同志社大学神学部

出版社からのコメント

◎「知の巨人」の原点。鬼才・佐藤優はこうして誕生した!
――神学は、人間の役に立たない「虚学」だ。虚学であるが故に、危機的な状況で人間の役に立つ神学という不思議な知を、わたしは、同志社大学神学部で、全人格を賭して教育に従事するすぐれた神学者たちと、他者を自己よりもたいせつにする友人たちから学んだ。
amazonの商品説明より)

 著者の自伝・回想記的な本は面白いものが多いので、他の著者の本は(著作が非常に多いということもあって)あまり読まないけど、そうした本は文庫化したら毎回読んでいる。ただ、新書化するとは思っていなかったので危うく見逃しかけた。
 第一章は学生運動に関する話が、第二章では神学部の教授たちとの話を中心として神学部について話され、そして第三章は著者の別の著作でもよく名前がでてくるフロマートカの話、そして第四章では外交官になろうとして合格して外務省に入るまでの話が書かれている。
 第一章は学生運動についての話がメインで、共産主義系の思想についてや、学生運動キリスト教についての話などが書かれているが、それはニッチ過ぎてあまり興味ないし、思想など理屈についての話が多かったので、個人的にはちょっと微妙だったかな。
 そうしたその時代特有の話よりも、第二章以後のもっと一般的な神学についての話だったり、あるいは著者の大学時代の先生方との対話などの話のほうが個人的には好みかな。
 そうした師弟関係とはいわないまでも、良好な関係で色々なことについて話し、教わっている姿を見るのは好きだな。
 四章の外交官になるまでの話は、私が読んだ著者の別の自伝・回想録的な本ではさらっと触れられていた程度だが、今回はそうなろうと思ってから、実際に外務省に入るまでの過程がより細かく書かれている。
 フロマートカの『フィールドはこの世界だ』という言葉、教会や神学部でなく神学は現実の中で営まれるべきだという考え。そして福音はキリスト教徒だけでなく、無神論者のためにもあるという信念を持つ。
 フロマートカのマルクス主義者との対話(政治的な妥協・歩み寄りでない対話)。その対話の中から「人間の顔をした社会主義」を求める運動が生まれる。プラハの春の思想的源流の一つがフロマートカの影響を受けた改革波形マルクス主義者。
 フロマートカ元はルター派で、後にルター派と改革(カルバン)派を合同してチェコ兄弟団福音協会を作る。社会に積極的に関与するのでカルバン派と思われることが多いがルター派で、彼に残るルター派の影響としては『神が、人間の悲惨さの最も深い深遠に一人子であるイエス・キリストを送ってきたという考え方だ。これがフロマートカ神学の骨格をつくっていると僕は考えている。もっとも悲惨なところに下降したから、そこから神によって引き揚げられるという弁証法だ。(中略)カルバンのように、神の栄光のために人間が生きているとフロマートカは考えない。人間の苦難や不幸と言う要素をカルバンよりもずっと重視する』(P237)ということがある。
 フロマートカの対話についての話をしている相手の『しかし、根源的なところで、対話は成立するのだろうか。一方が他方を呑み込むのでなければ、結局、双方が理解し会えないまま、平行線をたどるのではないだろうか』(P263)といって、フロマートカは対話が成り立つと本気で思っていたのかそれとも本心ではキリスト教が勝利すると思っていたかと問われ、若き著者は『究極的には、マルクス主義に対してキリスト教が勝利すると考えていたと思う』(P263)と述べた。それに対してそれならば対話は成立しないのではないかといわれる。ここら辺の会話は印象に残った。
 ラストの著者が外務省に入ることとなって、世話になって教授方に連れられて高いお店に連れてに行ってもらったときの『石井先生が、「現実の人間の世界は薄汚れている。教会でも大学でも、ほんとうに考えていることを話すことができる人は数人もいない。家族だってほんとうに理解し合えているのかどうかわからない。ただ、人間には、利害や打算、憎しみを超えて、ほんとうに誠心誠意理解できる瞬間がある。残念ながら、それは瞬間で、長続きしない。しかし、そういう瞬間を体験した人とそうでない人では人生が異なってくる。僕も野本君も佐藤君たちとそういう瞬間をつかむことができたと思っているのです。それは僕たち人間の力によるものではない。イエス・キリストを通じた神様の力によるものです。頑なになった人間の心を開く力がキリスト教にはある」と言った。』(P371)この餞別の台詞いいなあ。