正統と異端


 読んだのは新書版。
 「薔薇の名前」の上巻を読んでいて、異端の話が大きなテーマとなっているようだが、それについてよく知らなかったので、下巻を読む前にこの本を読んでみた。
 『秘蹟サクラメント)に関する客観主義的(聖務重視論)ないし主観主義(執行者重視論)解釈の対立が、そのまま教理上の正統(事効論=ex opere operato)と異端(人効論=ex opere operamtis)の対立として、秘蹟教会たることを本質とするカトリック教会の大問題である』(Piv)
 十一世紀末以来の使徒的生活の実践を目指す民衆による宗教運動のひとつとして、フランシスコ会を作った聖フランシスコアッシジのフランチェスコ)の運動があった。
 グレゴリウス改革の時代(11世紀半ばから12世紀前半)に起こっていた新しい禁欲的修道の運動では初期にはシトー修道会などがでてきて、その後期12世紀後半のそうした宗教運動を代表するものとしてはカタリ派、ワルド派といった異端や謙遜者(ファミリアーティ)などがある。
 こうした『新しい宗教運動の担手は異端をもふくめて、みな真実のキリスト者たろうとした人々であった。というより、その主観的真実に単純に固執した使徒的生活の実行者が、「エセ使徒」の名の下に異端とせられたのであった。』(P161-2)異端者には『宗教的熱誠のあまり教会職制にふれたところの、本来は教会の異端に対する防衛に付こうとしていた人々もふくまれていた。本来の異端であるカタリ派さえ、主観的には真実のキリスト者たろうとしていた人々である。』(P180)
 『この宗教運動のほとんどすべてに共通な、使徒的清貧主義と道徳的厳格主義とは、グレゴリウス改革の一段落ののち、保守化し反動化したカトリック教会に対し、鋭く批判的であり、勢いのおもむくところ、ややもすれば異端化する傾向を持っていた。』(P15)当時の教会高位聖職者はそれらの運動を既存の修道会へ吸収しようとして、それを拒否する集団には容赦なく異端として弾圧した。
 しかしその対策では、聖界の脱世俗化を求める民衆の思いが満たされたとはいえず、その問題の根本的な解決にならなかった。そのため、より急進的な宗教運動を引き起こすことになる。なぜなら、既存の修道院に取り込んだのはいいのだが、自由な福音の説教をできる人を院長や特別有資格者に限定して、使徒的生活が修道院の壁の中に再び押し込められた(そして修道院に閉じ込められた使徒的生活はどの修道院でも半世紀も理想が持たなかった)ことで、民衆が求める使徒的生活を説く宗教運動を行う別のものがでてきた。
 1184年のヴェロナ公会議の決定で多くの異端の名が列挙された。しかしその異端とされた集団には、初期ワルド派や謙遜者(ファミリアーティ)のような『みずから使徒的生活の実践と説教によって、(中略)、異端波及の防波堤たろうとしている人々だったのである。』(P18)しかし聖職者でないものが、許可なく、また十分な神学的知識もなくする説教は公認の教義から逸脱する恐れもあった。『いずれにせよ問題はローマ教会が、かたくなな形式的態度で民衆の宗教運動を抑圧し、民衆の宗教的熱誠を教会外に放逐してしまうことであった。』(P19)
 そのため聖フランシスコの運動は一世代前だったら、異端とされた可能性も強かった。
 ヴェロナ決定で新しい異端審問手続きが導入されたが、異端・清貧主義的宗教運動は収まらないどころか、なお盛んになっていた。
 そこで1198年に即位したイノセント三世は、そうした宗教運動を積極的に教会に吸収し、教会の守りに付かせ、指導に従わないものは異端として徹底的に弾圧する新政策を用いた。しかし既存の修道会に吸収するのではなく、新たな団体として公認してその活動を認めるその政策は、カトリック教会内部の反対があり、それを押し切って行われた。
 福音書的清貧と使徒的生活の実践をあわせた宗教運動は、11世紀末から12世紀前半にかけて本格的にはじまった。
 グレゴリウス改革、聖職売買と聖職者妻帯についての教会浄化運動から出発。そういうことを行った人々が行う秘蹟は「無効」で有害で、そうした人々に秘蹟を受けてはいけないとした。
 しかしそれには王侯の聖職者任命権を否認するために、俗人による任命を聖職売買として広義の異端とするというような政治的意図も濃厚にあった。
 12、3世紀の異端や宗教運動は、そのグレゴリウス改革と同様の同義的厳格主義を持ち、また腐敗聖職者のする秘蹟に効果はなく有害とした。
 グレゴリウス改革で教会がとった手段は、その目的を果たすためには最短ルートを通るものであったかもしれないが、同時に教会の理念に反する手段でもあった。そうした矛盾が、改革者の教会にはねかえってきて、後に混乱を生む。
 その問題はイノセント三世によってひとまずの解決がなされた。しかしその解決策に新たな問題が内在し、またフランシス、ドメニコ両修道会の発展そのものの中にもそうした問題が存在した。
 カトリック教会と異端とは秘蹟論に明確に違いができることが多い。『カトリックの理論によれば、恩寵伝達の行為である秘蹟は、それが秘蹟創設の趣旨に従って、いいかえれば、「聖三位一体の御名への呼びかけ」をもって失効され、受領者がカトリック的信仰に於いて受領するかぎり、秘蹟執行者の人格とは全く独立に、その効果を表わすというのである。』(P43)つまり一時の混乱期をのぞき、三世紀以後一貫して主張され、1439年にフィレンツェ公会議の大勅書で最終的に確立された。その内容は、危急の際にはそれが異端や異教徒によるものであっても、教会の定める言葉を用いて行われれば洗礼が施されたことになるというもの。
 そうしたカトリック客観主義が、異端・異端的思考からの教会攻撃の最大の論点だった。腐敗聖職者によって秘蹟が施与された場合、その秘蹟が有効かという問題である。
 そのためそうした考えを肯定するかのようなグレゴリウス改革が実行されたことで、烈しい秘蹟論争が行われた。その論争はグレゴリウス改革の急進的理論家たちの立場は、事実上4世紀ごろのドナティスト論争で異端と断じられた聖キプリアヌスと同じものだった。
 グレゴリウス主義の諸法王はドナティストの理論の『本質的部分を継承することによって、異端的秘蹟論を持ったことになるのである。そしてグレゴリウス改革が、中世カトリック教会の確立者であるとするなら、中世ローマ教会の「正統主義」は、まさに「異端」的秘蹟論によって確立されたことになる。』(P119)
 9世紀のローマ教皇『ニコラウス一世歿後半世紀をでないうちに、ローマ法王自体の秘蹟論の同様が見られるのであるが、この不安定さは九世紀末からグレゴリウス改革の直前におよぶ、一世紀半に渡る中世ローマ教会最大の退廃期において、グロテスクなまでに拡大されるのである。』(P66)そうした秘蹟論をめぐる中世ローマ教会の立場のゆれは、ドナティスト論争後も、その秘蹟論(腐敗聖職者や異端がした秘蹟であっても有効とする、ただしそれが真に有効で恩寵を得られるものにするためには特定の手続きが要求されたようだ)がローマ教会の伝統として確立していなかったため起きた。
 また、東方教会では主観主義がとられていて、アイルランドケルト教会は東方教会の影響を強く受けていたのでそうした方面からも主観主義的秘蹟論が西方教会流入する可能性あった。
 『皇帝ハインリヒ三世の理想主義的政治によってはじめて、九世紀末以来のローマ法王庁の腐敗には終止符がうたれることになったのである。(中略)しかし一旦その使命と力とを自覚した法王権は、いつまでも俗世の権力に従属することはできない。ハインリヒ三世は法王権を革新することによって、やがて皇帝権そのものに挑戦する法王権を育て上げる結果となる。』(P89)このクリュニー改革では、クリュニー修道院は聖職売買や聖職者妻帯を烈しく攻撃したが、皇帝や王の教会に対する保護支配には妥協的だった。
 1070年代にドイツで起こり、その勢力を拡大したヒルサウ修道院は、グレゴリウス主義と同じように俗権による教会保護(俗人による聖職任命)は、腐敗につながるとして排撃。地方豪族にとっては、ヒルサウ修道院のそのスタンス(国王またはその配下の教区司教の保護下に入らないこと)と修道院が持つ農業技術は望ましいものだった。また法王にとっても直轄の自由修道院を持つことは支配権の拡大に役立つので歓迎した。
 グレゴリウス改革は教会規律の刷新が目標ではあるが、それには教会の現実の支配者であり利害を持つ世俗の権力、またはそれと結びついている封建貴族的高位聖職者の利益を奪うことになるので全面的な闘争であった。
 カトリックの正統の教義では、聖職売買によって聖職者となった者から聖職を受けるのは、不法ではあるが有効。その教義は13世紀のスコラ学者がアウグスティヌスの原理に帰って確立した。
 『使徒的生活の理念を育成し鼓舞したのも、これを修道院にとじこめてその翼を切り取ったのも、ともにグレゴリウス主義であった。』(P162-3)
 イノセント三世は新しい宗教運動の集団のうち、教会に組み込めるもの(なるべく取り込めるように緩やかな基準で判断した)を修道院として組み込むと同時に、たとえば謙遜者(ファミリアーティ)には説教の許可も与えた。これまで教会に組み込まれたら限られたものしか説教できなくなって、民衆は彼らが求める使徒的清貧と道徳的厳格主義を掲げる別の宗教運動の集団にひきつけられることになっていた反省をいかした。そしてファミリアーティは異端の防壁として非常に有効に機能することになった。
 異端を説得するには、権威ではなく、異端と同じように使徒的生活を実行していなくてはならなかった。