禅思想史講義

禅思想史講義

禅思想史講義

内容(「BOOK」データベースより)

禅者は、なにを、どう考えてきたか。禅の興起から二十世紀の鈴木大拙まで、新たな知見を踏まえて、“禅”を語る画期的論考。


 禅思想の歴史、どのような経緯で禅の違いが生じたかなどがざっくりと書かれる。
 禅宗にとって坐禅は重要。『しかし、にもかかわらず、中国の禅の語録を読んでゆくと、坐禅の解体と日常の営為、それこそが禅思想の基調であったのだと感じないわけにいきません。』(P5)
 『うんと簡単にいってしまえば、ありのままの自己をそのまま「仏」として肯定するか、あるいは、ありのままの本来の自己を否定しのりこえたところに「仏」としての本来の自己を見出そうとするか、その二本の軸の間のさまざまな対立や交錯や統合の運動が、禅の思想史を形作ってきた』(P9)。
 以下、メモ代わりで、基本的に自分の感想などはごっちゃにならないように、なるべく一段落丸々()にいれている。
 「第1講」
 則天武后の時代に、彼女が神秀に深く帰依したことで、禅宗が中国の歴史の表舞台に登場してくる。神秀の弟子である普寂、義福も引き続いて唐王朝の帰依を受けた。そんな普寂、義福の絶頂期に神会が彼らと対峙する。
 神会は「北宗」(普寂や義福)は漸悟(段階的に悟っていく)を説いたが、「南宗」(神会ら)は頓悟を説くと主張した。
 北宗の禅と一口に言っても複数の流派があるが最大公約数的に言うと『(1)各人の内面には「仏」としての本質――仏性――がもとから完善な形で実在している。/(2)しかし、現実には、妄念・煩悩に覆い隠されて、それが見えなくなっている。/(3)したがって、坐禅によってその妄念・煩悩を除去してゆけば、やがて仏性が顕れ出てくる。』(P32)というもの。
 北宗、つまり『最初期の禅宗は、いわばありのままの迷える自己を、坐禅という行で克服し、もともとあった仏としての自己を回復する、という禅でした。その意味ではたしかに「坐禅・内観の法を修めて、人間の心の本性をさとろうとする宗教」だった』(P39)。
 しかし神会はそれを批判した。坐禅を身体的な行ではなく、その文字の意味から精神のあり方の意に転換して、坐禅自体を否定的にとらえた。
 太陽と浮き雲の、太陽(仏性)はあるが、雲霧(迷い)で見えなくなっているというたとえでいうと、北宗は『実物としての迷い(雲霧)を禅定によって取り除いてゆき、最後のその奥でひそかに輝いている実物としての悟り(太陽)を顕現せしめる、そんな実物的イメージが濃厚でした』(P44)。一方で神会からすると太陽(悟り)も浮雲(迷い)も自己の本質でなく、大空というスクリーンに映っているものに過ぎない。そのスクリーンに「自ら」気づくことが悟りであり、そのため漸悟(段階的に気づくこと)はありえない。
 (禅定で得た「悟り」も迷いも、結局自分の心ではかなく移ろう無常な一つの状態である。自分の心を突き放して、ただどちらも自分の心(スクリーン)に移る映像にすぎず、それらが単なる映像・一つの状態に過ぎないことに気づく。そのスクリーンという存在に気づき、今まで煩わされていた心の状態を突き放して、ただスクリーンに映る影のように見れるということが本当の悟りであるということかな?)
 そして禅定は迷いの映像を切りとって、悟りの映像を焼き付けようとするものでスクリーンそのものを台なしにしかねないので(禅定を行っていると、浮雲がない状態を保つことに腐心して、スクリーンを気づくことを妨げるということかな)、禅定を否定する。
 神会の立場は『(1)各人に具わる仏としての本性は、虚空の語と組む限定・無分節なものである。/(2)迷いも悟りも、その虚空の上を去来する影像にすぎない。禅定によって迷妄を排除し清浄を求めようとすることは、本来飲む限定・無分節を損なう愚行にほかならない。/(3)虚空のごとき本性には本来的に知恵が具わっており、それによって無限定・無分節なる自らの本来性をありありと自覚するのである。』(P47)
 そうした考えから『現実態の自己が日常の営為のなかで常に無分節の本来性を自覚しつづけている――坐禅の解体とそれに表裏する日常的現実の即自的肯定という唐代禅宗の基調』(P52)が生まれて、『ありのままの自己がそのまま仏だという方向にぐいぐい進んでゆく』(P52)。
 妄心による分別を離れ、『あらゆること「只没(ただ)」やるとき、あらゆる行為はおのずと「活撥撥」となり「一切時総(すべ)て是れ禅」』(P61)となる。こうした禅が馬祖の系統で推し進められて、唐代禅の基調となった。
 「第2講」
 中唐以降主流となった馬祖禅。即心即仏、作用即性、平常無事の3つがキーワード。
 即心即仏とは、『己が心、それこそが「仏」なのだ、その事実に気づいてみれば、いたるところ「仏」でないものはない』(P71)ということ。
 そして、そこからでてくるのが、作用即性『現実態の活き身の自己のはたらきは、すべてそのまま「仏」としての本来性のあらわれにほかならない』(P71)という考えである。
 そうした考えに基づいて、悟りが特別な秘伝などではなく、そうであることを気づかせるために、叩いたりなどして瞬間的痛感によって、それを悟らせようとしたりする。
 (うーん、そうやって痛いと感じるはたらき、心の動きを感じることで、そうしたものが影であること、スクリーンの存在をわからせる。そうしたことを自覚・得心することで悟りにいたるということだろうか?)
 平常無事、己の外に仏を探すのではなく、ありのままの心が道であり法界である。そのため人為的修行でそれを汚してはいけない。
 その3つのキーワードは、『実際にはひとつの考えです。すなわち、自己の心が仏であるから、活き身の自己の感覚・動作は全てそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などはやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。』(P85)
 『こうした考え方は、頭でこしらえた観念に呪縛されている人に対しては、新鮮な解放の力となったでしょう。しかし、このありのままが、最初から所与の正解となってしまったら、人々がいともかんたんに自堕落で安逸な現実肯定にながれてしまうであろうことは想像に難くありません。そのため、馬祖の弟子たちの間からも、こういう考えに対する違和感や会議、更には批判や超克の姿勢が出てくるようになりました。』(P86)
 そして『ありのままの自己の是認とありのままを超えた自己の探求、その二本の軸の間の対立や交錯や融合の動きが、この後の禅の思想史の基本的な構図を形作ることになる』(P101)。
 たとえば江戸時代にもそうした対立があった。たとえば盤珪禅師は唐代禅的なありのままの自己の是認をしていたようだ。
 「第3講」
 宋代禅。
 公案禅は、文字禅と看話禅の二つにわけられる。『「文字禅」は、公案の批評や再解釈を通して禅理を闡明しようとするもの。』(P117)『いっぽう「看話禅」は、特定の一つの公案に全身全霊を集中させ、その限界点で心の激発・大破をおこして決定的な大悟の実体験にいたろうとする方法です。』(P117-8)
 文字禅の精華『碧厳録』が主張する3つの論点。
『(1)「作用即性」と「無事」禅の否定――ありのままの自己をありのままに肯定するという考えは迷妄である。
 (2)「無事(0度)」→「大悟(180度)」→「無事(360度)」という円環の論理――ありのままに安住せず、決定的な大悟徹底の体験を得なければならない。大悟徹底の体験を得たうえではじめて、すべては本来ありのままで円成していたのだとわかる。
 (3)「活句」の主張――大悟徹底のためには、公案を字義に沿って合理的に解釈する立場を捨て、公案を、意味と論理を拒絶した絶待の一語と看なければならぬ。』(P120)
 この3つめの論点もあって、『碧厳録』の著者である圜悟克勤の弟子大慧宗杲が看話禅を確立。
 唐代の問答は一見不可解だが、己れ自身がその答えだと「自覚」させようというやりとりが仕組まれていた。『ところが宋代になると、問答は、初めからいかなる意味も論理も含まない、絶対的に不可解なコトバ――「公案」――として扱われるようになる。』(P132)そうした公案は『知的分別を奪い去り、その心を追い詰めて捨て身の跳躍を迫る』(P132)ために、理屈抜きに一気に悟らせるために、利用された。
 『ありのまま(0度)⇒ありのままの完全否定(180度)⇒本来のありのままへの回帰(360度)――このような円環の論理は、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾と言う唐代禅以来の長年の課題に、一つの解答を与えるものだった』(P153)。
 大慧宗杲の「看話禅」の形成、曹洞系の「黙照禅」に対する批判を重大な契機としていた。
 「看話」の完成によって『それまで優れた機根と偶然の機縁にたよっていた参禅が、誰しも追体験可能な方式として規格化されたのです。しかしその反面、これによって「悟り」が無機質で平均的な理念と化し、禅の個性的な生命力が衰退していった』(P159)。そして『禅がこのあと中国本土で新たな思想的発展をもちえなかった』(P160)が、いっぽうで看話の方法が確立されたことが東アジアや欧米までへと禅を広める力となった。
 圜悟が批判したありのままの「無事」禅と、大慧が批判した「黙照禅」は全くの別物にみえるが、『本来性(本覚)に自足し、現実態の契機(始覚)をもたない、という点では、択ぶところが無かった』(P162-3)という点では同じ。
 『大慧も、人はひとりひとり本来みな仏であるという大前提(「本覚」)に立っています。しかし人は、現実には迷っている。だから看話によって大悟し(「始覚」)、それによって、迷える現実態の自己(「不覚」)を克服し、本来の覚り(「本覚」)に立ち返らねばならぬ――それが大慧の主張でした。「本覚⇒不覚⇒始覚⇒本覚」というこの構造は、近くは『碧厳録』に看られた円環の論理をつぐものであり、遠くは最初期のいわゆる「北宗」禅に――方式を禅定から看話に発展させつつ――回帰するものでもありました。』(P163)
 その円環の論理は中国禅の論理の一つの完成形。『十牛図』の構成は、この円環構造を視覚化したもの。
『A 本来ほとけであるから、あらゆる行為(行住坐臥)はすべてさとりのあらわれである。
 B 本来ほとけであるからこそ坐禅が必要である。坐禅のときにさとりがあらわれる。
 C 本来ほとけであるが(理として)、現実は迷っているので(事として)、さとらねばならない。』(P164)Aが平常無事の禅、Cが看話禅、Bが道元の立場。
 道元の「本証妙修」「修証一等」などと呼ばれる考えは、『単純化していえば「本来仏だから修行する」「修行し続けているから本来仏なのだ」という不可解な論理ですが、(中略)、相い対立するA「本覚」の禅とC「始覚」の禅の両極を同時にのりこえるという、いわば禅宗史の必然から生み出されたものだった』(P165-6)。
 道元によれば『「仏」というものは普段の修行のうえに一瞬一瞬に実現され続けるものであって、何もしていないところにありのままに存在しているものではない。』(P168)
 『禅宗史上における道元の主張の新たな点は、唐代禅(「本覚」の禅)のみならず、唐代禅の克服を目指した宋代の禅、とくに大慧の看話禅(「始覚」の禅)、それをも同時に克服しようとしたところに見出されなくてはなりません。』(P170)
 『「本来仏だから修行する」「修行し続けているから本来仏なのだ」――道元のこの特異な論理は、「本来仏だから修行などせず、ありのままでいるのがよい」という「唐代禅」型と、「本来仏であるが、現実には迷っているので、修行して悟りを開かねばならない」という「宋代禅」型、その矛盾を普段の修行によって一瞬一瞬に止揚し続けようとするものでした。これは、ありのままの自己に対する肯定と否定の矛盾という長年の課題に、宋代禅の円環の論理とは別の、もう一つの論理で応えようとしたものとも言えるでしょう』(P176)。
 ただ、理論的に見れば『修行していないとき「本証」がどこにあるかを説明できないと言う致命的な欠損があるように思われます。』(P176)とのこと。
 第4講は鈴木大拙の思想についての話。