21世紀の自由論 「優しいリアリズム」の時代へ

内容(「BOOK」データベースより)

日本にはリベラルや保守がそもそも存在するのか?ヨーロッパの普遍主義も終わりを迎えているのではないか?未来への移行期に必須の「優しいリアリズム」とは何か?―「政治哲学」不在の日本、混迷を極めるヨーロッパ、ネットワーク化された世界に生まれた共同体の姿を描き、「非自由」で幸せな在り方を考える。ネットの議論を牽引する著者が挑む新境地!

 第1章では現代日本の政治・社会の状況を、第二章では現在の世界の政治・社会の状況(本家のリベラリズムも有効性を失い、それに対するコミュニタリアリズムも大きな壁にぶつかっている現状)について説明がなされる。そのような非常にわかりやすく整理と現状分析がされた後に未来像の提言、つまりこれからの社会がどう展開していき、どういうことが必要になるかということについての考えを述べられる。
 反権力的な立ち位置のみで政治哲学がない日本の「リベラル」は多くの点でリベラル的ではなく、その有効性も失われた。しかし本家のリベラルも先進国の相対的な富の減少で社会保障を充実させる政策が成立しにくくなり、またリベラリズムが希求する「普遍」の根拠が揺らいでいてその力を失っている。情報化による第三の産業革命によって富のフラット化が起こる。少数精鋭で国境を越えて動くグローバル企業が大きな力を持つようになる新しい次代に必要なのは、理想などでを唱えるのではなく、国民の生存のために現実的な対処をできる現実主義。それも国民に不安があるならば、その不安を和らげる最大限の努力をして、そのコストなども勘案しながら進んでいく、情も切り捨てない優しいリアリズム。

 現在の日本では「リベラル」の政治勢力が崩壊しようとしている。『最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力はリベラルとはほとんど何の関係もない。彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。』(P13)
 かつて進歩派(革新)と呼ばれていた者たちが冷戦が終わって共産主義の失敗が明らかになったことで、「リベラル」を名乗るようになったが、その前後で反自民・反資本主義という立ち位置も、政治哲学がないこともほとんど変わらなかった。
 そのような反権力の立ち位置に依拠する勢力が大きな影響力を持つに至った理由としては『総中流の構造に、メディア空間も引きずられた。安定している社会を支えているのは、自民党であり、財界であり、官僚である。つまり官僚と企業と政府自民党という三位一体が日本の総中流社会を支えるという堅固な基盤があり、そこでメディアや野党の側が何ができるかというと、「反権力」という監視役としての役割でしかなかった。』(P19)順調すぎたゆえに、そのような役割しか残っていなかった。
 勧善懲悪的な強者対弱者という構図が抽出された。その勧善懲悪では『市民やメディアが一方的な善になってしまい、しかしその善であるという思想的背景はなにもない』(P19)。
 政治思想の基盤が日本の政治やメディアに導入されなかった理由の1つとしてあげられる見方として、『自民党と官僚がリベラリズム的な分配政策も、リバタリアニズム的な自由経済活動も、両面でうまく進めていたということだ。この結果、自民党に対抗する社会党や新聞、テレビは有効な対立軸をつくることができず、ただ反対するだけの「反権力」に堕ちてしまったという見方がある。』(P20)
 現在、日本社会のグローバル化と格差化によって「リベラル」の反権力でしかない立ち位置の有効性は完全に失われた。
 現代のリベラルの基本理念『人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない。』(P25)
 日本では強固に結びついているように見えるリベラルであることと、戦争絶対反対という主張はイコールではない。一国平和主義か積極的平和主義は、そのような感情的議論で片付けられる話ではなく、徹底的で冷静な議論が必要だが、『「リベラル」はただ戦争に反対するだけだ。そこには視座も分析も哲学もない。』(P29)

 一部の原発絶対反対論者は「経済成長なんか要らない」「江戸時代に戻れ」という。しかし『「老いらく社会でゆっくりのんびり」などと言うが、今の日本ではすでに豊かさの底が抜け、相対的貧困率は非常な勢いで上昇している。伴侶なしで子供を育てているシングルマザーの半分以上が貧困に陥っている。非正規雇用で低収入、かつ不安定な身分に苦しむ若者もたくさんいる。このような公正さが失われた悲しい社会において、経済成長という雇用を生む数少ない機会を捨てて、なにが「ゆっくりのんびり」か。そんなものは一部の富裕層や、年金と退職金をたっぷりもらって勝ち逃げしている高齢者のたわごとでしかない。』(P39)そうしたものをたわごとと切って捨てているのは爽快。
 成長がない時代の新しい生き方を模索するのは大切だが、そうした新しい生き方は「選ばれた優秀な人たち」にしかできない。そのためそうした人たちを応援するとともに、『もう一方では、普通の生き方をする人たち全員が、どう社会に包まれて無事に過ごしていけるかを社会全体で考える。それは「可能性」じゃなくて、絶対に「必要」なことだ。』(P41)
 グローバリゼーションが完成して新しい世界のシステムが実現していくまでの道筋をどう軟着陸させて、どうやったら誰もが苦痛にあわずに暮らしていけるかを考えなければならない。そのためには経済成長は困難でも絶対必要で、それがなかったら軟着陸は不可能になる。しかし「リベラル」はリフレにも経済不要政策にも懐疑的。
 「経済成長なんか要らない」「江戸時代に戻れ」という主張は「選ばれた優秀な人たち」だけを優遇するもので、『人々には生まれながらの自由がある。みんなが自分で人生を選択し、自由に生きていくためには、それを妨げるような格差や不公正さを取り除かなければならない。』(P25)というリベラルの基本理念に反する。
 『日本の「リベラル」は、自分たちは意識していないだろうけれども、保守と考え方が非常に似通ってしまっている。普遍的人権よりも、自国の国民を戦争に向かわせるべきではないという考え方。古き良き時代の伝統を重んじること。平等のいしずえとなる経済成長を望まないこと。この背景には、彼らが戦後改革を守り、反権力だけを唱える役割しか担ってこなかったことがある。/ しかし本来のリベラリズムは多様性を許容し、弱者を救済する社会を目指すものである。この二つには何の関係もないということは一目瞭然だ。』(P46)

 戦後、自分たち国民やメディアの責任を等閑視して自らも被害者で、軍部のみが加害者で悪玉という論が主流を占めた。そのため加害者意識が薄かった。
 しかし1970年に学生運動の集会で、華僑の若者たちが作った団体が戦争でのアジアへの抑圧を反省、自覚していないのに連帯という口先のスローガンを語るが、言葉でなく実践がない限り信用できないと発言した「七・七告発」を受けた学生運動の闘士たちは反省し、資社会の弱者の目線が学生運動に取りこまれる。
 しかしそのショックが強すぎて、過剰な加害者意識を持つに至った。そうした意識は加害者でもあり、被害者という二重性が持っていた苦しい立場への共感や『ともにその境遇を悲しむような共鳴を感じるだろう。いつでも私たちはこの人と同じ立場になるかもわからない。そういう想像力も働く。私たちは「入れ替え可能」なのだということを思い知らされる。』(P58)しかし被害者性を無視した単なる「加害者」だとすることで、いくら断罪してもかまわないとなる。
 学生運動末期にその過剰な論理がさらに過剰となり、『日本は豊かで平和であり、学生運動の運動家たちも豊かな国の豊かな若者だ。しかしその日本人は在日などのアジアの人民を抑圧する側に立っている。だとすれば日本を批判する権利があるのは、そういう弱者たちだけだ。だったら豊かな日本の若者たちは、弱者の視点から日本を見て、弱者の視点で日本を批判すればいいのだ』(P58)となった。
 そうした「マイノリティ憑依」で、マイノリティの言葉を自分が勝手に「代弁」(例えばニュース番組で庶民云々と言及するときには、実際には存在しない「幻想の庶民」を代弁)することで日本社会を容易に非難できる気楽な立ち位置を確保した。そうした手法は、使い勝手が良かったため、1970年代以降さまざまな市民団体やマスメディアが使われるようになり、現在の日本の「リベラル」の中心的な考え方となる。
 しかしそういう見方を続けることには3つのでメリットがある。まず自分たちが社会の一因と言う自覚がなくなること、常に自分を被害者の立場に仮託して加害者でもあるかもしれないという「入れ替え可能性」を忘れること、想像上の外側の弱者は常に清浄であるため内側のリアルな人間社会が汚れているような誤解をしてしまうこと。最後の汚れの幻想から「ゼロリスク」という極端な考え方を生む。
 ダイオキシンが少量検出されたことで、ありえもしないゼロリスクに固執する幻想から騒ぎ立て全国の焼却炉が改修されて40兆使われたが実際には無駄だった。反原発論者にはリスクマネジメントではなく、そうした不可能なゼロリスクを求めている者もいる。
 保守とは何か、思想家佐伯啓思京大名誉教授は『人間の理性には限界があって、予測できない誤りを犯す。だから過去の経験や非合理的なものの中にある知恵を大切にして、急激な変化は避けようとする。人間の理性の万能を信じて、社会を理性によってつくり直し、進歩していくことができると考える「左翼」とは異なる』(P70-1)と説明している。
 しかし『日本の保守派の多くは、家族間から国家制度、社会システム、文化、生活まで古いものから新しいものまでがごたまぜになってしまっていて、区別をつけられていない。』(P81)どういう社会を「保守」しているのかがわからない。伝統・歴史にちゃんとした知識なく歴史と伝統を守れと叫んでいる。
 大正時代の日本経済はアメリカと同じような市場経済で、戦時経済の影響など「偶然の産物」で終身雇用が生まれた。自民党の重点政策は実行することで終身雇用制が終焉するのにその一方で、憲法改正案では戦後の伝統的な家族観を訴える。
 日本の「リベラル」のように反グローバリゼーション掲げても、経済的に飲み込まれていくことを避ける方法は現時点で存在しない。親米に引きずられてグローバリゼーションを受け入れる「保守」と、反対する「リベラル」とどちらが伝統重視なのかわからない逆転現象がある。
 ヨーロッパでの極右政党の台頭は単純に経済的理由だけでは説明できない。自国の文化の破壊への危機感というような文化的理由がある。
 日本の「リベラル」やマスメディアの「マイノリティ憑依」へのアンチテーゼとしての反中反韓の流行。
 弱者に攻撃の方向性が向かっているのは、将来に不安を感じる人間が多くなって誰もが抑圧されているように感じていること(特定の誰かのみが抑圧されているだったり、殊更被害者のように扱って、他は加害者あるいは恵まれているのに手を差し出さない者であるかのような論調に反発を覚えるようになったということかな?)と、それまでマスメディアが「マイノリティ憑依」の対象としていいように使ってきたから。ただ、「マイノリティ憑依」が弱者の当事者性を無視した勝手な代弁になりがちなのと同じように、それに対するマイノリティ批判もメディアの空想上の「マイノリティ」と同じように、批判者の中の幻想の「マイノリティ」である。そのように両者は立場は違えど、マイノリティ本人の当事者性を無視して、幻想の中のマイノリティを勝手に代弁したり糾弾していることには変わりない。
 古い「リベラル」と極端な右派はどちらも両極端で、マイノリティ憑依で、ゼロリスクで白黒つけたがり声が大きく存在感が強い。右にも左にも新しい穏健で良識的な意見を持つ人はたくさんいると考えられるが、勢力として可視化されていない。そうした人々の意見を政治の中に救い上げる仕組みが形成できていないのが問題。
 近代ヨーロッパのリベラリズムには、自由・平等・博愛といった「普遍的なもの」を前提としていた。そうした普遍へと向かう理性ある人間を前提としていた。しかし市民が古代ローマの「市民」あるいは貴族のような特権階級のものでなく、その構成メンバーがどんどん広がっていくごとに、衆愚になっていく。全員の自由と平等を実現すればするほどそれを支える政治が衆愚になるというジレンマを初めから近代ヨーロッパは抱えていた。そこで知的エリートや官僚はそうした普遍的なものを民衆にわかりやすく伝える役割を持つものととらえられてきた。
 第二の産業革命、飛行機やガソリン車、テレビ、上下水道、スーパーマーケットなど新時代の発明品の導入していくことで市場が成長し給料も増え、さらに生活は豊かで清潔なものになりという好循環は欧米では1970年代に終わった。日本ではその直後バブルがきてその時期が遅れたがバブル後は欧米よりもさらに悲惨な失われた二十年を過ごすことになった。
 そして現在起こっている第三の産業革命である情報革命では、内と外の壁を壊しすべてをフラット化して富を分散させていく。その第三の産業革命は『近代社会の基盤を根底からひっくり返そうとしている、大きな変化である。』(P118)
 ヨーロッパの近代資本主義は、ヨーロッパとアジア・アフリカという外部の間に壁を作り、外部を搾取することで内部に富を集める構造だった。しかし情報革命と新しい資本主義は、外部と内部の壁を取り払い、富を分散させて、基盤を提供する少数精鋭の企業を設けさせる構造に変わっている。これによって途上国の力は増して、先進国である欧米や日本の力は減少している。
 この動きは、グローバル基盤が地球上のすべてをフラット化したところで完結する。そうすると『収入は世界的に標準化され、そのときに「外部」はすべて内部となり、ヨーロッパの優位性は完全に消滅する』(P120)。
 この動きで先進国の富が相対的に減少することで、分配されるお金が足りなくなり、社会保障を充実させる政策が成立しにくくなった。そしてリベラリズムが希求する「普遍」がある根拠が揺らいでいることも大きな問題。
 新自由主義リバタリアニズムの考え『たしかに「第二の産業革命」の頃までは、企業が成長すれば雇用は増え、法人税で国庫も潤い、系列や下請けの会社へと富が流れ込んで社会全体が豊かになった。しかし「第三の産業革命」では、このようなサイクルは起きない。そもそもグローバル企業は母国で人を多くは雇わず、仕事は国外に出してしまう。結果的に(中略)どの国でもリバタリアニズムの政策は最終的に否定され、捨てられた。』(P136)
 その後台頭したのがコミュニタリアニズム共同体主義)。『コミュニタリアニズムと保守派、普遍や理想ではなく、古くからの歴史や伝統や共同体に価値を見出し、共同体に参加することに価値があると考えた。でもこれは内と外のあいだに壁をつくって、外側を排除してしまう。「参加を求める」というのは、「参加できない人は排除する」という論理をつながっているのだ。おまけに共同体を善とすることは、息苦しさももたらしてしまう。』(P146)しかし新しいメディア空間によって『従来の様なコミュニタリアニズムが持っていた内部での抑圧と外部の排除という問題が、解消される可能性を秘めているのだ。』(P207)

 国民国家領域を超えて少数精鋭で作られる新しいグローバル企業は、環境のように下から産業や人々の生活を支え、下から世界を支配する帝国。中世の帝国よりも堅固で、近代の国民国家よりもしなやかな新しいシステム。
 やがて『世界はもっと流動的になり、伝統的な国家権力構造も解体されていく。大国が世界を支配するような時代は終わり、さまざまな国やグローバル企業、非政府組織(NGO)のような団体まで含めて、ばらばらに権力が分散される時代がやってくる』(P162)。
 『今後数十年間は、国民国家とグローバル企業のせめぎ合いがさまざまな局地戦とともに続いていくだろう。しだいに国民国家は衰退し、グローバル企業を中心とした新しい秩序が経済的のみならず、政治的にも社会的にも生まれてくるだろう。われわれがやるべきことは、そこにいたるまでの移行期において、どう社会を破滅させず、軟着陸に向けて準備を進めていくのかということだ。』(P167)やがてくる新しい世界秩序に向けてどうするか。
 そのような『移行期には、そういう「目的地はわからないが、交通事故を起こさない」というリーンでリアルな戦略が社会のあらゆるところで求められるということなのだ。』(P182)リアリズムが必要になる。しかし機械的なリアリズムではない。例えば原発の場合は、当事者(デマゴーグではなく)として不安を感じている人の不安を和らげる最大限の努力を行い、そうした努力のコストを含めて原発をどうするかのかを探っていく。そうした要素を含めて全体のリスクマネジメントを行う。論理だけではなく、感情も考慮した優しいリアリズムが必要。
 『私たちの移行期における目標は、私たちの生存そのものである。そして、この日本という国が生き延びていくことである。機会の平等ではなく、結果の平等として富が分配され、誰もが飢餓や平等で死なないようにすること。将来の不安をできるだけ和らげていくこと、そして海外からの危機を防ぐこと。/ そういう原点に私たちはいったん立ち返る必要がある。/ その原点としての生存戦略。原点としての優しいリアリズム。』(P190)
 ネットワーク共同体は『民族や国家、地域など多層・多元化された線によって構成されたオープンな三次元共同体なのだ。/ 三次元共同体では、人と人との関係がつねに流動することによって、絶えざる「入れ替え」の可能性が秘めている。/ しかし逆に、この入れ替え可能性は公正さを担保する。「自分もこうなるかもしれない」という入れ替え可能性は、ネットワーク共同体の本質である内外の壁の消失と相まって、内側のマジョリティと外側のマイノリティという文団を解消することを可能にするからだ。』(P216)そのことで戦後メディアのマイノリティ憑依も、幻想のマイノリティへの怒りも無効となっていく。