代官の日常生活

内容(「BOOK」データベースより)

商人から賄賂を受け取り、過重な年貢を強いる―時代劇などで悪の権化のように描かれ続けてきた「代官」。しかしその実態は、部下の不始末に悩まされ、頻繁な転勤や多額の借金に苦労しながらも、全国400万石におよぶ幕府直轄領(天領)の徴税システムを支えた「江戸の中間管理職」であった。1200人を超える江戸幕府の代官たちの経歴を丹念に調査。悲喜こもごもの実態を通して、幕府という組織の本当の姿を照らし出す。


 悪代官みたいな悪いイメージがある代官の日常やその実態を見る。また、代官と職務内容が同じだがそれより格式が1つ高い郡代も代官として扱う。
 幕末、徴税についての代官の裁量は狭く恣意的な課税はできなかった。そして『年貢金の取り扱いについては、受取通帳に一村ごと、一日ごとのものと帳面を照合し、代官は直筆で代官控帳に詳細に記録』して、『万一心得違いの手代(代官の下僚)が使い込みをした場合にわかるように』(P23)していた。
 また代官には当初裁判権がなく、1794年(寛政6年)に博打を摘発した場合に与える敲(たたき)刑のような軽犯罪については自己の裁量で決裁できる権限が与えられた。しかしそれ以外は軽微な事件でも口書きを作成して、江戸にある勘定所にそれを上げて決裁を仰がなくては判決を申し渡せなかった。また公事出入(民事事件)についても奉行(勘定所)に伺いを立てた後でないと判決を申し渡せなかった。
 そのように代官の仕事は『業務のほとんどが奉行(勘定所)へ申し上げよ、届けよと規定されている』(P25)。
 代官は執務を陣屋にて行ったが、その陣屋周辺では雇用や流通、諸商売などの経済的メリットがあったので各地で陣屋の誘致合戦や廃止された陣屋を復活させて欲しいという運動などがしばしばあったというのは面白い。
 代官の足高は150俵と旗本がつくポストでは最低。『つまり旗本としては最下層に属する者たちの就く役職に位置づけられていた』(P38)し、『幕臣全体から見ても課長級中間管理職としては高くない』(P41)というのは正直以外。
 代官の下僚には手付と手代がいて、前者は寛政改革期(1877〜93)に設けられた御家人の職務で、手代は中間みたいな生まれからの侍でない農民などから登用された人。
 郡代や代官がその職から退く理由としては死亡が38%で一番多く、栄転が28%で次に多く、その後は老衰や病気を理由とした辞職が22%、罷免が12%と続く。死亡と病気・老衰を合わせて6割が代官職のまま現役を退く。そのように代官が同職に留まることが多かったのは、技官であるから別の仕事にうつらないのと、受け持ち支配する地域を増やすということで同じポスト内で昇進となるという理由がある。
 ちなみに代官が初任での支配所の標準的な石高は5万石であるようだ。
 代官勤めは、引越し費用や屋敷の改造費などがかかり、代官のポストに就くと借金を多く抱えることになることもある、経済的リスクの多い役職であった。そのため代官が子に職を継がせにくいし、それを望まない状況だった。
 京の小堀家、伊豆韮山の江川家など由緒あって一所で代々代官を継いでいた家もあるが、基本的にはそのほとんどが1代限りであって、親子で代官となることは珍しい。
 綱吉時代までは代官は純粋な技官として一子相伝的に世襲する家が多かったが、綱吉時代に多くの借金などを理由に職を解かれた。しかし借金していたのは怠慢などではなく、役所運営費を口米・口永といった本年貢や小物成の3%の付加税にまかなうことにされていたが、本年貢が減少したら不足分を本年貢から一時流用せざるを得ず、それが累積してそうなったもので、根本的にシステム的欠陥によるものでもあった。
 吉宗時代、関東筋(関東・東北)の代官はいっさい不正をしなくとも初年度から借金が生じる仕組みとなっていた。そのため幕府は1725年に役所運営に必要な費用を地域や支配高に応じて支給する方法に改めた。また、出張旅費規定の改正をした。そうしたことがあって代官が借金や滞納を理由として処罰されることが大幅減少した。
 代官、江戸初期は広域な権限を持ち、独自の技術やノウハウを持った代官頭(大代官)や在地怒号や豪商など多彩な顔ぶれ。3代家光のころには勘定所機構の中に代官の地位が明確に位置づけられる。5代綱吉の代に幕領や代官への監察が実施され、多くの代々代官の家が消えた。8代吉宗の時代に代官の年貢流用の根本原因だった、役所運営費などの経費問題を必要経費を支給する方法に改めた。そして11代家斉時代に松平定信は、重農主義を実行するため身分にとらわれず有能な人材を登用し代官とした。そのため多くの領地を預かる大代官が多数誕生することになった。そして明治維新時、人民統治の即戦力として一部代官が新政府にその力を乞われるが、旧幕臣としての忠誠心から長く勤めるものはいなかった。
 第三章では幕末(とはいっても1853年ごろなので世上はまでそれほど荒れていない頃)の代官林長孺の姿を見ることで、地方に赴任した代官の生活や仕事、赴任するまでの話などを書いている。
 どうやら代官も陣屋内に菜園をつくり野菜などを収穫していたようだが、『江戸居住の幕臣たちも屋敷内に柿・梅等の果実はもとより芋類・豆類・トウモロコシ等一般的に栽培して』(P186)いたというのは知らなかった。
 第四章では江戸に居住していた代官の日常生活を描く。代官は『原則としては、任地に赴任するのであるが、初期はのぞき関東に支配所がある代官は原則本陣屋をもたないので、拝領屋敷を改装した江戸役所で執務をした。東北・信越に任地を持つ代官は、陣屋へは下僚を常駐させて検見のときのみ数週間陣屋へ旅立ち、江戸に居住したままで、地方の倉市を好まなかった。』(P194)そのため代官の約半分は江戸在住だった。
 江戸の代官は、地方とは違う便利さがある一方で、本来の代官としての職責以外の諸雑務もこなさなくてはならなかったため、必ずしも任地に赴くよりも楽というわけではないみたい。基本江戸在住でも、秋には支配所を廻村する。
 代官は多くの場合『物価上昇などの要因もあり、緊縮予算を組んでもなおかつ赤字財政を余儀なくされているわけであるが、うまく公金貸付業務を得られた代官は、付け届けもあり、その運用いかんによっては多額の事務手数料を得ることができた。なかには、拝領屋敷の地貸しや相対替えによって資金を得たり、土地売買や街や経営による利益を得る代官もいた。一方、適法であるか否かは別として、無尽を主催して徳益を得る代官もいたのである。少なくとも、山吹色の饅頭が飛び交っていたならば、赤字に切迫する代官は出なかったであろう。』(P232)
 手代、村や奉公先から抜け出してきたり、身を持ち崩したものがなることも多い。そして悪事利殖に走るものもいるが、手代仲間でサボタージュしたり、全員で辞職をほのめかして仕事ができなくさせる脅しを加える。そのため、そういう手代を抱えたら自分の責任となるため代官は心労が多かった。
 しかし手代としても薄給でありながら、保証のない不安定な身分なので、何かと便宜を図るなどすることで不正利得を得て将来のために蓄えようとしたという理由があった。江戸の治安維持組織でいうところの目明し(岡っ引き)みたいなものかな。
 標準的な5万石の支配所で、手代と名主の癒着で年間数百両が消えとるとは凄い額。そうした役人への接待・賄賂は、村側というか接待をする村役人にも利益があって、村人から接待をするために費用を集めてそのうち幾分かを自分の懐に入れていた。なるほど、だからなくならないのね。
 18世紀末に御家人の職である手付の創設と、狭き門ではあるが優秀な手代を手付として正式に取り立てることしたことで、農民から評価される役人が多くでるようになる。村人が求める役人は、物事をスピーディーにそして親身に取り計らってくれる人で、そうすることで村の経済的負担を少なくしてくれる人。
 『序章で見た顕彰碑が県立された代官を見ても、江戸時代中期までは灌漑や治水、新田開発に尽力した。すなわちテクノクラートとしての手腕に対しての評価によるものが多かった。ところが、後期になると、飢饉・災害対策、窮民救済といった行政的手腕、すなわち事務官としての評価によるものが多くなる。』(P277)
 『管見のかぎり公式記録のなかからは代官自身が悪徳商人と結託して賄賂を貰うといった事例は見出せなかった。その一方下僚特に庶民から採用の手代の無法ぶりは、種々ご紹介したとおり』(P281)。