源頼政と木曽義仲

内容(「BOOK」データベースより)

以仁王平氏追討の挙兵に加わり、内乱の端緒を開いた摂津源氏源頼政以仁王の遺児を奉じて、平氏を西へ追い落とし、入京に成功した木曽義仲。悲劇的な最期を遂げる二人は、時代の転換点となる治承・寿永の乱(源平合戦)の幕開きを象徴する人物である。保元・平治の乱、宇治合戦、倶利伽羅峠の戦い、そして都落ちと敗死…。皇位継承をめぐる政治的背景も織り交ぜつつ、二人の実像と動乱の時代を描きだす。


 源頼政には鵺退治の逸話があるが、もともと摂津源氏は『辟邪(魔除け)の物語や伝説に彩られた家』(P4)。
 1153年に鳥羽院の后である美福門院は軍事的にも呪的にも護れる武家として頼政の昇殿を許す。そこで『頼政は、美福門院が後見する二条天皇とその周辺の人々と親しくなることで、鳥羽院政派の中枢部と結びついていった。』(P7)
 木曽義仲の父源義賢は、武蔵野国で起こった大蔵合戦で甥の義平(頼朝の兄)に破れて敗死する。そして幼い駒王丸(義仲)を託された斉藤別当実盛は報復合戦になることを怖れて、信濃国木曽に勢力を持つ中原兼遠に義仲を預ける。
 平治の乱後白河院信西藤原信頼も失うことになったが、この乱で活躍した平清盛と提携することで二条親政派と対抗することになる。
 平治の乱後の主流派である親政派と院政派の対立は権力抗争に終始したが、藤原伊通のような長老がにらみを聞かせていたおかげでそれ以上の事態にならずに天皇親政が行われた。
 1160年に美福門院が没したことで、美福門院の下で二条天皇姉弟同然の生活をしていた八条院がその資産を継ぐ。
 二条天皇には、院制派の憲仁親王(後白河と建春門院(平滋子)の子)を春宮(皇太子)とする圧力がかけられていたが、彼の息子(六条天皇)が誕生したことで彼を立太子して譲位した。しかし六条天皇が二歳で死亡したことで、憲仁親王高倉天皇になる。
 源平合戦の口火を切ることになる以仁王は1165年に還俗していたが、八条院の寵臣三位局を妻としたことで八条院と結びつく。そして三位局との子が八条院の養子として引き取られる。
 憲仁親王の周囲の人々は高倉天皇の次が定まっていないということもあって、大資産家で実力者の八条院の手元にいる以仁王への警戒心があった。
 建春門院御所は後白河院の人間と平氏の一族の円滑な情報交換の場として機能してきたが、1176年の建春門院の死亡でそれがなくなったことでそれができなくなって互いの考えが読みづらくなって次第に疑心暗鬼になっていく。
 六条天皇の逝去で旧二条親政派は押すべき皇子がいなくなったこともあって『鳥羽院政以来の廷臣や八条院荘園の領主といったつながりを持つ人が残ったが、政治的には八条院の周囲は無風地帯となっていた。』(P54)八条院の周囲にはそんな穏やかな世界があり、そんな中で未婚の八条院は寵臣三位局と以仁王の子を孫のように可愛がっていた。
 源頼政は『八条院に出仕し続けたことが、後白河院とも平清盛とも距離を置いた武家として、京都で活動することを可能にした。』(P56)
 平清盛平氏が在京武力を独占することになると、武力を必要とする問題で平氏が全ての責任を背負うことになる。そのため『平清盛に次ぐ第二の勢力として源頼政を意図的に優遇した。』(P57)源平並立という形式をとれば清盛と頼政に責任は分配されて、最終責任は高倉天皇後白河院となる。清盛としても『軍事に関する権限を独占するよりも、責任を分散させられる自立した勢力が存在するほうが都合がよいのである。』(P57)
 つまり『平清盛は、後白河院との政治的な駆け引きの中で、平氏単独で他の勢力と対立する構図に陥らないように、武家源氏の代表として頼政が名を連ねることを常に求めた。平氏の軍勢が主力なのは揺るがないが、頼政の名を加えることで源平並立の建前論を維持し、より譲位の権力者が責任を負う体制をとろうとしたのだ。つまり、責任者が清盛ではなく、後白河院となるように仕向けていたのである。』(P194)
 また、平氏だけでなく朝廷も平氏にすべての武力が集中することを望んでいないので、源頼政が一定勢力を持つ自立した武家として存在することが求められた。そして『摂津源氏の名声は、頼政個人の武威と二条親政派歌人として張り巡らされた人脈によって支えられている。この頼政が持つ有形無形の財産やネットワークは、彼個人に属するものが多く』(P58)、そのため老齢でも中々引退できずにいた。
 鹿ケ谷事件(後白河天皇が清盛失脚を狙った陰謀)で陰謀を清盛に密告した摂津源氏の多田氏は公家社会での信用を失墜し、有力武家として扱われなくなって源頼政の責任がさらに重くなった。この事件の後に平清盛は中立派の源頼政を引き立てることで、公家社会の不満が平氏に集まらないようにする。また平清盛源頼政従三位に推薦して、源平並立という建前を維持した。平清盛頼政を緩衝材・風除けとして重宝して引き立てたことで、中立派の頼政平清盛に近い武家とみなされるようになる。
 鹿ケ谷後の平清盛による後白河院の幽閉。高倉天皇の側近も協力的に動いて、院とその近臣を封じ込める。それで抜けた穴は中立派の八条院の経済官僚から引き抜いた。子供や養子も洛中警護で活躍し、美濃源氏である土岐氏も復活してきたので頼政76歳で出家して、ようやく引退。
 そして高倉天皇が譲位し、安徳天皇が即位する。
 そうして誕生した平氏政権だが『京都の中で平氏を支持する勢力は小さく、公家社会で浮いた状態に陥っていた。平氏の人々は、周囲に対して猜疑の目を向けていた。以仁王の事件が起きたのは、安徳天皇即位の一件で平氏が警戒心を強めていたときだった。』(P76)
 『平氏の人々は、以仁王八条院が手元に持つ皇位継承候補と見ていた。平清盛の娘建礼門院を母とする安徳天皇の周囲から春宮を出せるようになるまで、警戒を緩めることのできないよう注意人物と見ていたのである。以仁王は自重すべき立場に立たされていた。』(P76)
 以仁王と三位局の娘三条宮姫宮は八条院の養女となって母や弟とともに、八条院御所で生活していて、八条院は彼女に八条院領を継承させようとしていた。実際、姫宮を後継者としたが、八条院が長生きだったので姫宮の方が先に亡くなった。
 源為義の子(頼朝の叔父)行家は平治の乱後、熊野新宮に保護されていたが、1180年頼政の推挙で八条院蔵人に任命された。そのことに熊野三山の本宮は、新宮が本来なら罪を問われる立場にある行家を保護するのは黙認していたが、武家として活動を再開するのは咎めた。それでも新宮は行家をかばった。その対立から熊野新宮合戦が起こった。
 その時の熊野本宮の本宮別当湛快の子湛増が合戦の経緯とともに源行家以仁王の陰謀があると清盛に報告した。
 それはあくまでも噂、陰謀論で実際に以仁王が反乱を考えてはいなかった。しかし平清盛は以前から八条院寵臣三位局の夫で八条院と家族ぐるみの付き合いをしている以仁王皇位継承候補と警戒していた。そのため『以仁王に挙兵の意図はなく、また平氏の側も誤報ないし悪意の中傷に踊らされて動き始めたのではないか』(P80)というのが著者の見解。
 平清盛は陰謀を抑えるために上洛し、八条院を刺激しないため八条院傘下の源氏、土岐光永頼政の養子である源兼鋼を追捕使にする。以仁王を捉えて、源姓(皇族から臣下)にして、土佐国に配流することになっていた。しかし源頼政以仁王に使者を送って、そのことを伝えて賢慮を求めたが、その情報によって以仁王園城寺に入った。
 追捕使である養子の失態となるし、また頼政が使者を送ったことが知れたら重大な機密漏洩になる。この一件が結果として頼政を挙兵へと導くことになる。
 以仁王と三位局の子供は女児は八条院の手元に残し、男児は寺に入れることになる。平清盛後白河院とも険悪になっている中で、八条院まで敵に回さないためにも、そうした対応をとる。
 以仁王が無実の罪を被せられたことを聞いた園城寺の大衆は、彼を保護し名誉回復の嗷訴を起こそうとした。朝廷への威嚇のためにも、味方を増やそうと諸国の源氏や豪族に令旨を出す。しかし、まだ、この時点では以仁王平氏も嗷訴で決着が付くだろうと判断していて、合戦になるとは考えていなかった。
 平氏園城寺と敵対的な延暦寺に協力を要請したが、中立か好意的な立場になってくれればよいくらいだったが、延暦寺は宿敵である園城寺焼き討ちをすることを決定する。
 源頼政が新たな追捕使に任命されるも、任務を果たしたとしても情報伝達の件で共謀を疑われかねない。そうして迷ったものの最終的には軍勢とともに以仁王と合流することを決断する。
 そうして合流した源頼政らの武者と園城寺の大衆を引き入って南都へ向かって出立。合戦に慣れている『頼政はこの事件に巻き込まれた人物であるにもかかわらず、結果的に事件を主導する皮肉な役回りとなった』(P89)。そして以仁王源頼政は敗北。
 この源頼政の滅亡で、平氏は誰もが納得する二番手・武家源氏の代表の存在を失う。そのことで平氏は武力を用いる仕事に全責任を追わされる立場に立たされた。
 そして以仁王の事件で平氏延暦寺とは一時手を組んだが元々険悪な間柄なので関係は元に戻り、その事件で南都・園城寺との関係も悪化した。そこで福原へと首都機能を移転させたが、福原は西日本への交通の便は良いが東日本への移動は不便な場所だということもあって、それが東国動乱への対処が後手に回る要因となった。
 源義仲。挙兵した彼を攻めて来る相手を迎え撃ち、勝ち進むうちに北陸へと軍を進めることになった。以仁王の遺児北陸宮が木曽義仲のもとにくる。このことで木曽義仲は勢力の大きな反乱軍から、『以仁王の遺児を報じる皇位継承戦争の有力者に立場を還ることになる。安徳天皇を奉ずる平氏。北陸宮を戴くことで以仁王挙兵の大義を継承する義仲、後白河院と結ぶ頼朝、この内乱の規制を定める三者の政治的な立場が明確になったのである。』(P130)
 義仲は北陸宮を富山に残したまま入京した。そして国政を知る僅かな者も北陸宮と共に連れてきてなかったことが後白河との交渉での弱点となる。
 当初素朴に北陸宮を受け入れるだろうと持っていた。しかし後白河院は清盛を奸臣と決め付けた以仁王大義を継承した義仲よりも、源平並立に戻ることも認める源頼朝の方が好ましかった。そのため頼朝を勲功第一としたし、北陸宮が即位することを好ましいとは思っていない。また、北陸宮は以仁王の遺児であっても、八条院の寵臣三位局との子ではないため、八条院も冷淡でそちらからの助力も得られなかった。
 義仲との交渉が決裂したことで、後白河院は義仲調伏の御敵降伏の祈祷という挑発行為を行わせた。そのことで義仲は後白河院を攻める決意をした。そして法住寺合戦が起こって、後白河院が軟禁される結果となる。しかしこの合戦によって今日の人々は義仲を見限ることになる。そして義仲は鎌倉軍との戦いで敗死することになる。