ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797

ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797 (講談社学術文庫)

ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797 (講談社学術文庫)

内容(「BOOK」データベースより)

多様な宗教や帝国が角逐を繰り広げた東地中海世界で、東西ヨーロッパの結節点として存在を誇った都市国家ヴェネツィアは、いかに興隆し、衰退したか。十字軍の時代からナポレオン軍による崩壊まで、軍事・造船・行政の技術や商業資本の蓄積に着目し、文化の相互作用のドラマを大きなスケールで描く。現代を代表する歴史家の一人、マクニールの代表作。

 この本は『十一世紀から十八世紀までの間に南および東ヨーロッパを去来した様式と技術の潮目を描くことを目的としている。』(P15)そうしたことを『レヴァントとイタリアの関係に焦点を合わせ』(P21)て書く。
 ヴェネツィア東方正教世界ならびに東ローマあるいはオスマン・トルコとの交流と文化的な影響などについて多くのページを割いて書いてあるので、そうした世界の歴史について詳しく書かれている。
 東方正教世界でもイタリア・ルネサンスの技術と思想の受容はあったが、『やや時間的に送れ(主として十七世紀に生じた)、北西ヨーロッパの場合よりも少数の人々に影響を及ぼしたに過ぎなかった。』(P19)
 1080年代あたりよりイタリアの海上勢力が勃興しはじめる。
 その時代は騎士が戦場において極めて強力な力を持った時代で、そうした時代は1081年のロベール・ギスカールビザンティン帝国への攻撃から、1282年にシャルル・ダンジューの同様の企てが失敗するまで続いた。
 ヴェネツィア人はそのロベール・ギスカールのビザンティンへの攻撃に対して、ビザンティンを援助した見返りに免税特許を得た。そしてその結果『コンスタンティノープルエーゲ海および地中海諸地域との海上貿易は、急速にヴェネツィア人の手に集中することになった。』(P27)そしてエジプトとの貿易も拡大し、香料・奢侈品を入手し、ラテン・ヨーロッパの富裕層に販売。
 そのようなラテン・ヨーロッパとレヴァントとの主要商業仲介者の役割は、『ほとんど中断することなしに十六世紀のなかばすぎまで演じ続けることになった。』(P27)
 ヴェネツィアの成功の要因の1つとして、1104年より造船所を確立し、標準化された(交換可能な)部品による船の大量生産がはじまったことがあげられる。
 造船所は『その全盛期には、造船所は、完全に艤装した一席の船を一時間以内に組み立てることができた。』(P29)1574年にフランスのアンリ三世のヴェネツィア訪問時に達成。この造船所のおかげで、ヴェネツィア海軍の量と力は増えた。
 その海軍力で、十字軍が建国したエルサレム王国に協力して免税商業券をもらったり、あるいはビザンティンに破棄された特許を更新するように圧力をかけるなどして商業上の権利を手にしていく。
 ビザンティン帝国では海軍は戦闘にのみ用いられ、商業活動はしなかった。『イタリアの軍用船は、敵に打撃を加えるのと同じような熱心さで、たまたまであった誰とでも商品の交換を行った。』(P33)戦利品とそうした交易利潤のおかげで『イタリアの船舶業は自分自身でもとを取るか、あるいはそれに近い所にまで行った。』(P33-4)
 そうした違いもあって、はじめてヴェネツィア人が免税特許を得てから1世紀を経ずして『帝国の遠距離・海上商業のほとんど大部分はイタリア人の手中に帰した』(P34)。
 地中海南岸のモスレム諸民族の地には森林が乏しく、造船するのに輸入材が入用だったので費用がかさんだので、イタリアは材木と費用の点で利点があった。そしてビザンティウムに対しては肋骨と板の構造で安価な外洋用の船を生産する技法をイタリアで開発されたことで優位に立つ。
 血族関係にない人々の間で相互の信頼と協力をすることは難しいものだが、『十一世紀以降、商売のスケールが急速に膨張すると、ヴェネツィア人やその他のイタリア人たちは、すぐに同じ都市の者にすぎない仲間と一緒にコッレガンツァに入る態勢になった』(P51)。
 地中海におけるヴェネツィア植民帝国の長寿は『中央集権化された官僚的行政と、海外に居住するヴェネツィア人の地方的共同体が国事に参加することを奨励している諸制度とが巧妙に組み合わされているところから生じたものである。』(P70)
 植民地における行政の持続的な形態はクレタにて作られる。本国の統治形態を単純化したモデルで、その執行権はヴェネツィアから任期2年で指名された官僚に与えられることで、中央集権的なコントロールが確保された。
 改良された遠洋航海用船舶で『一二八〇年ごろから、従来よりも大型の船が冬でも夏でも当然のこととして航海し、より多くの商品をこれまでよりも安全に、短い往復時間で運んだ。』(P91)他にも強力な舵取り装置などさまざまな改良があり、また石弓による船の防衛力の向上もあって、輸送費が減少。そして航海がフル・タイムの職になったことで、『市民兼船乗り兼兵士兼商人兼何でも屋が、消滅し始め』(P93)て、社会的分化が生じることになる。
 『一四世紀の一〇年代、二〇年代に確立した商船隊に対する公的規制と管理は市場の一時的あるいは地方的独占による法外な利益を、個人や私会社がかき集めることをますます困難にした。そのうえ、ガレー商戦の指揮権を公けに競争入札することは、入札値を期待される利益に見合ったものにするという効果を持っていた。こうして、商業的利潤のかなりの部分を国家へ振り向けることになったのである。』(P106)
 そうした規制は『多くの種類の商品が、管理の規制から除外されていた』し、アドリア海内での航海に規制はなかったので『私的船舶所有者が活動する広範な余地が残されていた』が、『これ以後約二世紀の間、ヴェネツィア貿易の基本的リズムと形態は、国有ガレー商船の往復と、遠距離貿易に従事している私有のコグ型船に適用される商船団(ムーダ)の規制によって支配されることになった。』(P110)
 このシステムによって『小貿易商人も、ガレー船を利用することができ、最大の船主に対しても同じ運賃を払えば良いことが保証されているので、誰とでも平等の条件で競争することができた。(中略)当局は、かならず、この事業に参加を希望するものすべてが平等時の条件で利用できるような商船団を組織する子音によって、商業上のこの分野を商業共同体に開放するべく活動した。』(P110)
 そしてこの『一三三〇年代に確立した遠距離貿易のための法的制度は、ヴェネツィアの政治組織の内部において、社会階層の上下を問わず活き活きとした愛国心を維持するのに十分な広範囲にわたる富の配分を行い続けた。』(P111)
 ヴェネツィアではかつて緊急事態のときの手段であった、不動産などに対して直接税をとることが1453年以降恒常的となる。そうした直接税・間接税をとることで、『一五世紀までに、共和国は、イタリアにおけるどのライヴァルよりも大きな年収を教授していた。更に、地図の上でははるかに大きな多くのヨーロッパの王国の年収よりも、恐らく多くの年収を得ていたであろう。』(P123-4)税は重かったが、都市内部では安い食料の提供など貧民を助けた。税の重さは他の国家も匹敵あるいは凌駕していたが、ヴェネツィアでは官庁の会計管理が複雑で有効なもので、商業会社のように国家が運営されていた。
 ヴェネツィアは強国になったことで有利な保護費利益を失い、増える防衛費と行政費が商業利潤に食い込む。『防衛を私人の手にゆだね、私的資本の蓄積にブレーキをかけないでおくことは、ジェノヴァの運命が明らかに示しているように、自殺行為であった。ヴェネツィアは、この危険を回避することはできた。しかし、それは、ヴェネツィア人が管理、書記、会議、委員会の数を増やし、総コストをいちじるしく膨張させたことによって達成されたのでった。』(P130)
 ビザンティンの崩壊、オスマンの伸張。托鉢僧団(デルヴィッシュ)が『感情に協力に訴える音楽とダンスを含む特徴的な儀式は、錬達者を神との神秘的な交渉に導いた。このような経験を持ったものは、神学的な教義の細部に関心を抱くことはなくなり、イスラムキリスト教との境界線があいまいになり、両者の差がほとんど減滅するまでに至る。事実、〔イスラムへの〕改宗者は、正式かつ公式のキリスト教を放棄するのと同様に、正式かつ公式のイスラム教を超える神への途を追求するように要請された。これが、イスラムへの改宗をいちじるしく容易にした。キリスト教徒は、かれらの過去を拒否するのではなく、ただそれを乗り越えることを要求したのである。』(P135)
 そして『組織された公認のスンニー派イスラムが、オットマン国家におけるモスレムの行為の日常的な規制を行うようになると、かつて〔イスラムの〕最前線で生じたようなキリスト教からの改宗が、ほとんど終わりを告げることになった。これは驚くべき、そして基本的に重要な事実である。公認のイスラムを法的に明確にすることは、改宗を奨励することにはならなかった。戦争が永引き、托鉢僧的・ガージー的伝統の活動の場が再び開けていたところにおいてのみ、一四〇〇年ごろ以降でも大量の改宗が生じていた。』(P141-2)托鉢僧団、異端的・神秘主義的なものの活動範囲が狭まり、正統イスラムの信仰が規定されることで改宗者が減るという事実は面白い。
 トルコによる征服の前夜、正教圏では神秘主義的思想である静寂主義(ヘシカスム)が広まる。そして『このような神聖な存在との衝撃的な出会いを経験したものを知っていたりするキリスト教徒は、ラテン神学にも、イスラムの托鉢僧団の教えにも関心を抱かなかった。このようなよろいによって、ギリシャ正教は一五世紀に頻発した政治的・軍事的危機から身を守ったのである。』(P161-2)
 フィレンツェ公会議、ラテン・東方両協会の統一に向けた動きは正教圏で大いに反発が起きる。
 オスマン・トルコではスルタン・メフメトは、コンスタンティノープルの総主教の威信を増大させた。そしてキリスト教の臣下に関する重要な問題がコンスタンティノープルの総主教の役所に向けられるようになるなど行政上の役割も担うようになる。そのようにしてキリスト教高位聖職者の権威・権力が増大したものの、オスマンの宰相はその地位を一種の国家の高官のような認識で賄賂による地位の売買なども起こり、堕落も生んだ。
 大航海時代になって、ヴェネツィアは交易でかつての力を失うことになる。
 16世紀ヴェネツィアの貴族は商業から手を引きはじめ、1570年代の深刻な商業危機で商業が土地所有よりも利益が少なくなったとき、『土地所有とその他の金利生活的投資が、最終的にヴェネツィア貴族の間の規範となる』(P214)。
 ヴェネツィアは、教皇ハプスブルクが率いる反モスレム連合に対する全面的協力を拒否していた。教皇カトリック改革の一環としてそうした宣伝を行っていたが、その対トルコへの要請を拒否していたため、その改革に対しても抵抗することになったヴェネツィアは(ルネサンスの開始は遅かったが)ルネサンスの影響が長い間残ることになった。そしてそのことが東ヨーロッパの東方正教世界やプロテスタント・ヨーロッパをひきつけて、『一五三〇年から一六三〇年まで、パドヴァ大学は、ヨーロッパ第一の大学となり、ヨーロッパの東西の知的エリートたちにとってもっとも重要な出会いの場になった。』(P221)
 16世紀後半から17世紀前半にかけてヴェネツィア衰退。彼らの香辛料貿易はオランダによって決定的に力を失い、そしてそれまで中央ヨーロッパの金銀鉱は大部分ヴェネツィアを通して流れていたが鉱脈の枯渇・新大陸からの貴金属の流入で収入を落とし、また造船業も森林が少なくなったこともあり力を失った。
 1630-1年の疫病の流行でヴェネツィアの3分の1の人間の死という大きな出来事があって教皇に従うようになる。
 1481-1669年のヴェネツィアは、経済的・軍事的な力が弱くなっていったが、文化的な力はその絶頂期を迎えていた。
 パドヴァの医学校の名声は全ヨーロッパからの学生をひきつける。
 ヴェネツィアの統治層は『パドヴァで教えられているアリストテレスの科学的自然論の内容に深く共感し、あるいは内面的に受容したというよりは、教皇の権力に関するイエズス会士の教えに反発していたために、国家を支配する貴族層は、パドヴァの科学と哲学における自由な展開をヴェネツィアに対する祖国愛と同一視するにいたったのである。』(P275)そうした教皇に対する対立のために、ヴェネツィア東方正教世界は固く結びつく。
 パドヴァ大学への留学などによって、『ヴェネツィアの思想と文化の重要な要素が東方正教世界へ浸透した。これは、一方において、ローマ・カトリックの宣伝に対するギリシャおよびロシアの抵抗に鋭さを与え、他方において、ギリシャ人の世俗的かつ化学的な学問の方法を移植した。』(P282)
 しかし1620-30年代にヴェネツィアの知的リーダーシップは失われたが、音楽は17世紀前半に最も影響力を持つ時期に入った。
 ヴェネツィアカトリックの教義と信仰で覆われた後は、ヴェネツィアの『文化的創造性は積荷かかわる分野に集中することになった。世俗音楽、演劇、賭博、その他の当世風の流行』(P332)などである。