レトリック認識

レトリック認識 (講談社学術文庫)

レトリック認識 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

古来、心に残る名文句は、特異な表現である場合が多い。思考において論理がすべてではなく、言語も文法だけでは律しきれない。論理と文法の手にあまる言語表現の多彩な機能―黙説、転喩、逆説、反語、暗示など、レトリックのさまざまを具体例によって検討し、独創的な思考のための言語メカニズムの可能性を探る。在来の西欧的レトリック理論の新しい光をあてた『レトリック感覚』に続く注目の書。


 同著者の「レトリック感覚」がとても面白かったので、続編(?)のこの本も読む。
 この本でも「レトリック感覚」と同じく、一章で一つのレトリックについての説明がされている。
 そして『『レトリック感覚』であつかったいくつかの≪あや≫は、直喩、隠喩、換喩など、おもに比喩的感覚にもとづく転義的な認識と表現の形式であったが、本書ではむしろ、特異な動きをしめす認識の型そのものにかかわる≪あや≫、いわば認識の動態をとらえようとする表現の形式を、重点的に吟味するつもりである。』(P15)今回扱われているレトリックは「黙説あるいは中断」、「ためらい」、「転喩あるいは側写」、「対比」、「対義結合と逆説」、「風喩」、「反語」、「暗示引用」の8つ。
 相変わらずそのレトリックがどういうものであるかという定義を知ることや、そのレトリックが生む効果の話を読むのは面白い。まあ、そうやって興がって読んでいるわりには、中々難しいと言うこともあって、どういうものがどういうレトリックに分類されているか(そしてその定義)がいまいち記憶できていないけど(苦笑)。

 伝統的なレトリック言葉に説得力と魅力を与える技術という看板を掲げていた。しかしそれとは別に、前書でも書かれていたように、レトリックには発見的認識の造形と呼ぶべき機能がある。それは常識的な言葉遣いでは的確に表現しきれないものを正確に伝えるために変わった言葉づかいで何とか語ろうとする(そこにレトリックが生まれる)ことであり、有限の言葉で無限の事象を表すための機能。
 「黙説あるいは中断」途中まで言葉を発して、あとは黙ることで語らぬところまで、相手に伝える。また、普通の言葉では伝えきれないことがら、『それは多くのばあい、情念にかかわることがら』(P28)を言いかけて、それがいいあらわせないので言葉が止まったり、あるいは「……」を使ってつっかえながら話す。そのように沈黙することで聞き手・読み手に想像させる表現。
 『すぐれた≪黙説≫表現は、表現の量を減少させることによって、意味の産出という仕事を半分読者に分担させる。』(P47)
 「ためらい」表現に迷い、その迷いを言葉にする(ピタリとした表現が見当たらないものを、AでもないBでもないという風に、あれこれと言いなおし、多様な表現を並べる)ことで、相手に伝える。
 ためらいで表される『表現への潔癖さはたぶん、わかってほしい……という未練によく似た甘えとうらはらに発生する』(P54)
 あらゆる言語表現の根底に働いている甘えの原理『は、とりわけことばを中断することによって沈黙に語らせるという≪黙説≫の表現と、ことばを過剰に発信する≪ためらい≫の表現という、反対の極他なかたちのなかにあらわれる。』(P56)
 AともいえるBともいえるという表現は、≪類義累積≫というレトリックと呼ばれる。
 一度いった言葉を訂正して違う言葉に言い換える≪訂正≫(広い実で≪ためらい≫に入る)は、書き言葉の上では常にレトリカルで、取り消し別の言葉にすることで、最初に言った言葉との表現の相対化が行われて『のんきな目には隠れている言語の本質的な一面を顕在化させる』(P83)。例としてあげられている大岡昇平「武蔵野夫人」の『秋山は(中略)それを頗る真面目に、つまり自分勝手に取った。』(P82)という文章では、「真面目」と「自分勝手」を臨時の類義語にして、読者にもいわれてみればと思わせる表現になっている。
 「転喩あるいは側写」伝統的には先行する相(理由)を語ることで後続の相(理由)を、あるいは逆に後続の相(理由)を語ることで先行の相(理由)を表現すると説明されて、換喩のうちの一つとされていた。
 夜が終わる/朝が始まる、(涙を流す)/袖をしぼる、やさしく言っているうちに/(あとは脅迫的になる)などはそういえるが、家の中が暖かい/外は寒いなどの表現は先行と後続ではなく表裏のもの。そのため転喩は、『≪同一自体を挟んで両側の相を認識する、視点の切り替え≫、すなわち≪相を転じてみること≫』(P118)といえる。
 「対比」『ふたつの観念の間に対照関係を設けて、両者がたがいに引きたてあうようにすることばのあや。たとえば、/ ≪危険をともなわぬ≫征服がもたらすのは≪栄光をともなわぬ≫凱旋』(P122)あるいは「売り言葉に買い言葉」などがその例。
 対比表現基本的で目立ちやすいため、名文句に対比表現が多い。そのため逆に言葉を対比表現にすれば名文句風になるので、キャンペーンの標語などは七五調の対比表現がほとんどで、ポスターや看板にも多い。しかし手軽に作れて心に残らない対比表現が多いため、昔から対比表現の評判悪かった。
 対比表現、同じ現実を二つの異なった視点で見る。
 そして二つの言葉の隔てを鮮明にする。例えば『「ありがたいことには……/困ったことには……」/ というような型のなかへ取り込まれれば、たいていのことばは一見対義語風に見えてしまう(中略)その作用はまさに「強引に」対比を実現してしまう』(P144)。『通念の保護区のなかでは対義的とは感じられないことばどうしを、あえて対比化してみるこころみとして、≪対比≫表現は、新しい意味産出の実験でもある。認識の組み替えの、もっとも基本的な仕掛けのひとつであった。』(P146)
 『≪レトリックのあや≫の通例にもれず、対比表現もまた、ことば遊びの型になる。型としてのさまざまの≪あや≫が、尋常の言葉づかいではなかなかとらえにくい微妙な認識をかろうじて造形するたよりになる、その反面、途方もない冗談の形式ともなる。その驚くべき両面性こそレトリックの特性のひとつ』(P150)。しかし『名状しがたい認識に形を与えようとするよっきゅうも、また、突拍子もない冗談も、いずれも常識的な言葉づかいではものたりないという共通性をもつ』(P151)から驚くことではないのかもしれない。
 ≪並行≫は『同じ形式、同じ長さのことばをついにして対立させる表現』(P152)。対比では、言葉の意味内容が対照的で、並行ではことばの外形が対照的。しかし両者はたいてい同時に成立して実例が似通ったものになるため、両者を区分しない分類もあるし、そちらのほうがよいこともあるとのこと。
 「対義結合と逆説」対義結合とは、本来なら擁立しない対立概念を強制的に繋いでしまうもの。例えば「この年月は二人のつながりでもあり、へだてでもあった」や「僕はいま最も不幸な幸福の中に暮らしている」など。
 対義結合は『ひらたく言えば、読解は読者にほぼ全面的にまかされている』。『あらゆる発言はいくらか多義的であるが、対義結合はとりわけ多義的なことば』(P171)。
 ≪逆説≫の概念は『広すぎて、あまりにもとりとめない』(P184)。反=通念としての≪逆説≫は、大抵≪対義結合≫の同義語として使われる。
 『言語表現としての≪逆説≫は矛盾しあう対義的事項を積極的に連立させることによって、認識をかろうじて造形しようとするこころみであるが、それに対して論理の≪逆説≫においては、困ったことに対義敵事項が連立してしまう』(P194)ことをいう。
 「風喩」風喩とはアレゴリーのことで、その意味は『おなじ系列に属する隠喩を連結して編成した言述』(P197)。連続した隠喩。
 川端康成舞姫』の波子が『心の戸を、半ばあけて、ためらつてゐる感じだった。あけきつても、竹原ははいって来ないのかもしれぬ。』という文章を例にあげている。この文章では「心の戸」という隠喩をして、その戸の話を続けて、その心の戸を前提としたたとえ話が続く。
 つまり風喩とは、一連のことがらの系列を、別の一連のことがらの系列によってあらわすことで、一方を≪実話≫他方を≪たとえばなし≫と呼ぶとする。そうして『波子の心のなかに生じている何ごとかの進行を≪実話≫と呼べば、それに対して「戸を半ばあけて、ためらう」こと、「あけきっても、はいって来ないのかもしれぬ」ことは≪たとえばなし≫である。』(P206)
 風喩はそのような構造の呼び名であるので、『それが風刺に向かうか感傷にたゆたうか、笑わせるかしんみりさせるか、それとも説得として働くか、その効果の方向はさしあたって別問題である。』(P208)
 この心の戸の風喩は、『≪実話≫で語りえぬことを≪たとえばなし≫でかろうじて表現する、というまことに単純明快な原理によって成立している』(P212)。
 またそうしたものでなくともタヌキというあだ名の校長が人を騙したことを、狸が人を化かしたという≪たとえばなし≫とするのも風喩となる。
 『すべての≪ことばのあや≫の形式と同様、私たちは風喩で遊ぶこともできる。発見的認識をかろうじて造形する、という真剣な(深刻な、ではない)機能ないし仕組みが、遊びの仕組みにもなる。それは、考えてみれば奇妙でも不思議でもない。標準的意味の体型をいくらかひずませるというレトリック現象は共通なのであった、≪苦肉の策としてやむをえず≫か、それとも楽しみのためか、という点を別とすれば。真剣であることと遊ぶことは案外似ているのだろうか。』(P216)
 「反語」反語には言いたい真意とは反対の表現を疑問文の形で述べること、あるいは真意とは反対の意味をはっきりと表現することという2通りの使用法があるが、レトリックとしての反語は後者のことをいう。伝統的レトリックでイロニー(アイロニー)と呼ばれているもの。
 反語とは、ことさら露見するようにつく嘘である。言葉の真意とは正反対のことをいうことで、その反対の意味を相手に伝える。
 近代以降イロニーは文学や哲学などで広く多様な意味で使われた。『アイロニーは、とりわけ文学論においては使われすぎたキー・ワードであって、結局万能のキーすなわち無意味なものになってしまった。』(P230-1)今までいまいちよくわからなかったのはそうして色んな意味が含まれてしまったせいかな。
 反語では、発せられる信号や手がかりによって意味が反転するが、そうして反対の意味のことを言っているということを感じられる人も感じない人もいる。『すなわち反語は、その信号の手加減によって、ひとつのせりふで多方面へ多様なメッセージを伝えることができる。大声で内緒話をすることが可能になるのは、反語信号で相手を選別するような効果を発揮するからである。』(P245)そのような『ゲームへの非参加者をさりげなく選別することによって、反語は風刺的になるのかもしれない。』(P253)
 ≪ことばのあや≫はどれもそうではあるが、黙説や転喩、反語では特に読み手・聞き手の想像力の参加によって意味が実現される。そのためそれらのレトリックが『いつも驚きをともない、しばしば遊びの因子を含むのもまた、同じ理由による。』(P249)
 「暗示引用」『広く知られている現象、故事、文章などを暗に参照することによって(中略)、それらの(文章にかぎらぬ、メロディーでも情景でもいい)ものごとを引用』(P255)する表現。
 暗示引用のうち、言葉づかいを真似る表現については≪模擬≫と呼ばれる。≪模擬≫ではどれほど元と似ていないかを主題とする。≪模擬≫のさらに下位の分類にパロディがあり、日本の本歌取りもレトリックの分類に入れるとそこに入る。
 パロディとパスティシュの違い。『≪パロディ≫は特定の作品への模擬ではなく、あるジャンル、ある形式、ある様式に対する風刺的模作であり、(中略)、それに対して≪パスティシュ≫は、特定の作者の特定の作品への模作をさす。』(P267)そういう違いもあるが、『要するに作風への≪模作≫としての≪パロディ≫で一括してよさそうである。』(P267)
 基本的な暗示引用は、その参照源としてその文化圏の人間なら誰にでもわかる諺や成句などが使われる。しかしある作品の暗示引用などは、誰にでもわかるものではなくなる。そのため『暗示引用はたまたま通じる人にだけ通じる、という転で、いわば読み手に対する選別作用を(いやおうなしに)発揮する。選別作用こそ、風刺的かどうかなどという効果以前に、好むと好まざるにかかわりない暗示引用の構造的特性』(P280-1)。
 その例として「枕草子」の中宮定子と清少納言の香炉峯の雪と簾をめぐるエピソードをあげる。

 本書では、黙説・転喩・反語など聞き手・読み手の参加を特に求めるものだったり(「ためらい」も相手にわかってほしいと求めるものだったし)、暗示引用のような相手の知識を求めたりもするものという読み手・聞き手に理解を求めるレトリックがなんとなく多かった印象。