの20年間は、イギリスの海上覇権を崩すため、フランス側で軍艦の技術革新が起こり、イギリスが英仏海峡を横切って侵攻される脅威を感じ、その革新に追随するという形をとった。
 各国の陸軍では1850年代半ばから、後装ライフル銃であるミニエー銃を取り入れることで、装備のパターンが変更した。この新技術が採用されたことによる、動揺期において、いち早く順応したプロイセンが陸上覇権を握ることになった。
 クリミア戦で新兵器を使った経験から、1855〜70年代の間に、銃器製造業へのアメリカ式の大量生産技術の適用がなされて、そうして大量生産できるようになったので、何十万の兵隊に支給する小火器を総入れ替えするための期間が短くなり、小火器の設計を変更(改良)することが容易になった。
 そうして新しい小火器の設計・製造は多くが国家の手で行われるようになった。
 一方で大砲の製造では、イギリスにおける製造企業間の熾烈な競争と、既存の国営工廠が鋼鉄の製造ができなかったという事情が重なってあって、民間企業が主とした製造者となった。そして、その大砲は世界各国に販売された。
 アメリ南北戦争で空前の規模の動員と鉄道による輸送が実現されたが、ヨーロッパでは、アメリカの出来事ということやアメリカはそうした軍事力をすぐに解体したたこともあり見過ごされていた。しかしプロイセンの徴募兵(市民兵)による多人数の動員(そして徴兵制はコスト的にも安い。逆に言うと大量動員をとるためには徴兵制をとるしかない)と、鉄道による計画的・効率的な輸送の成功により、欧州各国がそれらの重要性が認識するようになった。
 後装ライフル銃の採用によって弾込めする際に立ち上がる必要がなくなったため、遮蔽物をたてに取ったり、しゃがんだり腹ばいになったりして撃てるようになった。しかしそれは教練でパターン化した動作をさせる方法を逸脱していて、無駄弾を売ったり、そうやって伏せた者を再び立ち上がらせないのではないかという疑念が各国の軍関係者にあった。しかし、そうした恐れが強い短期の徴募兵主体のプロイセンが、その銃に相応しい戦術が取れるように教練も一新しなければならないといち早く悟り、新たな教練を指定人数の下士官・下級将校に教え、その彼らが元の連隊に戻って同輩に教えるということで克服し、その戦術を用いて、難題と思われたものを克服して、大きな成果をあげた。
 まずプロイセンでとられ、その後世界各国でとられた、大規模動員のために徴兵制をとるという形。かつてのローマなど昔とられていた形に、時代をめぐって再度戻ることとなった。
 そうした兵隊生活は、普段のルーティンから解放されて数週間ないし数ヶ月の兵役につくことは、むしろすばらしく気分を高揚させる体験であった。特に対オーストリアの戦争と普仏戦争に参加したほぼすべてのプロイセン人にとって、『少なくとも事後の追想のうちにおいては「鮮烈で喜ばしい」体験であった。』(P74)そのため、その直後の何世代かにおいて、ドイツでは特にそうだが、戦争という語の凶事としての意味合いが抜け落ちた。
 また、民間人としてのほとんどすべての個人的責任から解放され、ルーティンと命令に服従すればいいという生活は、自分で決断することに固有の不安から解放された。『逆説的にひびくかも知れないが、自由からの逃走はしばしば本当の解放感をもたらすのであって、とりわけ、ひじょうに急速に変化する諸条件のもとにせいかつしている、まだ本当の大人の役割を引き受けるまでに成熟していない年齢の若者たちにとってはそうであった。』(P76)
 1840〜80年、ヨーロッパの軍隊は徴兵制で大規模化。しかし短期の懲役兵を海外勤務に使うのは容易でなかった。
 そして19世紀においては軍事的優越の格差がさらに広がり、最新のヨーロッパ式装備で身を固めれば小舞台でもアフリカ・アジアの国家そのものと対決して打ち負かすことができるようになった。例えばアヘン戦争時、イギリスの軍事予算はその戦争前とほとんど変わらななかった。『要するに、戦場で戦っていても、駐屯時でじっとしている時に比べて、対して余計に金がかかりはしなかったのである。人件費はかわりないし、ごく小さな舞台が公選しているだけだから補給品のコストもそれほど増えなかった。武器弾薬の消費も大した影響は与えなかった。なぜなら火薬はそもそもそんなに長くは保存できないもので、化学的劣化のために、実践で使わなくても数年で排気しなくてはならなかったからである。』(P83)アヘン戦争時においても、何もしていないときとほとんどコストが変わらなかったという事実はちょっと驚きで目を見開かせられる。
 それらの事情と、1840年代以降ヨーロッパは戦略的レベルの通信と輸送をほとんど独占していたことも合って、帝国拡張のコストがそれ以前と比べて極端に低くなった。
 『1870年代に達成された、複数の大陸にまたがる人間の経済活動の統合は世界史のひとつの里程標であり、約九〇〇年前に起こった宋朝中国の商業的統合に匹敵する重要事件であった。』(P89)それが急速に増加する人口が生計を立てることを可能にした。
 1880年代より、再び英仏間で海軍力の強化競争。
 ヨーロッパの強国では造兵工廠を作ったが、1860年代に続く30年は、民間企業は武器の販売で様々な国に武器を輸出できたため、規模の経済があるからコストも安くつき、官よりも民間企業のほうが技術的にも優位にたっていた。そのため工廠の製造機械はほとんど常時遊休といった状態におかれていた。
 1890年代、ドイツやアメリカなどの諸外国も建艦熱に感染して、英国では海軍予算がエスカレーション。海軍予算削減すると、それに関係する国民や民間企業が失業・経営不振をもたらし、有権者となった大衆に不利益が及び、そうした諸外国が海軍力を増強しているという外的状況もあってそうしたエスカレーションが起った。当時英国では、そうした仕事についていた国民は非常に多かったたため、下手に予算を減らせなかった。
 1880年代以降、海軍本部はこのくらいの性能があったら買い上げると、望ましい性能を指定することが行われるようになった。そうしたことが行われるようになって『発明は意図的にするもの、させるものになった。』(P124)また、そうなることで新しい軍艦の性能から、戦術・戦略を組み立てるのでなく、戦術・戦略的な計画から新しい軍艦を造ることになった。また、期待できそうな新装備に対する開発コストの負担をするようになったことで、さらに新発明・技術革新が促進された。このコマンド・テクノロジー(お上の注文による技術開発)から生まれた最初の成果の一つが1881年の速射砲。そしてコマンド・テクノロジーは年月を経るごとに、その存在感を増すことになる。
 新アイディアを使った開発が行われるようになってコストの予測が不可能になったが、開発をやめると技術的主導権を他国に握られるということもあって、それもできず英国では財政的な負担が重くなっていった。
 財政面の不確実化は、民間企業にとっても同じで、『こうした企業にとって通常の経営状態とは、大繁盛か大不振のどちらかで中間がなかった。』(P142)そしてコストが予想不可能になってから競争、公開入札は現実的でなくなり、合併をして大企業になって、その潤沢な資金と技術を活用して企業内部でリスクを分散した。そうした企業は、『大きくなるにつれて多くの面で政府の官僚制と共通する性格を帯びてきた』(P145)。例えば、ある複雑な装備を製造する能力については独占的な、あるいは準独占的な地位にあるので、企業は海軍本部の購買対等間とほぼ対等な立場で交渉することができた。
 第一次大戦前の武器製造業、当時最も活発に産業技術開発が行われていた分野だったので、多くの革新的知性に恵まれた技術者を惹きつけた。
 1880年代以降、ヨーロッパの弱体な国、日本などで政治的決定(公共政策など)を経済的革新の最も重要土台にすえようとする動きは顕著だったが、イギリスやドイツでも同じ方向に動き出していた。
 第一次大戦以前の段階で技術をめぐる問題は既に制御不能となっていた。
 軍事・産業複合体は英国から産業化された各国にも拡散された。
 高い技術力を持ったフランス、それまで外国への武器売り渡し禁止されていたが、1885年にそれの禁令を排除した結果、信用に値するか疑わしい政府にまで武器を購入するための資金をフランスの銀行が貸し与えたということもあり、それまでドイツの会社がもっていた兵器と鉄道レールの市場を奪っていった。
 価格ではドイツの会社のほうが安かったものの、フランスの会社は自国の銀行にその政府が製品を買うのに必要な金額を出してもらっていた。かつてドイツの会社が他国の政府に製品を購入する際に、フランスの銀行にその資金を貸し与えてもらっていたこともあったのにそれができなくなった。国際シェアの低下で、クルップ社は代替的販路としてドイツ海軍の建造計画と言う形の解決策を見出した。そして、その建艦は1914年まで、交信のたびに規模をましていった。
 1906年以降、仏英の武器製造業者がロシアに大々的に新しい工場を建てさせた。そのことでドイツ陸海軍は、装備を一新したロシアのマンパワーと言う脅威を感じ、その武装の一新に英仏が協力していることは、『包囲網に陥ったという恐怖感にまざまざと現実性を帯びさせた。』(P169)
 ドイツ、海軍を大幅強化したが、その理由についてイギリス海軍のリスクとなることで、イギリスがドイツの利益を尊重せざるを得なくなり、現在のイギリス海軍によって海外市場・海外の原料生産地から遮断されているという状況に終止符が打たれると説明した。当時、英仏の和親、ロシアの日露での敗退で、英国の競争相手がドイツだけとなっていた。
 独英の海軍拡張、互いの競争コストをまかなうことが困難になっても、建艦競争をやめさせようとする企ては失敗に終わった。
 第一次大戦前夜、ヨーロッパ各国で社会紛争が勃発寸前であるかに見えたことも諸大国を戦争へと導いた要因。ある外国を憎んだり恐れることで潜在的不満分子が、より身近な同胞を憎み恐れる傾向をそがれる。『そのことは有産市民にとってだけではなく、実は社会主義者や労働者階級にとってもひじょうな安心感をもたらしたのだった。』(P182)
 こうした見解を支持する一材料として、都市化の割合の小さい東欧では、西欧よりも熱狂度合いが少なかったことがあげられる。
 死亡率が劇的に下がったのに出生率は下がらず、むしろ上がったというような人口過剰、中東欧やアジアで、農村に生まれたが、従来の先祖のように暮らしが立てられなくなっていった人が増えた。そのため『伝統的な農村部の生活様式は耐え難い緊張にさらされた。家庭内での義務や、村の習慣による道徳的責務が、まったく果たしえなくなってしまったからである。こうなると残った問題は、さまざまな革命思想がある中で、どれに、挫折感を抱いた若年層がひきつけられるかだけであった。』(P188)
 『産業の拡大が人口増大に追いついていなかったハプスブルク帝国と、旧オスマン帝国内の諸地域こそは、政治問題が最も激しい痛みを引き起こした諸地域でもあった』(P194)そうした中で、挫折感を抱いた若者が、革命的政治理想を伝達するために恰好の戦略的位置にいたので、バルカン諸地域はヨーロッパの火薬庫となった。
 この種の人口過剰の問題は、イギリスでは海外への移民、フランスでは意図的な出生率調整で19世紀半ばまでにほぼ解決していた。東ヨーロッパでは第二次大戦後に出生率の制限をはじめたことにより解決された。そのことで、外国人移民の流入がなくては人口維持が不可能になった国が現れるようにもなった。
 そのように戦後になってヨーロッパ全土にわたって、経済の将来見通しと出生率が連動するようになったことで、両世界大戦を促進した人口パターンは支配的でなくなる(ちなみに日本も中東欧と同時期に出生率が下がって人口危機から脱した)。その唯一の例外はアルバニアで、その人口圧力によってユーゴスラビアではコソボ自治州アルバニア系住民の暴動が起きた。
 そうした人口過剰現象は、中国やインドにもヨーロッパに数十年遅れて見られ、そのことがガンディーや毛沢東が農村からも支持を受けるようになった要因でもあった。
 フランス、第一次大戦当時大規模工業が発足してまもなく、また開戦当初に工業地帯が奪われて、女性や少年、工場に労働任務でつかされた兵士、捕虜、傷痍軍人過半数を超えていたということもあり、既存の慣習にとらわれない形で物の製造工程の急激な変革ができた。
 第一次大戦によって、アメリカでは既に導入されていた平気以外についての大量生産方式が、交戦諸国に導入されるという変化がもたらされた。意図的・計画的な発明が海軍だけでなく、陸軍の装備についても守備範囲を広げた。
 その他にも労働力の効率的配置について戦争遂行に当たり重大な要素となり、国民が不平を抱いては最大限の算出が期待できないから労働者の福祉、食料なども重要視されるようになる。
 戦争遂行努力、ドイツは食料・農業部分で英仏よりも弱さを見せたが、それはドイツの自給自足性が高く、調べが容易なチェックポイントが存在しなかったということも大きい。戦時中農業生産のことに優先しなかったため、農業生産量落ちた。一方で、イギリスは食料に高い優先順位をつけていたため、食料生産力が増した。
 アフリカ、インド、ラテンアメリカでは第二次大戦時に戦争のための動員の強度は高くなかったが、これらの地域お吸い上げられて英米の戦争に使われた。そうしてそれらの地域の国民が共同して作業したことで、集合的意識に強い印象を与え、それが戦後の諸地域の独立の伏線となった。特にインド。
 ドイツ日本の敗北で4つの超国際的戦時経済(まあ、日本のそうした超国際的戦時経済ブロックのまとまりは弱かったが)は整理され、2つのブロックにまとまる。いわゆる冷戦。
 『戦前の大不況期のような経済の失調は、一方における大企業の経営技法の発達により、他方における政府の財政政策がマクロ経済学と言う新しい学問に啓発され、(中略)姿を消した』(P297)というのは、リーマンショック以前であることを強く思い出させる。そしていつまでかは知らないけど、そうした楽観っていつくらいまで頭のいい人において常識となっていたのかなあ。